弥生三月に思う@ 

 弥生3月ーー水ぬるむ日々、木々が芽を噴出し、風が匂います。
 この卒業、就職、入社シ−ズンがくると、いつも思い出されることがあります。

 そう、1960年代半ば、前年秋に湿性肋膜炎で3カ月入院を余儀なくされた私は、学校へ戻っても情熱を失い何をすることもなく、結局留年を決意したのでした。
 その気になれば、アカデミズムの世界に進むべくも考えたのですが、なぜか、まったく無為に明け暮れるだけだったのです。

 そして、ぶらぶら1年。
 心配された梅原猛先生には就職先にと読売テレビ、松竹芸能、淡交社などを紹介していただきましたが、首尾よくゆかぬまま、また1年がたっていきました。
 「やはり、どこかへ就職しなさい」
 と厳しく言われたたのが、高橋和巳さんでした。

 そして、河出書房を受けてみよ、というのです。
 但し、これには条件があって、奈良本辰也先生の推薦が是非必要だというのですね。
 当時、「大辰・小辰の立命史学」は奈良本辰也、林屋辰三郎が教陣を張り天下にその名も轟いていました。
 一介の哲学徒にはその面識がなかったのですが、梅原先生にご相談申し上げると、先生はいとも気軽に奈良本先生のお宅に連れていってくださったのでした。

 その頃は一部の教授陣を除き、マルクス系学者の巣窟と化していた関西の三流私大で、しかも文学部哲学専攻生を受け入れる企業などあるわけがありません。東京の出版ジャナーリズムの世界には興味がありました。

 高橋さんは、目の前で用紙5、6枚にわたる推薦・紹介状を書いてくれました。
 「よし、これでいいでしょう。坂本一亀さん宛に書きました。これを持って東京に行ってきなさい」

 『悲の器』で華々しく文壇に登場し、『邪宗門』の連載も始まった新進気鋭の作家は、そして、その夜、激励の一献を注いでくれたのでした


【2005年3月9日】

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