死と詩の男のドラマ

 テレビ朝日開局45周年記念、石原慎太郎原作・ジェームス三木脚本『弟』は、「戦後圧倒的な人気で昭和史を飾ったスーパースター石原裕次郎の52年の波乱の生涯」を描く5夜連続(11月17日〜21日)のスペシャルドラマでした。
 時々、私もそのテレビを見ていました。
 殊に後年ガンに犯されて壮絶に闘うシーンには思わず涙することになったりしていました。

 というのも、不遜僭越ながら、なぜか脈絡もなく、私はそれを高橋和巳の死に向かう日々に重ねていたのですね。

 ーー思えば、当初、高橋和巳のガンは固く伏せられていました。
 関西系には誰にも知らせないというのが高橋たか子さんの意志のようでした。ですから、小松左京氏をはじめ『対話』同人も、誰1人として病気見舞いには行っていないのですね。
 かくて、高橋和巳の「三度目の敗北」への小松さんの呼応はないまま、河出書房の坂本一亀氏、また埴谷雄高氏を中心にして、筑摩書房の『人間として』同人(大江健三郎、小田実、開高健、柴田翔、真継伸彦)等によりことは慎重に運ばれていったのです。

 でも、梅原猛先生は慌ただしく病院に駆けつけられました。
 それは梅原猛先生に知らせておけば京都系はいずれも通達できるとしたからです。私も1日、「いらっしゃい」とたか子さんに電話で言われたのでしたが、なぜかその日は失礼しました。思うに、それは最後の別れの意味だったのであり、不覚なことをしたとかえすがえすも慙愧に耐えません。
 
 1日、井波律子、古川修と東京女子医科大に行ったのでしたが、面会謝絶で私共は廊下で疲れたたか子さんにお会いするだけでした・・・・。

 まだ鎌倉で養生されているときは、冷却のローヤルゼリーをお持ちしたりしていましたが、
 「どうやら高橋和巳が危ない」
 という風評がたっていったのです。
 1971年、春から初夏へ、季節は巡って行きました。

 その克明な病状経過については高橋たか子さんの「臨床日記」(『高橋和巳の思い出』構想社)に明らかにされていますが、とまれ、「高橋和巳の死」など予想もつかぬことで、お互いにやっと長いモラトリアムを抜けて生業とやらにつき、結婚して一家を構えたところだったのです。
 まだまだ、高橋塾生としては教えを請わねばならぬことがたくさんありました。聞くべきこと、尋ねるべきことがまだまだ山のようにありました。
 そして、文学と志は、その「褐色の憤怒」とともに阿修羅のように燃え上がらねばならないものでした。

 結局、病床に喘ぐ高橋さんとは何一つお話もできず、また微力にして私はその闘病について何のお手伝いもできなかったのです。
 「高橋和巳のためなら死んでもいいぜ」
 というのが、わが同志のいつもの合言葉でしたが、まったくそういうドラマにも無縁のまま、ただ死を見送るだけの無情無力この上ない身に甘んじるしかなかったのです。

 ーー京の紅葉も見頃のようです。
 小春日和が続きます。そして、窓一杯の陽の光を浴びつつ、ふとくるめきの中に高橋和巳と散策し、議論し、酒飲んだ日々が走馬灯のようにまた駆け巡ってゆくのです。

 【2004年11月23日】


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