演劇
新作能
自天王
・実朝(新作能)
・銀河鉄道の夜(新作能)
・小喝食(戯曲)
・孤独がぼくたちの瞼をとじる(戯曲)
・失楽園(戯曲)
・血と廃墟(詩劇)
◆『小喝食』の舞台
◆劇団現代劇場の活動
◆季刊・演劇雑誌『現代劇場』について
◆小松辰男の風景ーー『夢は荒野を』
◆演劇評「草迷宮ーー妖しい夢魔の舞台のかがやき」
◆白いコートの女(旧稿、散文的シナリオより)
◆演劇という甘美な猛毒の味
◆夢魔劇への招待
◆演劇ノート
「小喝食」
太田代志朗・作
小松 辰男・演出

1963年(祇園会館、山一ホール)
劇団現代劇場について
●活動記録
劇団現代劇場は1962年12月、小松辰男を主宰に発足。
「創作運動を基本路線に幅広い舞台活動を展開」することとした。
当初は創作劇、朗読詩の試み、またテオ・レゾワルシュの公演協力などを中心にした活動であった。だが、しだいに、学園闘争など高揚する時代の中で音楽、映画、美術、ハプニングなど前衛芸術との触れ合いにより、劇団活動のあり方も自ずから大きく変革せざるを得なかった。
後半は水と炎の怒号が渦巻く全共闘運動を背景にした京大西部講堂の活動、その連絡協議会の動きとも微妙に絡みながら、ひとえに京洛の百鬼夜行の小松辰男の個性と行動に拠る幻想の劇団として、白熱化していった。
●1963年
6月14日
現代劇場第1回公演「小喝食」太田代志朗:作 小松辰男:演出(祇園会館)
●1964年
2月~4月
テオ・レゾワルシュ「マイム・リサイタル」参加(京都会館、大阪・朝日ホール、金沢・北国講堂)
4月28日
「白夜」寺山修司:作 小松辰男:演出(京都山一ホール)
6月20日
太田代志朗・朗読詩「歪んだ儀式」、詩劇「血と廃墟」 小松辰男・演出(岡崎公会堂)
5月5日、6月7日
鎖陰上映委員会主催「鎖陰の儀」協力参加(円山音楽堂・祇園会館)
8月20日~22日
「現代アメリカ前衛音楽演奏会」制作協力(京都新聞ホール)
10月6日
グループNLT京都公演 ジャン・ジュネ作「女中たち」 ジャン・タルデュー作「鍵穴」制作協力(京都新聞ホール
10月14・15日
「小喝食」太田代志朗:作 小松辰男:演出(京都山一ホール)
11月19日
「朗読詩の試み」詩:鈴江百樹 林川健太郎 早水藤夫
●1665年
3月5日
「孤独がぼくたちの瞼をとじる」太田代志朗:作 小松辰男:演出(京都山一ホール)
4月18日
テオ・レゾワルシュ「サヨナラ・マイムリサイタル」制作協力(京都山一ホール)
6月9・10日
「絵姿女房」矢代静一:作 小松辰男・仲村政良:演出(京都山一ホール)
11月25日
「言葉なき一幕」S・ベケット作 小松辰男:演出(京都山一ホール)
●1967年
5月20日
「AとBと一人の女」別役実:作 小松辰男:演出(京都山一ホール)
6月
前衛アーチスト・コンサート「バイオゴード・プロセス」協力参加(京都会館)
●1968年
8月
「世界はオシャカを待っているーー三つのオムニバスよりなる劇精神の現象学」
作・演出:小松辰男(祇園会館)
.11月
「ZONE ここにたっているーーそして?」構成・演出:柳沢正史 水上旬 小松辰男(毎日新聞京都支局ホール)
「フィルムアート・フェスティバル1968」協力参加(京都会館)
「PARODY もしくは薔薇十字団の幻想」公演プロデュース(プレイスポットKYOTO)
●1969年
1月
京大、同志社、立命大に学園闘争はじまる。京大教養学部バリケード占拠、”バリ祭“誕生。
3月
「ピーターズ・ダンス・カンパニー」(竹邑類:構成・演出)公演参加。
村木良彦フィルム作品集。水谷豊と裸のラリーズ・リサイタル。
水上旬+ゼロ次元。宮井陸郎フィルム作品集などの公演・開催の企画制作。
4月
「サロメの羊水より甦生したYOTUYA―IEMONのノゾキカラクリ劇」
小松辰男:作・演出(射手座)
9月
「蛇海」深尾道典:作 小松辰男:演出(射手座)
●1970年
1月
「大人のための童話集70――腹も汚辱でとろけたか、おお勝ちほこった連中め」
小松辰男:作・演出(京大西部講堂)
12月
京大西部講堂大晦日徹宵コンサート企画制作協力。
この徹宵コンサートは、以後年中行事となる。京大西部講堂連絡協議会にコミット。
●1971年
3月
京大西部講堂に木村英輝らMOJO WEST登場。
劇団現代劇場解散。
季刊『現代劇場』について
ドラママガジン『現代劇場』は小松辰男の宰領によって発刊された。
60年代、一劇団が雑誌を持つということは、財政的にどれだけたいへんなことだったか。だが、70年大阪万博に向けて、演劇のみならず、映画、音楽、舞踏、ハプニング、美術など、あらゆる芸術が小松の周辺で熱く萌えようとしていた。それが全共闘運動をひかえた激情と錯乱の日々への挑発的プロセスであったにせよ、われわれは静かに発信していったのだといえる。
同人雑誌が、劇団が、舞踏が、音楽が、美術が、劇団雑誌が、幻想のバリケードという祝祭空間、すなわちその裂帛の劇場に向けて華麗な火花を打ち上げようとしていたのかもしれない。『現代劇場』はそうした京洛の冴えを背景に発刊された、といえよう。
●第1号(1964年2月発行)発行:劇団現代劇場
目次
戯曲「小喝食」 太田代志朗
「小喝食」論 増田靖弘
小喝食の面 中村保雄
小喝食を見て 秋山和生
創作ノオト テオ・レゾワルシュ
演劇時評 小松辰男
運動・空間・舞踏 神沢和夫
詩「お話」 青山孝志
●第2号(1964年10月発行)
「コ―ラと十七錠の下剤による断章」 小松辰男
「詩劇の発想」 増田靖弘
「現代アメリカ前衛音楽演奏会」シンポジジウム記録
詩「虚構の春」 林川健太郎
戯曲「孤独が僕たちの瞼を閉じる」 太田代志朗
●第3号(1965年10月発行)
ブルターニュの漁夫 マルセル・マルソー
現代演劇への提言 テオ・レゾワルシェ
戯曲「無益な会話」 テオ・レゾワルシェ
評論「山崎正和論」 増田靖弘
戯曲「大人のための五つの童話集」 小松辰男
戯曲「失楽園」 太田代志朗
●第4号(1966年6月発行)
戯曲「トランスラシオン」(転位)テオ・レゾワルシュ
評論「環」 林川健太郎
舞踏台本 竹邑類
戯曲「夜想曲」 岡田良一
戯曲「大人のための五つの童話集」小松辰男
余白ーー戯曲について
公演記録および雑誌「現代劇場」にあるように、戯曲「小喝食」「孤独がぼくたちの瞼をとじる」「失楽園」を書き、「小喝食」「孤独がぼくたちの瞼をとじる」を、幸いにも小松辰男が劇団現代劇場で公演にはかってくれた。
戯曲といっても、茫々30余年前のことである。
京都における小劇団の活動だったが、当時、周辺の先鋭な連中はおおむね演劇に深く関わっていた。おかげで若くして芝居の甘美な猛毒の味を覚えた(その後、結構小屋回りにうつつをぬかしたものだが、昨今は歌舞伎や能が中心で、日常の原稿書きのときなどは、小唄、清元、常磐津の音色をなぜか聞き流している。老いた身にはこのテンポと音合いが実に快い)。
このほか、演劇関連でいえば、日本舞踊台本「花の雪」「佐保川」。
新作能「自天王」「実朝」「人麻呂」(未稿)など。戯曲「定家波瀾」(仮題) は藤原定家関連の資料に当たり、ノートを終え、執筆にとりかかったものの放置して数10年が空しく経つ。
わが演劇の世界ーー太田代志朗
■模索と冒険のもとに
公演記録、および雑誌「現代劇場」にあるように、私は戯曲「小喝食」「孤独がぼくたちの瞼をとじる」「失楽園」を書き、「小喝食」「孤独がぼくたちの瞼をとじる」の2作を、幸いにも小松辰男が劇団現代劇場で公演にはかってくれた。
茫々30余年前のことである。
京都における小劇団の活動だったが、当時、周辺の先鋭な連中は創作劇をはじめとしたさまざまな演劇活動と取り組んでいた。
60年安保闘争後の停滞した文化状況の中で、若い知の模索と冒険が縦横に展開されていた、といわねばならない。
■解体と闇の波瀾に
ブント崩壊後の激烈な戦線、その葛藤と沈黙。
いっぽう、恋と革命に挫折した情緒的一派がいるタコ壷のような古都で、その政治的季節が終わり、文学・演劇・美術などに情熱をそそぐ芸術派に突きつけられたものは、
「はたして、おれたちは何をやってきたのか」
「敗北したのか。挫折したのか」
「いや。そうじゃない。何より、己れ自身を実存的に取り戻す方策を!」
ということだったか。
もちろん、あの安保闘争は”虚無の祝祭”だった。
だが、その”虚無”以上に、自分自身が虚ろな荒野を徘徊していた。
お互いの足場がぐらぐら揺れていた。
やがて、大きな地殻変動が起こっていった。
風が立ち、匂い、通り抜けてゆく。
前衛、アングラ、ゲリラが、あらゆる権威主義を一つ一つ破壊してゆこうとしていた。
己れの存在自体を、一度、とことんを解体しておかなければならない。
無限の闇と波瀾の予兆に身をのけぞらせていた。
■絶望と美的ニヒリスト
そして、もっぱら、実存主義やら、不条理やらの命題に陥っていた。
シジフォスの挽歌と不在の愛の確かめるすべもない混沌の闇。
政治的工作がからまる周辺で、”美的ニヒリスト”と揶揄されながらも、それが結局、栄光と悲惨の門出だったか。
「お前の実存やら、絶望やらは甘ったるい。絶望のポーズを捨てよ」
と恩師に言われた。
絶望のポーズを捨てよ。
この言葉は、たちまち学園や、仲間のたむろする地下珈琲店で合言葉になった。
己れの青春や存在が、そんな安っぽい戦中派の価値観で論じられてはたまったものではない。
いや、もっと絶望せよ、とも思っていた。
不毛と空白の論理に苛立っていた。
■幽玄、余情妖艶へ
そうした中で、能の世界に強く魅かれていた。
実存主義は、結局、何も解決してくれなかった。
世阿弥の一つの所作、一片の風儀、一節の詞章に美の深層があった。
漂泊芸能者としての漆黒の歴史の裂け目から繰り出される<幽玄>こそ、そのまぎれもない戦略的条件一つであった。
動乱の世を生き抜く暗い負の存在者の叫びであった。
幽玄の花は、時代の覇者の栄光に取り寄り添うように匂い立っていく。
花の幻は、ひっそりと、しかし、血をにじませながら咲かねばならぬ。
中世の古修羅の世界は、悲惨な宿命を負った人間の罪業と回向そのものであることを知るがいい。
そして、藤原定家の「余情妖艶」を追い、『梁塵秘抄』や『閑吟集』にうかれ、中世連歌師の百韻を紐解き、連句、狂歌、川柳をと、その遊行の水脈に魅かれていったのだ。
■甘美な猛毒の味
ーー若くして芝居の甘美な猛毒の味を覚え、その後も結構、小屋回りにうつつをぬかした。
歌舞伎座や三宅坂の国立劇場には、友人がいた関係もあり、毎月のように通った。
後ろの幹事室で観劇することが多い。
歌舞伎、新派、声明、雅楽、日本舞踊と何でもござれだった。
5年、10年、歌舞伎の大半は、この国立劇場で見ることができた。
京都の”舞の会”は、ことに楽しみな会であった。
芸者衆や舞妓も大挙、来場。
その日のロビーは、”はんなり”した京言葉や、甘い脂粉に満たされる。
井上八千代の芸に見惚れた。
また、武原はんの「雪」にも感動した。
ここまで、熱い情念を削ぎ、削り、落とし、かたちにしていくことの舞踊。
三島由紀夫を高校時代から熱読しており、三島ファンであった私は、三輪明宏の「黒蜥蜴」を観劇。舞台終了にその三島由紀夫は真っ白なスーツ真紅のバラを胸に挿して登場したのには感激した。
また、新宿・蠍座で「三原色」(堂本正樹・演出)の稽古があり、友人のはからいで座席に座っていたら、三島由紀夫が大きなアタッシュケースを片手に入ってきた。
その高笑い、そのトーンの高い話し方が印象的だった。
一瞬、睨みつけられ、そして確認し、ニッコリ笑みを浮かべたのだった。
■邦楽のゆるやかなテンポに
今も、気まぐれに歌舞伎や能を中心に、あれこれ出かけている。
日常の原稿書きのときなどは、小唄、清元、常磐津をなぜか流している。
なぜなのか、自分でもさっぱり分からない。
幼い頃、伯父が観世流シテ方の重鎮だったし、母も地唄舞を少しやっていた。
邦楽のゆるやかなテンポと音合いが、実に快い。
■新作能に取り組む
2003年暮れ、新作能に取り組み『自天王』(修羅能)を書き出し、翌春脱稿。
後南朝最期の奥吉野における皇子の悲劇をテーマにした修羅能ーー「季刊月光」2号掲載。
自天王については、谷崎j潤一郎著『吉野葛』などで1部取り上げられている。
第2作に『実朝』。
*日本舞踊台本「花の雪」「佐保川」(未定稿)あり。
*戯曲「定家繚乱」(仮題) は藤原定家関連の資料に当たり、ノートを終え、執筆にとりかかったものの放置して数10年が空しく経つ。
【2005年01月10日記】
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