夢魔劇への招待


 ぼくが、自分の青春の門出に際して冠せたヴァレリー風の「方法的序説」の神話を解禁したとき、すでに、ぼくは睡眠薬常用者となっていた。

 夜っぴて、ぼくの孤独な書斎を訪問する女郎蜘蛛に、ロートレアモン伯の行方をたずね、犯罪と狂気の哲学のページの余白にマリリン・モンローの戯画をかきこみ、堕天使や中世仕掛花火師、舞台絵師、それにグラン・ギニョール趣味の老女優ーーそれらアンドロギヌスの魔宴(サバト)に、狂喜するぼくの二十五歳の誕生日に、永い放浪の旅から帰って、いつもの仲間のたむろする京都・河原町三条の地下珈琲店”六曜社”で、ふと、ぼくはヘンリー・ミラーの本の一節を思い出してつぶやいたものだ。

「ーー劇場へ行かないとはいえ、劇場のために書くことをすっかり断念しているとはいえ、演劇は依然として、ぼくには純然たる魔法である」

 そして、相変わらず、上機嫌にラリリながら、燃えあがる夕陽のかなたの世界、夢と狂気のパラドキシカルな舞台で磔刑宣告のあらんことを!

 そのとき、ディ・クインシーの証言は快楽主義の免罪符となり、ベルリオーズの幻想交響曲は魔女の祝日をたからかに奏でる。

 ぼくは決心した。
 なぜ、だったのか。
 そうだ。
 このラディカルな心情に突き刺さる汎神論的風土から脱却せよ。
 雪月花の余情を、即刻、叩きつぶせ。
 絵金や芳年の土俗の異形の血生臭い絵を、ぼくは泪をのんで切り裂いたのだ。

 ーーというのは、ぼくのしるした伝説的な汚辱の青春の断片であり、暗い夢魔劇の発端でもある。別に、それがカトリシズムやピュリタニズムに問題を起因しなくとも、ぼくらの内には自己破壊(自殺)と、他者破壊(殺人)という不気味な破壊衝動があるのは事実であって、ぼくが、白昼の日常生活で、ときおり、その悪魔的戦慄といういかようもない奴にほほえみかけられるのは、もうどうしようもないことなのだ。

 それを、カトリック流にならっていえば、死にたいする恐怖と、神の非在の恐怖とのうえに、狂気・自殺・殺人・憤怒の炎が燃えあがるというべきであり、この夢魔的幻想こそ、アンドレ・ルッソーが<魔術的レアリテイ>と呼んだ世界のことかもしれないのであるのだから。

 さて、そのうえに、ぼくは<迷宮としての世界>が大好きなのだ。
当分、このグスタフ・ルネ・ホッケのマニエリスムス美術の書物は、ぼくの、危険図書目録の王座を占めていそうだが、なかでも、アルベルト・マルティーニの描く「愛」には、まぎれもない戦慄の美と恐怖がある。これこそ、やがては、ぼくの実現可能になるだろう夢魔劇の神秘主義の旧教的世界である、と思っている。

 サドは、そのプロフィティカルな十八世紀にあって、失われた神秘主義を、むなしく、悪魔的な世界に探した男であった。しかし、それは革命と暴力という狂気の楽園のパラドックスであったことは申すまでもない。

 ぼくが、一つの回春の論理をこめて、ぼくのマルセイユ、ロンギュ・デ・カプサンの街で、純然たる夢魔劇の公演におよぶのは、さして遠いことではあるまい。


『社会公論』(1966年12月号)掲載


この文章を見て、当時、『南北』の編集長の常住郷太郎氏から手紙があった。
南北社は日沼倫太郎の本を積極的に出すなど、文藝誌のリトルマガジンで、熱気あふれる誌面が好評だった。
『対話』の小説を読んでくれ、新しい原稿をおくったのだがボツになり、「何をノラリクラリやってるのか」というわけである。
その後、東京・神田の編集室を訪ねたことがあった。
その帰り、常住さんは、唐十郎氏への紹介状を書いてくれ、
「これで花園神社の公演をみて、唐さんに会っておいで」
と言った。
その夜、私は花園神社で状況劇場の芝居を見たが、唐さんに会う勇気はなかった。

常住郷太郎さんとは、それから25年後に会った。
クルド人の画家であるアリの個展の企画などをしており、その個展が銀座の画廊であったりした。
大病で入退院院をくりかえしていたが、2002年8月逝去された。




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