小松辰男の風景 |
小松辰男は1940年生まれ。 京都府立桃山高校を経て、同志社大学文学部に入るも、もっぱら演劇活動に打ち込み、劇団現代劇場を設立。 創作劇をはじめ、数々の実験的な舞台を手がけて、60年〜70年代に向けた激動の時代を疾駆した。 世にいうアングラ劇場が登場する前後。 あらゆる芸術の沈滞を破るべく美術、音楽、映画、舞踊、パフォーマンス、演劇など、前衛の旗手として活躍。 そのゲリラ的戦術による華麗な祝祭的空間は、京洛の多くの若者たちを魅了した。 1964年、パントマイムのテオ・レゾワルシュとの出会いにより、その思想や行動に深く感動、敬服する。以後、小松辰男の根源的な芸術活動の支えとなる。 ![]()
多角的な運動を展開すると同時に、劇作家としても活躍。 戯曲「大人のための童話集」(『現代劇場』第3号所載)は、石子順三氏らに高く評価される。 1966年5月、劇団黒の会が観世栄夫演出でこの「大人のための童話集」を草月会館で上演する。 黒の会の瓜生良介は小松のよき理解者であった。 「狂気であらざるを得ぬ理性の暴発的な躍動」の中で両者は触れ合っていた。 大阪万博とともに、"ビッグライト"を持って華やかに登場するヨシダミノルとの協同作業もあった。 一方、1968年東大医学部に端を発した学生運動は東大の無期限スト、早稲田、日大へと拡大。 翌年、京都の各大学にも連鎖的に発生していく。
路上に火炎瓶が炸裂し、バリケードが築かれ、学生たちは血を流す。 京大闘争のさなか、教養学部バリケードの中に、突然、"バリ祭"が誕生する。 黒のジプシーが奏でる爆発的なGO-GOリズム、水谷孝率いる"裸のラリーズ"、荒木一郎のギター。 そして、ゼロ次元などアーティスト集団によるハプニングや、全国から集まったヒッピーたちの大饗宴がくりひろげられる。 まさに、華麗な祭典だった。 当時、高瀬泰司(元京都府学連委員長)は京大全共闘の実質的な指導部の一人であった。ここにさまざまな戦略と挑発の黙示録が展開される。 小松は、この高瀬と京大西部講堂連絡協議会の活動に深くかかわってゆくことになる。関西ブントは常に光芒の一閃にすべての存在を賭けた。 ![]() かくて、大学解体、造反有理のスローガンが掲げられた叛乱の時代。 鮮やかなライトブルーの大屋根に赤い三つのオリオンが輝く西部講堂で、実にさまざまなイベントが企画プロデュースされてゆく。 小松は若い仲間と、この運動に精魂を傾けた。 その後、小松はフランス、ドイツ、イタリア、イギリス、エジプト、チュニジアを放浪。 だが、年々、身体に変調をきたし、1986年5月逝去。京都・山科の月心寺で通夜・告別式。天龍寺慈済院に眠る。 ◎写真(1983年1月 京都・一乗寺の小松宅で) |
夢は荒野を 小松辰男追悼集 ● 1987年5月発行 編集:小松辰男追討集編纂委員会 発行所:京都市左京区一乗寺:小松久子方 |
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小松久子さん(小松辰男夫人)から、小松の遺稿があることを知らされたのは、小松家の墓地のある天竜寺・慈済院に出かけた折のことだった。 本堂にお参りし、お抹茶をいただき、縁に腰を下ろし、嵯峨野の深い緑に包まれた広い庭を眺めているときだったか。 「実はどうしたらいいのか、迷っているんです」 と久子さんはくぐもった声で言った。 故人の書類を整理していたら、偶然に見つけたものであるらしい。 重たい原稿用紙の束だった。 すぐ読ませてもらった。丁寧な文字で子息舞夢君あてに書かれた彼の過ぎ越しかたを綴ったものだった。 友人・知人たちと連絡を取り合うと、「追悼集」を出そうということに決まった。 タイトルは小松の1986年の賀状、 「不惑の年、迎うるはいつの日ぞ。夢は荒野を駆けめぐる・・・・」 と書きなぐった一節から引くことにしようと思った。 芭蕉『笈日記』の「夢は枯野」でない。 「夢は荒野」であるというところが、小松の粋であり、風姿であり、つややかさであろう。
また、「私的西部講堂小史」は、京都60年〜70年代を駆けめぐった怒涛の一書。 「西部講堂は全国無比の輝ける解放空間となり、本来は学園キャンパスやバリケードが担わなければならない芸術活動の拠点、自立の演劇・音楽・パフォーマンス、すなわちあらゆる芸術の殿堂として登場」(太田代志朗「春の修羅」)したのだった。
小松の一書は、その狂乱と祝祭の貴重な記録である。 ほかに戯曲、演劇時評、エッセイもあり、本来なら作品集とした1本に納めるべきものかもしれない。 だが、敢えてこういう形にしたのもゆえあることなのである。 編集は3周忌にあわせるべく関係各位の協力を仰いだ。 一部、中東に行ったまま行方の知れない方や、どうしても連絡がとれない方がいた。 また、西部講堂連絡協議会などをはじめ行動を共にした高瀬泰司氏(元京都府学生自治会連合会委員長)は、小松が亡くなった翌年逝去していたが、その心ある手紙をここに掲載することにした。 目 次
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座談会「小松辰男の青春とその時代」を終えた夜、誰が言い出したのでもなく、一乗寺の小松家から車に分乗して、九条山のヨシダミノルの家に向かった。 小雪が舞う、底冷えの深夜だった。 アトリエは山間にある住宅地の奥の鉄筋コンクリート打ち放しだった。 その風情がいかにもヨシダミノルらしいと思った。アトリエ周辺には、よく猪が出没するとのことだった。 また、すぐ酒盛りとなった。 なぜ、おれたちはこんなにも重たい時節を生きなければならないのだろう。 繚乱の京洛の闇の大路小路を、今も小松は疾走しているにちがいない・・・・。 1階の広いアトリエは混乱していた。 かつて、小松とその若い仲間たちが、このアトリエに何日も一緒に泊まりこんで仕事をしたということだった。 小松を追善したヨシダミノルの「AYAME」(200×300cm)の大きな絵があった。 どこか展覧会に出品したという。感動した。 5月、菖蒲の花の夢の乱舞。ヨシダミノルの鎮魂の絵だった。 あの淋しがりやのくせに、陽気でお祭り好きな小松が呵呵大笑していた。 ![]() 私は小松の追悼集の装画、そしてその”AYAME”もぜひ掲載させてほしいと言った。 「もちろんのことよ」 画家は泰然として応えた。 ヨシダミノルは60年代具体美術協会に所属し、若手メンバーとして活躍。 70年万博お祭り広場で透明のプラスチック・カーを走らせるなど、大きな話題を集める。 70年渡米、アバンギャルドフェスティバルに参加。帰国して、京都市主催アンデパンダン展などで活躍。かくて、こころよく描いてくれたAYAMEの装画は追悼集の函を飾り、本の表紙に金箔で沿え、大作「AYAME」はグラビヤに載せることができた。
中西省吾とは校正の段階で目を真っ赤に腫らした。 若く政治闘争の果てに挫折した彼の優しさに、私は幾度も甘えていた。 幻想の革命の物語ーー私たちはその憎悪と愛惜の舞曲をいつも奏でていた。 銀閣寺道の疎水沿いの中西の家での新年会や大文字焼きの夜などの宴席はいつも賑わう。 そこへ、ふらっと小松が現れることがあった。 われわれはすぐに駄洒落のかけあいとなった。 かつて、祇園石段下の全共闘系の溜まり場”ヴィヨロン”などで会った頃の小松は、白のジーンズや皮ジャンで颯爽としていた。 いい男振りだった。 「おい、小松。また、ひと暴れしようよ」 水を向けたが、彼は黙っていた。 ゴルフは50そこそこで、どうもうまくなれないや、と言うと、 「お前は堕落したな。何が面白いんだ」 と小松は鼻で笑った。 学生運動は下火で、なりをひそめていた。 一時、全国コンサートのマネージャーとして地方行脚を共にしたフォークシンガーの豊田勇三は、ライブスポット”拾得”を拠点に、本格的な活動を再開しようとしていた。 だが、時代の寂寥に、寵児は取り残されたかのように元気がなかった。
だが、見果てぬ劇団現代劇場の再起――われわれの演劇を、舞台を、今一度、お互いの狂気の行方にみつめよう。 まだ、働き盛りの40代にさしかかったところではないか。 おい、どうなんだ? まだ、やるべきことはいっぱいある。 これからじゃないか。 それをいうと、小松は羞ずかしそうに微笑った。
毎年、春になると小松を忍ぶ会「月酔忌」の案内状が来信。 故人の好きだった酒に酔い、千古の愁い、誰が為にか緑なる。 この月酔忌は青野荘君が事務局となってとりまとめてきている ベトナム反戦、70年安保闘争という中での立命大寮闘争、学園新聞社事件などに果敢に挺身した青野荘君は、終始、小松の身近にいてその行動を共にしながら、西部講堂の運動などに深く関わった。 西部講堂の屋根の三ツ星も復活はしたが、なぜか黄色く色塗られてかがやく5月。 1987年以来、毎年、欠かさず行われてきている月酔忌。 集合場所は京都御苑ーー語り飲む野外遊宴で、夕方からは叡電元田中のRose Gardenに席を移す。 あのラディカリズムの眩暈、恐怖と歓喜の清冽な緊張感。 おお、京の闇と光の戦慄、われらが永遠(とわ)の宴。 幽人、まさにいまだ眠らざるべしや.。 |