十三夜


  東宮御所の森が窓外に眩しかった。
  淡く色づきはじめた紅葉に、秋の陽が濃やかに照 り返していた。
 右手には迎賓館の緑青の屋根と白壁がくっきりと連なり、森の向こうには新宿の超高層ビル群の影が重なり合っている。
 ちょっとこじれた話を一応つけて、二、三の客をこころよく送り出した後、私は六階の応接室にそのまま一人残って、煙草に火をつけた。五階(した)のあわただしいデスクにすぐ戻る気がしなかったのだ。やっと、自分に帰ったようなひとときだった。静かに、明るく、透明な秋が、風のように過ぎようとしている、と思った。
「おい、やっぱり藤堂辰也は生きていたんだ・・・・」
 それは、昼前、けたたましくかかってきた林田正勝の電話の声だった。
「なに? あの藤堂が生きているって?」
 私は絶句していたことを覚えている。
「××新聞の三崎が連絡してきたんだよ。藤堂は東西ベルリンの境界の広場で催された野外ロックコンサートの影の仕掛け人だった、ということなんだ」
  いつになく、林田は興奮して一気に言ったのだ。アメリカの大学院で開発経済学を学んだ彼は独立して、虎ノ門のビルの一室にマーケティング会社を興し、韓国・西太平洋経済時代を論じて、今ではアジア地域の経済分析のスペシャリストの一人になっていた。
  私は一服、また大きく吸った。
 そして、林田がファックスで送ってきた外電の切り抜きを内ポケットからおもむろの取り出すと、再度、噛み締めるように読んだのだ。 


 【ベネチア二十一日=××特派員】
 十九日未明、東西ベルリン境界のブランデンブルグ門西側の共和国広場で催された野外ロックコンサートを「ベルリンの壁」越しに聴こうと押しかけた東ドイツの若者たち数百人と、これを排除し ようとした東独警察とが正面から衝突、少なくとも七十人が逮捕された。
 世界一流のロックシンガーやバンドを多数集めての野外大コンサートの影に仕掛け人は日本人といわれ、当局ではこの人物の割り出しを急いでいる。なお、私服の警官たちが棍棒で若者たちをなぐり、撮影していた西ドイツ国営テレビの記者、技師たちも一時は連行されたり、テレビカメラやフィルムを奪われた。                                                                          

「ともかく、今夜、会おう。三崎にも言っておく」
 と林田は声を低めて言った。
「しかし、それが藤堂だという確信はごこにもないんだろう?」
 と訊く私の質問に被せるように、
「それは、今、三崎が自社系列のテレビ局の報道部へ行き、ニュースのビデオモニターを何度もかけて調べいる。――今夜は、おれたちの十三夜だ。ともかく、会おう」
  そう言って、林田は電話を切ったのだ。
 学生時代と変わらな彼らしい爽やかさだった。
 もう、とっくに忘れてしまっていた、若い日の何かの波立ちが起こり、静かに堰を切ろうとしていた。
  エルメスやミラ・ショーンのネクタイの締め心地に満足したり、ゴルフのスコアを気にしたり、また役員会の報告にいつも腐心する自分の生きざまが、そのとき、なぜか私にははがゆく、空々しく感じられた。
  藤堂辰也は、大学を卒業した友人たちが京都を離れ、それぞれが己の生業(なりわい)に精を出していく中で、彼だけは若い仲間を集めた劇団活動を地味ながらこつこつと続けていた。学生運動が日増しに過激な様相を呈し、全国的に学園紛争が起きたのは、ちょうど二十年前のことだった。
 K大学教養学部は無期限ストに突入。R大学の心ある教授たちは、学園権力に欺かれた形でつぎつぎに大学を離れていった。K大学にはバリケード゙が築かれ、この占拠の中で、ある日、突然、ゴーゴーのリズムが爆音のように奏でられる。その音とともに学生たち裸になり、踊り狂った。ミュージシャンたちがつぎつぎに登場し、ヒッピーたちが全国から集まってきていた。バリケードの中は、まさにお祭り騒ぎだった。
  やがて、このバリケードは機動隊によって排除されることになるが、こうした祭りの企画プロデュースをした一団の中には、彼等の兄貴分として常に藤堂辰也がはたらいている、といわれていた。
 そして、五年後、パリへ行った藤堂はそこで二年過ごし、一時帰国。また海外へ出ると、今度は小さな飲み屋を開くという触れ込みだったが、何でも灼熱のチュニスへ発ったまま消息が絶たれて、かれこれもう十年の歳月が流れていた。ベイルート経由でパレスチナへ向かったのだとも、まことしやかに伝えられてきていた。だが、もうすべてがひと昔前の古い話であったのだ。
  ――夜になって、私には麹町の小料理屋での席があった。
 流通関連会社の役員の接待だった。吟味された懐石料理の一つ一つが揃えられる中で、知ったかぶりに、そろそろグジの季節ですね、と私は他愛のない話題を切り出したりしていた。
 その席が終わり、赤坂の事務所へ戻ると、時間をみはからいながら二、三の書類に目を通してサインし、机の周りをかたづけた。そして、四階の制作室にはいつものようにまだ人がいたが、そこは覗かずにすばやく階下(した)へ降りて、会社のビルを出た。
 青山通りの裏手には、大きなビル群に挟まれて、まだ仕舞屋がひっそりと灯りをつけている。バブルの影響で、このあたりも地上げ交渉の末、いずれ区画整理に入っていくのだろう。
  暗い通りの行く手に、白亜のホテルがそそり立っていた。
 その窓の所々が斑点のように明かりが点いている。
 車の往来のはげしい赤坂見附の交差点から弁慶橋を渡ると、右手の木立のある石段をゆっくり上がっていった。何かと多忙な林田が指定したのは、そのホテルの二十五階にあるカクテルラウンジだった。都会の夜の展望がきく、広く落ち着いた店として、評判を呼んでいるところだ。
  振り返って仰ぐと、月が美しかった。
 都会の喧騒にまぎれて、名月は煌々と冴え返っている。いつもの疲れと物憂さに陥りながら、そのとき、私の中に何か切なくこみ上げてくる得体のしれないものがあったのだ。
  まさに、おれたちの十三夜だ、と私は思った。
  
(『月光』1989年1月号掲載)

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