プロローグ 夢のアラスカへ

 私は山登りを始めて直ぐに日本アルプスや大雪山の高山植物に魅せられていた。とくに大雪・五色が原ではハクサンイチゲの白、シナノキンバイの黄色、ハクサンコザクラやエゾツツジのピンク、ウルップソウの紫等、様々な色のじゅうたんが緩やかにカーブする高原のはるか見えなくなるところまで続き、この広大な景色は私の自然観を大きく変えた。
 高山植物は氷河時代の生き残りと言われる。元々は極北の植物だったのが、気候の寒冷化にしたがって南下し、氷河期の終わる時に高山に取り残されたのだと言う。北に向かうと確かに高山植物は標高の低いところでも見ることが出来るようになる。礼文島では海が間近に見えるところで咲くレブンウスユキソウがとてもきれいだったことが未だに脳裏を離れない。
 極北の地に行ったらこれらの高山植物が地平線まで埋め尽くしているのだろうか?私は極北へ行ってみたい衝動に駆られるようになった。
そのころ、「グリズリー」という写真集が出版された。今は亡き、星野道夫さんの力作だ。この写真集を見るにつけ、極北への憧れはさらに増大した。
 しかし、当時学生だった私には海外旅行をする金などどこにもなかった。

翌年、私は就職した。大学の研究室の皆に驚かれた。「君が就職するなんて思わなかったよ。」だれからもそう言われた。毎月必ず山にこもる私は、誰からもまともな社会人になるとは思われていなかったのである。
 私には目標があった。「お金を貯めて超望遠レンズを買ってアラスカに行こう。」

 それから3年が経った。アラスカに行く経済力は既に持っていた。
会社の上司にお願いした。「夏に20日間休みをください。アラスカに行ってきます。」こんなに休む前例は私の職場にはまだ無かった。
「ああ、いいよ。」予想外にもその場で簡単にOKが出た。物分りのある上司だと思っていたがこんなにも簡単に許してくれるとは!
実を言うと、私は海外の経験は皆無である。不安である。取り敢えず往復だけ固定されていて、現地ではすべて自由行動のツアーに申し込んだ。
ツアーの説明会に東京までわざわざ出向いた。初めての海外旅行で、要領が全く掴めていなかったからである。
 説明会で、旅行社の方が言った。「アラスカに行く位の皆様はもう海外旅行はかなり経験がありますね?」確かに私以外の人は世界のあちこちに行き尽くし、もうアラスカ位しか行ったことがないところは残っていないというような人達ばかりだった。
 「いいえ、今回が初めてなんですが...。」そう言うのは私一人だけだった。
とにかくツアーに申し込んだ。ついに夢のアラスカに向けてカウントダウンが始まった...。

それから数ヶ月後、私はアラスカに向かって飛ぶJALの747、それもビジネスクラスに乗っていた。アンカレッジ空港に飛行機は降り立った。ここがアラスカなんだ。ラフな服装をした人達はそのままパスポートチェックへと進んでいった。しかしながら、...私にはこの人達と同じ通路を進むことは許されていなかった。無念の想いで私は給油を終えた飛行機に戻り、そのままロンドンに向けて飛び立ったのである。

そう、あの時確かに上司は私のアラスカ旅行を許可してくれた。しかし、ツアーに申し込んだ翌日、会社で上司に呼ばれたのである。「君にはヨーロッパで働いてもらうことになった。長期出張になる。言っておくけど海外出張中に休暇を取ることは当社では許されていないからね。したがってアラスカ行きは諦めてくれたまえ。」
(「裏切り者、汚ねえ〜。行ってもいいって言ったじゃないか。」)
私は退職してアラスカを選ぶか、それとも社命に従ってヨーロッパへ行くか悩んだ。
まだ海外の経験は全く無い。今アラスカに行くよりも、会社の金でヨーロッパに行き、経験を積んでからアラスカに行った方が得策かもしれない...ヨーロッパでもいろいろなところに行けるかもしれないし...。私は社命に従いヨーロッパ駐在員になることにした。ガマヨのヨーロッパ紀行の始まりであった。(続く)

追記:このように書くと私の会社はとんでもなく意地悪なひどいところのように思われるかも知れませんが、社風としては社員の自由を大事にするとても良い会社だと思います。実際、私がアラスカへ行こうとする前に、既に世界の6大陸の最高峰をすべて登頂した人とか、北極圏、南米、アフリカ等々世界の僻地に行きまくった人とか、サラリーマンとは思えないようなことをしている人達が我社にはたくさんいます。
 私の場合、運悪く社命とかち合ってしまったのか?「アラスカに行ったらきっとそのまま退職してしまう」と感のよい上司が気づいていたのか...?とにかく運悪くアラスカには行けず、運良くヨーロッパに行きました。このおかげで今まで非凡な人生を歩んできました。