水は毎晩少しずつ増えていった。三日目には膝まで、次の日には太腿まで、初めの夢から一週間もすぎる頃には、水は腰骨の下にまで達していた。夜になると目を閉じるのが恐ろしかった。だがしっかりと目を開いているつもりでも、明け方には地面に吸いこまれるように眠りに落ちていた。そして同じように夢を見た。川の中にいるとかえって不思議な安堵に包まれた。もうあまり水は冷たくない。本当に恐ろしいのは目を覚まして、一人で震えている自分を発見する時だった。
 震えはいっそう激しくなっていた。水から出ると吐き気を催すほどの寒さが直接体に突き刺さってきた。濡れた服とシーツを始末して、鏡の前に立つと唇は紫色を通りこして白い突起になっていた。カーテンから洩れる明け方の中で、彼女は血の気のない両手をじっと見つめる。死んだ時の母の手を思い出した。小さかった両手はますます小さくなって、鶏肉のように真っ白だった。

 突然、肩に熱いものが置かれて彼女は飛び上がった。ベッドの上に人の形をした影が落ちていた。おはよう、と夫は言う。ずいぶん早いんだな。うなじのあたりに夫が唇を押しつけてくる。子供の頃飼っていた犬の匂いがして彼女は身震いする。夫は時々寝る前に歯を磨くのを忘れる。夫の手が乳房に回るのに気付いて、彼女は体を固くした。
「どうしたんだ、ずいぶん冷たいな」
 夫は自分の体を彼女の背中にぴたりとくっつけた。焼けた鉄板に押し付けられたようだった。ようやく治まった吐き気がまたこみ上げてきた。仕事でしょ、と言うと今日は日曜だよ、忘れたのか、と夫は言った。憶えていない。今日が日曜なのか月曜なのかそれとも他の日なのか。彼女は夫の手を振り払おうとする。気分が悪いの、と彼女は言う。夫は無言で彼女の手をつかむと、自分の股間に導いた。ペニスは火のついた炭のように熱かった。彼女の口から喘ぎに似た悲鳴が洩れた。夫はその顔をねじ曲げて唇を塞いだ。

 次の日は月曜だった。明け方にほんの少し眠りに落ち、夢を見る間もなくはね起きた。それでも下半身は濡れて重くなっていた。朝日の中で見下ろすと、肌にぴったり貼りついたパジャマが網目のような模様を作っていた。どこにも逃げようがないと思ったとたんに、安堵が波のように広がっていった。恐怖を感じない自分が不思議だった。裾を絞ると水が滴り落ちた。片手に受けた水の匂いをかぐ。喉が乾いていた。舌を出して水の中に浸した。何の味もしない。そしてそのまま飲み干した。震えはもう止まっていた。

 寝不足のままキッチンに立ち、朝食を作りながら彼女は考える。多分、あの水はどんどん増えていくだろう。もし流れていったら。もし立つことをやめたら。川の中に沈んだ自分もベッドに戻ってくるのかしら。それとも。
 ママ、と後ろから呼びかけられた。振り向くと娘はパジャマのままで立っている。バスが来ちゃうから早く着替えなさい。彼女が言い終える前に、腿のあたりに熱いものがぶつかってきた。娘が彼女のジーンズの縫い目をしっかり掴んでいた。彼女はぼんやりと娘の三つ編みの髪を見下ろす。前から後ろにまっすぐに伸びた白い分け目が小刻みに震えていた。振りほどこうとしたがうまく行かなかった。娘がつかんでいるのは、ちょうど今朝水が来たあたりだった。どうしたのよ、と彼女はシンクの端にもたれて言う。
「ママもいっちゃうの」と、娘は言った。娘の手が腿のあたりを撫でまわしている。濡れているか確かめている、と思った瞬間に床が音もなく傾いた気がした。
「ヘンな子ね。どこにも行かないわよ」
 声の震えを抑えつけようとして、彼女は息を吐きながらゆっくり喋った。何かのまちがいよ、と自分に言い聞かせた。娘が知っているはずはない。
「もうすぐいっちゃう」娘はもう一度繰り返した。今度ははっきりした声だった。狂おしい感情に押されて、一瞬自分がどこにいるのかを忘れた。彼女はひざまずくと、娘の両肩をしっかりとつかんだ。すべすべした娘の顔が歪んだ。
「ママがどこに行っちゃうの?」
 大きく見開かれた目はガラス玉のようだった。彼女は娘の体を揺さぶった。
「ママがどこに行くの?」
 娘の口から悲鳴とも泣き声ともつかない、甲高い金属の笛を吹くような音が洩れた。彼女はうつろな気持ちでそれに耳を傾けながら、娘の体を揺さぶり続けた。

 病院に行きたいんだけど、と言うと初めて夫は顔を上げた。心配しているというよりも、病院という言葉に驚いた様子だった。病院って、何の病院、と彼は言う。とたんに彼女は緊張した。精神科と言うつもりがきっかけを失った。口から出たときには頭の方、という言葉になっていた。どうして、と夫はさっきと同じ口調で言った。彼女はここ数日自分の身に起こっていることを説明する。自分でも信じられないほど拙い言葉が切れ切れに口から洩れた。
 説明が終わると彼女は夫の顔を見た。笑っていた。声を出すわけでもない。硬いひきつったような笑顔だった。そこに嘲笑の色を見て彼女は愕然とした。
「結局なんなんだ、それは」
「分からないの」
「気のせいじゃないのか」
「違うわよ」
「自分でやってるんだろ、気がつかないうちに」
「そんなはずないじゃない」
「じゃあ誰がやってるって言うんだ」
 初めて夫の声が荒くなった。
「誰のせいだとか、そんなこと言ってるんじゃないの」
「じゃあ、何が言いたいんだよ」
 夫の大声に頭の中が真っ白になった。彼女は自分が取るに足らないことを言い出したような気持ちになりかけた。たぐり寄せるように最初の言葉を取り戻す。病院に。病院に行きたい。彼女が口を開こうとすると、その前に夫が喋り始めていた。
「市の教育カウンセラーに連絡しておく。近いうちに行ってみよう」
 彼女は夫の顔を見た。教育、という言葉の響きを確かめるように、口の中で繰り返した。
「それ、何のこと?」
「家の中で問題があった時に、相談に乗ってくれる専門家のことだよ」
「私、そんなこと言ってない。病院に行きたいの」
「今日一緒に風呂に入ったら、あの子の肩にあざがあった」
 声は淡々としていたが、視線は彼女の目から離れなかった。
「どうしたのって聞いたら、ママがやったって言ってた。水がどうとか、わけの分からないことを言ってたって」
 彼女はどろりとした精液の感覚を突然思い出した。それが昨日のものなのか、その前のものなのか、結婚前のものなのか、はっきり思い出せない。深いところからの吐き気に耐えかねて口を開くと、出てきたものは言葉だった。恐怖はもう感じなかった。
「わけが分からないって、あの子が言ったの」
「俺に分からないんだ。あの子に分かるわけないだろ。何つまらないこと気にしてるんだ」
「つまらないことじゃないのよ」
「どうかしてるよ、お前は。娘のことを考えないのか」
「そういう話じゃないの。あの子にもう一度聞けば分かるわよ」
「一体何を言ってるんだ」
「あなたの言ってることもわけが分からない」
 夫の顔がつるりとした空白になった。呆けた顔に怒りが募った。どうしてこんな男と結婚したんだろう。どうしてこんな男が恐ろしかったんだろう。
「結婚してから、お前は別人みたいになったな」
 彼女は何も言わなかった。彼方の対岸からの声を聞いているようだった。
「前はもっと、思いやりがあったよ。結婚前はやさしい子だと思った」
 夫はなおも話しかけてきたが、もう彼女は聞いていなかった。私は馬鹿だった。本当に馬鹿だった。そう思うと、彼女の目から涙が落ちた。死体から流れる血のように、彼女の心には何ももたらさなかった。夫は近づこうとしたが、その前に涙はもう止まっていた。彼女は顔を上げて言った。
「行くわよ。教育カウンセラーでもなんでも。私が生きてればね」

 彼女は眠りに落ちる前に自分の足下にある冷たい河を意識する。せせらぎは彼女を誘うように少しずつその音を大きくしている。彼女はそこに自分が横たわり、青白い小舟のようにどこまでも流れていく姿を夢想する。やがて打ち上げられた冷たい体の傍らで誰かが涙を流すのだろうか。彼女は自分の死体を抱く者を思い浮かべようとして、なだらかな眠りの階段を下っていった。
 彼女は夢の中で身動きのとれない死体となって、すべるように河を流れていく。冷たく柔らかいものが自分の体を次々と突きぬけていくようで心地よかった。今までどうして流れの中で立ち続けようとしていたのか。彼女の体は水の中で回り続ける。流れの果てには大きな滝があった。彼女の体は水面を滑るように落ち、白い飛沫とともにはるか彼方で迎えられた。
 滝壷の中で無数の水の手で弄ばれ、上下の感覚を失った。重くなびく髪の感触だけが残った。気がつくと彼女は膝を抱えていた。あれほど耳を叩いていた鈍い水音ももう聞こえない。まっすぐに沈んでいるのか、あるいは浮かび上がっているのか。おそるおそる目を開くと、はるか先に無数の白い泡が光っていた。やがて泡のかたちは崩れ、人間らしい輪郭をそなえていった。
 泡と見えたのは無数の青白い死体だった。滝の底には女たちが浮かび上がる日を待ちながら静かに横たわっていた。一つとして同じ顔はなかったが、皆同じ表情を浮かべていた。彼女はどこかに母もいると思った。母の母も、その母も、あらゆる血の繋がりのある女たちも、そしてそうでない女たち、彼女が今までに会ったことのある女、会ったことのない女、すべての女たちがここにいると思った。涙にも言葉にもならない静かな歓喜に彼女は包まれていった。そして今、音もなく静かに沈んでいく。

〈了〉   


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