子供たちがグラウンドに向かって走ってくる。出てきたよ、と夫がビデオカメラの液晶モニタを覗きながら言う。近眼の彼女にはどこに自分の子供がいるのか分からない。無数の泡のようなシルエットが遠くで右往左往しているだけだ。見えないわ、と彼女は呟いた。眼鏡を持ってこないからな、と夫は言った。眼鏡は車の中に置いてきてしまった。肩が凝るから、と彼女は言う。じゃあ見えなくて当たり前だろ。仕方がないじゃないか。
彼女は夫の顔を見る。彼は彼女の顔を見ていない。彼女は自分の言葉を反芻する。自分は誰のことも責めていなかったのに、どうしてこの人は私を責めるような言い方をするんだろう。彼女は口をつぐむ。昨晩のことは何も話していなかった。次の夜も彼女は川の中に立つ夢を見た。慣れてくると川の中でバランスを保つのはそれほど難しくはなかった。水は相変わらず冷たかったが、時間が経つにつれて逆に温かく感じられてきた。周囲を見回すと、岸も空も灰色の霧の中に溶けてはっきり見ることができない。よほど川幅が広いに違いなかった。ただの夢なんだ、と口の中で呟く。寒さで震える唇からは声も出なかった。両足はロウソクのように白かった。自分の足だということを確かめるように指を動かそうとする。
水は脛まで達していた。とたんに震えに似たものが背骨をかけぬけていった。前の晩よりも、わずかに水は増えていた。
彼女は目を覚ました。ベッドから起き上がって裾を絞ると、ぽたぽたと水滴が落ちた。めまいに襲われて彼女は暗い部屋の中にうずくまる。ひどく寒かった。前の晩と同じようにバスルームで着替えた後、寒いリビングのソファに腰を下ろした。テレビの台の中に、8ミリのビデオテープが山になっている。すべて娘を撮ったものだった。テープの中身を彼女は見たことがない。夫も同じことだが、それでも家族で出かける時はカメラを手放さない。娘の結婚式の時に流すつもりなの、と彼女は尋ねたことがある。そういうことじゃないだろうと夫は言う。彼の言おうとしていることは何となく分かった。しかし、何がどういうことなのか、はっきりしなかった。
彼女は立ちあがる。夫に話したほうがいいような気がした。夫の部屋の前に立ち、ドアを開けようとして彼女は躊躇した。考えてみると、夜中に彼の部屋に入ったことがない。結局彼女は自分の部屋に戻っていった。うまく説明できる自信がなかった。
夫と寝室が分かれたのは一年ほど前だった。マンションを買った時に、夫の希望で彼の趣味の部屋を作ったのだが、ある時から夫がその部屋で寝るようになったのだ。それまでと生活は変わらなかった。セックスの時は夫が寝室に来て、終わると自分の部屋に戻っていく。一人のベッドの広さに慣れてしまうと、その方が彼女にも楽だった。夫とは五年前に結婚した。夫は四歳年上で、私立中学校で数学を教えていた。職場の同僚の結婚式の二次会に参加した時、たまたま同じテーブルに座ったのが彼だった。彼女は仕方なく出席した会で退屈していた。相手の男にそう言うと、僕もなんですよ、と笑った。これといって特徴のない顔だった。会も終わりに差しかかった頃、突然電話番号を聞かれて我に返った。それまでの会話を思い出したが、害のない人間に思えた。
彼女の番号を書きとめて、ありがとう、とても嬉しい、と彼は笑った。初めて目の前の男にかすかな興味をそそられた。どうしてお礼なんか言うの、と彼女は言った。ウソの番号かもしれないじゃない。それだったら、すごく悲しい、と彼は真剣な顔で言った。その真剣さが彼女の中でひっかかった。彼に会うまでに何人かの男と付き合っていたが、彼女は彼らの顔をはっきり思い出せない。無数の言葉や愛撫が断片のまま目の前に投げ出されて、気がつくと身の内に受け入れることになっていた。自分がそれを望んでいたのか、誰かに押し付けられたのかもはっきりしなかった。それらは水のように流れていって、ほとんど彼女に痕跡を残さなかった。
付き合い始めてからしばらくすると、会った時からずっと結婚したかったと言われた。プロポーズされたのは初めてだったが、彼女にとって結婚は不吉な言葉だった。初めて彼に自分の両親の話をした。彼は躊躇せずに、そんなことは関係がない、俺は君をずっと幸せにする、と言った。彼の言葉はいつも陳腐だった。しかしその真剣な響きが彼女を安堵させた。結婚式が済んでしばらくすると、朝に夫を送り出して夜に出迎える静かな生活に彼女は囲まれていた。
結婚から一年も経たないうちに、夫はマンションを買おうと言い出した。両親がもう何十年も放っておいた奥伊豆の別荘地があるという。遺産がわりに貰えそうなんだ、と彼は笑った。それを頭金にすれば、家賃ぐらいのローンでどうにかなるよ。何の問題もない提案に思えたが、どこか不吉な感覚は拭えなかった。何か大事な警告を見落としているような気がした。
家族も一人増えるんだから、という彼の言葉に彼女は仕方なく頷いた。すでに彼女は妊娠していた。それまでどんな相手と付き合っていたのかと尋ねられたことがある。結婚式を挙げたばかりの頃だった。彼女はよく憶えてないの、と言った。同じ質問を夫にすると、指を折って数え始めたので彼女は目を見張った。人数で憶えているの、と彼女が言うと、人数も憶えてないのか、と夫は彼女よりも驚いた顔をした。そんなに多いのか? 彼女はしどろもどろになりながら、三人、と答えた。本当に? と夫は言った。目の色に嫌な光があった。今までのことはどうでもいいと思ってたから、と彼女は早口で言った。彼の視線がねばりつくようで居心地が悪かった。
後から考えれば、夫が子供のことを言い出したのはその後だった。結婚は子供を作るためにあるんだよ、とプロポーズの時と真剣な顔で彼は言った。彼女は結婚に慣れ始めたばかりだった。不幸ではない結婚がこの世にあるということ、自分がそれに加わっているということ。それまでに期待したことのないものだった。
子供ができればまた環境は変わってしまう。新しいものにはすぐに慣れることができないかもしれない。まだ二人とも急ぐ年齢ではないし、だからもう少し待って欲しい、という意味のことを彼女は長い時間をかけて話した。彼女は正直に自分の気持ちを話したつもりでいたし、彼にとっても受け入れられない話ではないと思っていた。彼は冷たい目で自分を見下ろしていた。それが自分に向けられたものだと気がつくまでしばらく時間がかかった。
夫はその晩から避妊をしないようになった。彼女が求めると無言で動きを早めるだけだった。終わった後で髪を撫でながら謝罪の言葉を口にしたが、次の夜には同じことを繰り返した。彼女は体が逆さに伏せたビンになったような気がした。性器から夫の精液が流れてくると、暗がりの中でそれを拭いた。
当然のように彼女は妊娠した。すると彼はマンションのことを口に出し始めた。つわりのひどい時期だった。今はそういうことを考えられない、と言うと俺が考えておくから何も心配しなくていいと夫は答えた。その言葉通り、夫は都心からの通勤圏にある、駅から近いマンションを選んできた。いいところだよ、と夫は結婚前と同じ真剣な顔で言った。しかし、彼女の耳には別人の声のように響いた。
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