南風のたよりNo43


    南の島の話し・・2004年 第8号 遠足・No4 サンカルロスへ


     サトウキビだらけの道・・・

    カンラオンは涼しい街でした。その涼しい街を後にして下りはじめると直ぐに気温は上がり、軽トラの窓から吹き込む風は熱帯のそれに変わりました。朝から走り詰めで少しぐったりしていた私には、慣れたはずのこの熱風が辛く感じられました・・・・なんてね、ビールを飲み過ぎ状態でぐるぐる回る坂道を下ったものですから目が回っただけなのでありました。
    そんな日が来るとは思えないのですが、フィリピンの政治がクリーンになり、貧富の差が無くなり、アジアで独りぽつんと経済的発展から取り残された状況が解消したら、カンラオン山の麓の高原はネグロス島の軽井沢、若しくはネグロス島の那須高原と呼ばれ避暑に最適の場所として栄えると、私は思いますが・・・。
    ハイウエイに戻りサンカルロスに向かうとまたサトウキビだらけの風景が続きます。サトウキビ畑の規模はバイス辺りの農場よりもはるかに大きく、延々とサトウキビの畑は続きます。
    いつ頃だったか忘れましたが、かつてネグロス島のサトウキビ畑で働く農民の貧困を取材した写真集を見た事が有りました。当時砂糖の価格が暴落して、そのしわ寄せは農民に寄せられ、ネグロス島が飢餓の島と呼ばれた頃の取材でした。その舞台はドゥマゲッティーのあるオリエンタル州ではなく、サンカルロスからヴィクとリア、バコロド一帯のオキシデンタル州の話でしたから、まさにこの辺りの事だったと思います。
    サトウキビ栽培も機械化が進んで、労働条件は少しは改善されたと言われていますが、私の目にする農民の労働の姿は厳しく、今だ貧困も引きずったままのように見えました。


    サトウキビ畑で働く人々

    炎天下のサトウキビ畑は想像以上に暑い


    線路や汽車はフィリピン製なのか、またはアメリカ製なのか分かりませんが、畑の中には至る所に線路が施設されていて、時折サトウキビを積み込んだ貨車を見る事が出来ます。
    何故アメリカ製と言うのか?・・・100年以上も昔の話ですが、砂糖を始めたのはアメリカだったのです。もともと米中心の農業をしていたのですが、アメリカの政策でサトウキビ栽培に転作させられて行ったのです。詳しく書くととても長くなるのですが、この時、教会と一握りの白人によってフィリピン人は土地を騙し取られてしまって、小作人になってしまって、それが今に続く貧困の原因なのだそうです。
    のどかなサトウキビ畑の風景だけを見ているとそんな歴史は感じられないのですが。


    サトウキビの積み込み途中の貨車

    軌道の幅はトロッコのように狭いものでした


    踏み切り注意

    踏み切りで一時停止は不要なようです

    サトウキビ畑を見ていると刈り取り中の畑、苗を植えている畑、少し成長した畑、刈り取り間近の畑と様々です。畑を耕すのは大型のトラクターになり、水牛が畑を耕す姿は少なくなりました。しかし刈り取りと苗を植える作業は今でも完全に人力のようです。
    大変な仕事ですが賃金は安く、あるガイドブックに1日100ぺソ〜300ぺソと書かれていましたが、機械のオペレーターでは無い畑の労働者の賃金は1日80ぺソ程度だそうです。


    水牛に代わってトラクターが活躍しています

    イセキやヤンマーではなく、大型のフォードでした

    サンカルロスでトイレを探して街なかをうろうろしたのですがフィリピン中に有ると思っていたジョリビー(フィリピン版マクドナルド)がありません・・・見つからなかっただけなのか? しかし、ガソリンスタンドで尋ねても分からなかつたので多分無いのだと思います。
    サンカルロスとセブ島のトレドはフェリーで結ばれていて、ここは交通の要衝でもあります。割合立派なホテルも見られましたがドゥマゲッティーのように落ち着いた雰囲気は無く、騒々しくて活気が有るけれど退屈な街と言う印象でした。

          バコロドは遠い・・・まだ続きます。

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