南風の便り

       

〜DINAGAT ISLANDへ行った〜


       RIVROと言う部落の川の調査

 その日は汽水域の調査でRIVROと言う集落へ行く事になって、さらっと打ち合わせをすると、船で行けば3時間は掛かると言うでは有りませんか。
もう軽油が無いので油代を出してくれ、と私が言うと、ベンがそれなら車で行こう、と言い出したのであります、しかも、車なら30〜40分で行けるのだと・・・ただし、4駆のトラックじゃないとダメと言うとんでもない悪路、泥道でありますが。
しかし、こいつ、やっぱし自分の懐が傷まないように、MDSのスタッフと装備を安くこき使うつもりだな、と思ったのでありますが、まあ、黙っていましたですよ。
私としては、この様な場所に潜れるチャンスは二度と無いかも知れないし、世界中、水の有る所なら何処でも潜ってみたい私としては、自己満足の為にもここは一つ穏便に、と言う事で揉め事は後回しに、と。
川の写真を見てもらえば水の状態は一目瞭然でありまして、土砂の流れ込みがどれほどかが分ると思うのでありますが・・・。
海から遡る事約500メートルの川口で潜ったのでありますが、透明度は0で、生き物は皆無でありました・・・水は薄い塩分を感じました。
すぶずぶの泥を掘ってみたのでありますが、砂に当たっても何もいませんで、貝の欠片さえも見つからなかったと言う事は、相当長い事、生き物は生息していないと言う事でしょう。
これ程見事に生き物がいない訳は、泥だけでは説明は難しいと思うのであります・・・上流には蛍石の鉱山やら、いろいろ有るらしいと聞きましたが、しかし理由は分りません。
この辺りは日本の商社が山の木を切り出している時にはいくらか栄えていたらしいのですが、フィリピンでも特殊な行政区域で、今まで国も手をつけずにいた所でありました。
つい先頃まで、ミンダナオの一部であったものが、ディナガット州として独立し、今、にわかに国の予算が動きだし、多くの山師が狙っているのだとか・・・天然資源がごっそりなんですと。
しかし、ディナガット諸島は、一人の男がマルコスから全地域の権利を譲り受け、PBMAと言う新興宗教を起こし教祖となり統治し、今も息子が跡を継いで権力を誇っているのであります・・・息子はちょっとヘマをしてモンテンルパにいるそうですが。
そんな訳で、山師や政府の役人でも迂闊に手が出せない地域で、どうやってここで美味い汁を吸おうかが、フィリピンの山師の間で囁かれているのだそうであります・・・私が聞いた話しですのでどこまで本当か?でありますが・・・。
また、中国の企業が蛍石を掘る鉱山を運営していたのでありますが、州として独立してから、鉱山の採掘は中止に追い込まれているのだそうで、目印になった黄色いダンプが並んでいる所が鉱山の船着き場なので有りました。・・・島民に利益が還元するシステムを目指しているのだとか。




 丸木をくり抜いたサカヤン、こんな大きいのは今は作れない

ベンの話しではこの辺りには昔沢山の海老の子供が居たのだとか。
一緒に川に行った村の若者が、ベンの勧めで、海老(ロブスター)の養殖に挑戦してみたのだが、何度やっても直ぐに死んでしまい、失敗するのだと私に話し掛けて来ました。
私は海老についても、養殖についても全くの素人でありますが、汽水域は、水温も酸素の量も塩分も変化が激しいので、固定した籠などで飼育するのには向いていないと思うのですが、「何故だろうねぇ」と答えただけにとどめました。
ベンがやっている村人への手助けは、表面的には良い事、のように見えるのですが、私には、外国のNPOや環境団体からの援助を上手く集める為のパフォーマンスに見えて仕方がないのでした。
私も少なからずフィリピンの辺鄙な村を見て来ましたが、これ程取り残された感じのする村は他に知りません・・・本当に貧しい、いや、質素な村でした。
かろうじて電線が来ていますが、通電は、午後の3時から朝の8時までだそうです。
しかし、どうせテレビもない家がほとんどですから、夜でも電気は使わないと、村の人は言っていました。




   川で採った蛍石を搬送する人々

RIVROの川で潜り、一応調査らしい真似事をしての帰り道、ベンから「川口、汽水域にサンクチュアリーを設定しようと思うのだがどんな具合にやったらよいだろう?」と言う質問を受けた。
私は目眩がするほど驚いてベンに聞き返しましたよ、「サンクチュアリーを設定するの? ここに?」と。
ベンは私が訝しく思っている事に気付いて「まあ、仮にという事なんだが」と言葉を濁して黙り込みましたが、これで私が感じていたベンに対する違和感が何であるか確信しました。
サンクチュアリーは自然保護でも、回復が目的でもないのであります。
掘りたいものが天然ガスなのか石油なのか、はたまたレアメタルやレアアースと言われる類いなのかは分からなし、誰と誰の利権争い、マーキング合戦なのかは見当もつきませんが、サンクチュアリー設置が政治的にきな臭いものだという事は間違いないようであります。
どうして日本人の私にこんな仕事の引き合いが来たのか、とても不思議でありました。
最初はジェフリーの伝手で、彼の友人筋からだろうな、と単純に思って疑わなかったのであります。
しかしネタが見えてくると、私が選ばれた訳は、フィリピンの政治や国際情勢なんかとんと縁の無さそうな海バカの日本人が居て、とりあえず使えそうだから、一丁当たって見るか・・・と言うのが真相ではないかと思います。
好都合な事に、言葉もあまり達者じゃないので、何かあってもごまかしやすいと・・・。
私は環境団体や、NGOとかNPOとか・・・とにかく、積極的に自然保護を訴えるものに拒否反応があって、そのような匂いを感じると、身体にカイカイが出来てしまうのであります。
そして、ベンからは、それ以上にどぎつい、政治的な匂いが、プンプンと臭ってくるのでありますが、現地でベンは信頼されていて、やっている仕事も評価されている様子なので私は黙っている事にしたのであります・・・ああ、痒い、と。




 一生懸命調査報告書を書くノノイとトーピン

しかし、まあ、何であれ、契約書にはサインをしてしまっている訳で、しかも、スタッフは純粋に良い事、お国のためになる事、ディナガットの原住民に喜ばれる事だと信じて仕事をしているので、余計な事は言えません。
ノノイは一生懸命に色鉛筆を駆使して概念図を書き、トーピンが見つけた魚やコーラルの類いを書き込んで行き、一日のレポートを仕上げて行くのであります。
私は、とっくにこの仕事に飽きているので、日没を待たずにビールを買いに向かい側のサリサリストアーに行ってしまうのでありました。
この村には、なんと三軒ものサリサリがあって、その内の一軒は昼間からガンガンとカラオケを流し、誰か彼かが怒鳴り声を上げている、村の社交場でもありました。
ここの社交場には村の娘どももチラホラとやって来るのでありまして、別段何を買うという事でもなく、何しに来るのか良くわからないのでありますが、現れる訳であります。
そして、どういう訳か娘たちは二人一組で、キャッキャ、キャッキャとはしゃぎながら、やって来るのであります。
で、ちょうどに夕暮れ時、陽が落ちる前にシャワーを浴びてしまうのが日課のようで、シャンプーの良い香りを漂わせてやって来る訳であります。
私、現地で名前を問われるとBOMBEEと名乗っておりまして、この時も、このサリサリの社交場で娘らと交流するのに当たって、そう名乗ったのでありました。
しかし、吃驚仰天であります・・・私に対して、貴方がMASAYAじゃないの?と問うではありませんか・・・どーして俺の名前知っているの、君らは?
この時は既に3日目ぐらいでありまして、ダイビングの講習も半分終わり、その時にはちゃんとした名前を名乗っている訳であります。
講習を受けている人が何処の誰か、こちらには皆目分からなくても、先方はあちこちでダイビングの講習を受けている事を喋って、日本人の名前はMASAYAだ、なんて言っているに違いないのでありますよ。
そんな事から打ち解けて、じゃぁ一杯やるかぁ・・・なんて、まだどう見ても17〜18の小娘にビールなど勧める不良親父でありました。
が、しかし、彼女らはケラケラと笑い、ビールはお父さんに怒られるから隠れてしか飲めないのだ、と・・・。
ここディナガット州はフィリピンの新興宗教、PBMAの信者が90パーセントも占めているという事で、その宗教では、酒もタバコもダメなのだと、娘の一人が教えてくれました。
ああ、だから隠れて飲む訳だ・・・じゃぁ君たちはPBMAのメンバーじゃないんだ、と聞くと、今時そんな宗教は流行らないってばぁ、と小声で言う彼女らでありました。
そして、村人と話をする時には指輪を見ろと・・・石の入った大きな指輪をしている人はPBMAのメンバーで、しかも、首からペンダントを下げていたらその人は幹部だと教えてくれたのであります。
そして、ディナガットでもこの村だけはカトリックが多く、この店の人もPBMAでは無いからビールもラム酒もタバコも売っているけれど、他の店には酒は無いのだと言う。
へぇー・・・と驚いてみせて、それじゃぁ、君たち、ボーイフレンドはどーするの? 例えば、君はカトリックじゃないかぁ、もしもPBMAのメンバーの家の息子に恋したらどうするの?と聞いてみたのであります。
すると、一人の女の子が・・・この時には5〜6人の娘が集まっていた・・・それが深刻な問題なのだと言って話し始めた。
要するに、今時の若いものはPBMAがどんなものなのか、たまに街に行ってネットカフェなんかでインターネットも見るし、テレビも見て知っている訳であります。
なので、まったくこだわって居ないのでありますが、家に居る年寄りや親や年長者の目があるので、取りあえず、大人しくしている振りをするのだと。
娘らにコーラを奢って、私はビールをグイグイと飲んでいたので口が軽くなっていたのか、「君たちの中でバージンじゃ無いのは誰だ?」と突拍子も無く聞いてみたのであります。
すると・・・ある娘は、この子は違うよと指差し、また違う子は、なによ、貴方だって違うじゃないのよ、と言う感じでやり返し、良く聞いているとなんだか皆さん既に卒業式を終えている様子で、ちょっと驚きでありました。
で、一番子供っぽい娘に、君、何歳なの?と聞いてみれば・・・19歳ですとぉー・・・てっきり高校生くらいかと思っていたら、吃驚でありました。
娘らとの交流はとても楽しくて、いつまでもここで飲んでいたかったのでありますが、酒を買いに行ったはずの私がいっこうに戻らないのを心配して、ボボンとベービーが迎え来てしまったのであります。
ホントーはいつまでたっても酒が戻ってこないから、酒を取りに来ただけなのでありますが、まあ、一応は心配して見に来たことにして、と。
私は娘たちに「じゃぁ、また明日ね」と言うと、先ほどの19歳が「今夜も暇だけど・・・」と意味深なことを言うので、周りの娘たちが黄色い声を上げて大騒ぎでありました。
スケベなおっさんとしては悪い気はしないのでありますが、ちょっとそれは余りにも唐突で、まだ心の準備が整っていなかったので、さらっと、また明日ね、と立ち去ったのでありました・・・ちょっと残念?



    夜も働くMDSのスタッフ・・・呑みながらですけど

 明日の為に、昼間使ったタンクに空気をつめなければなりません。
この船が動き出す前にポジションが決まっていたのは、飯炊き係のボボと、操舵手のリチャード、自称メカニックのキンキンだけでありました・・・おおっと、そしてキャプテンの私と。
他の皆の者はただ単にボートマン、と言う役割で、いったい自分が何をやったら良いのかほとんど分からずに乗り込んで来たわけであります。
しかし、嵐の海を200マイルも走り、数々の故障と困難を乗り越えて来るうちにそれぞれが自分の持ち場を見つけ、自発的に動くようになっていたのは少し驚きでありますし、とっても喜ばしい事でありました。
昼間ダイビングで使ったタンクは夜の間にチャージして置かなくてはなりませんが、これがけっこう厄介な事でもある訳です。
1本のタンクを満タンにするには、10〜15分かかりますので、1時間で4〜5本しか入りません・・・しかもオートストップではないのでずーっと見張っていなくてはダメなのであります。
ある夜、私がビールを飲んでボーッとチャージを見ていると、メインがポギーでサブがリチャード、という二人のコンビでチャージをしていたのであります・・・当然それは一杯やりながらでありますが。
彼ら二人は、明るいうちには、とても重労働の水汲みも率先してこなしており、随分と真面目な、フィリピン人らしくない奴らだな、と思っていました。
しかし、翌日、あれっと気がつくと水汲みにはエドモンドとキンキンが行っていて、エアーチャージはベービーとボボがやっているではありませんか。
ああ、なるほどねぇ・・・スタッフ同士で打ち合わせをして仕事の分担を割り振ってあるのだな、と気づいたのであります。
へぇー・・・どうにも頼りない、子供の遊びのような仕事しか出来ない奴らだと諦めきっていたのですが、なかなかどうして、やる時にはちゃんと、やるもんだわい、と見直したのであります・・・たまたまかなぁ?

 ディナガットは山が痩せているので保水しないせいか、井戸水も質が悪く、MDSのスタッフでも生では飲めないと、湧かして飲料水を作っていました。
私はほとんど水を飲まないでも平気なので・・・夜に大量のビールで水分採ってますから・・・水はあまり気を使わなかったのでありますが、それでも緊急用にと5リットルのミネラルウオーターを一本持っていたのでありました。
しかし、ボボンとジェフリーが腹を壊したと言って、私の緊急用水をくれ、と言ってすっかり飲んでしまったでは有りませんか。
おいおい、お前らフィリピン人だろーがぁ・・・しっかりしろーと、言った日、私にも当たりが来まして、二日ばかり、かなり頻繁にカリバゴンでありました。
もっとも、船の上での生活が一週間を過ぎた頃には、食べ物もかなり限定されて野菜の類いはほとんどありませんで、お腹の調子が狂うのは水だけが原因では無かったとも思います。
しかも、水分補給と称して、毎晩がぶがぶとビールを飲み続けているのでありますから、胃も腸もたまったものではないと・・・。
ああ・・・船の上での睡眠は快適でありますよ・・・ポーンと跨げるほどしか岸と船は離れていないのですが、それでもモスキートは海が怖くて渡れないのか、絶対に襲ってこないのであります。
船着き場から歩いて5〜6分の山の中に水場が有るのですが、ここで裸で水浴びなどしていると、石けんだらけだというのに、おかまい無しのヤブ蚊に所かまわず喰われるのであります。
ですから、水浴びは裸にならずにパンツをはいたまま、Tシャツを着たままで行うのが正当な姿なのであります。
初日、まったく無防備だった私は水浴びの最中だけで10カ所以上も喰われ巻くってしまったのでありました・・・どーも私だけ喰われるような気もしますけれども。




 さよなら ディナガット・・・二度とご免だぜ

 まあ、色々ありましたけれど、取りあえず言われた仕事はこなし、けれども、約束した金はちゃんと貰えず・・・まあ、それでも帰りの燃料を買うくらいは貰えた訳で、とりあえず帰れるぞ、と。
明日帰るとベンに告げると、もう一日泊まって行かないかとの誘い。
わけを聞くと、ディナガットの町の自分のオフィスに案内するのと、州知事に会って行かないか、との事でありました。
ああ、また始まった・・・自分の手持ちの駒に日本人が居る事を宣伝して歩きたいだけなんだ、と言うのが見え見えだし、ベンのオフィスなんて興味も無いので、即座にNOとお断りであります。
そんな事より、今日中に燃料を買って明日の朝は早くに出発したいので小型のバンカーボートを貸してくれ、と頼みました。
しかし、ベンの仕事で出払っているので今日は使えないとの事で、結局軽油を買いに行くのは明朝と言う事に・・・まあ、焦っても仕方が無いと。

 ああ、そうそう、調査の為に船を出して戻って来た時に、キンキンが、またオルタネーターが発電していない、と宣うでは有りませんか・・・またかよ、であります。
軸受けで失敗して、ベアリング入れるのに一日つぶして、それ相当の金を掛けてもまだダメなのか、と怒りを隠さず問いつめると・・・帰れないよ、このままでは、と、あっさり答えるキンキンでありました。
私はオルタネーターではなくてバッテリーを疑っていたのでありますが、キンキンと一緒になってジェフリーが プッシュして来るものですから、じゃぁどっかで探して中古の新品でも買ってこい、と。
半日掛けてあちこちの中古パーツやを探したのでありますが、島が小さく道が良くないので大型トラックはほとんど走っていないようで、トラック用のパーツは皆無でありました。
結局二人はフェリーに乗り、ミンダナオ島のスリガオシティーまで行って中古の発電機を探して来たのでありました。
私の手持ちの現金は既に3000ペソしか無く、仕方が無いのでVISAカードを持たせてやって、銀行で金を引き出してから買いに行けと、暗証番号を教えたのであります。
と、ジェフリーが私に・・・PINコードは知っているから、ですって・・・何でお前が俺のカードのPINコード知ってるんだよ、と問えば、いつも見ているもん、ですって・・・ドヒャァーであります。

4月27日朝6時・・・MDSは大きすぎて船を付ける所は無い、との事で、小さなバンカーボートに軽油のポリタンクを10本積んでディナガットの街へ行きました。
しかし、10本ものポリンタンクを何度も運ぶのは嫌なので、其処退けそこのけと無理矢理割り込んで、ひんしゅくを買ったのでありますが、早く帰りたい一心で笑顔を振りまいてゴメンしてくれろと。
軽油はドゥマゲッティーの15パーセント高と高いのでありますが、ここ一軒しかスタンドは無いわけで、贅沢言う前にこれしか無いわけであります。
8時から電気が止まると聞いていたのですが、7時過ぎで既に停電状態でありまして、給油は手回しポンプなのであります。
200リットル手回しポンプで入れるのか?一時間掛かるぞ・・・と、私の心配顔が通じたのか、自家発電でポンプを回し給油してくれたのは助かり、で有りました。
給油に時間がかかる間に市場に行って魚を買ってこようと歩きだしのですが、やっぱりこの街はどこか変で、フィリピンらしくないのであります。
まず、フィリピン中どこでも有りの音楽の洪水が皆無でありまして、どこからも、ラジオの音一つ聞こえて来ないのであります。
一緒について来たジェフリーが、この街では歩きながら煙草を吸ったら街の奴らに袋叩きにされるんだ、と言うので、まさかぁ、と思ってよく観察すれば、どこにも煙草を吸っている人の姿が無い。
PBMA一色の街という事なのか?などと思いながら市場に入ると、これまた質素な市場で、ほとんど何も売っていない。
それほどの貧困だと言う事なのか、それとも、宗教上の理由で質素を旨としているのかは判断つきませんでしたが、何も無い街であります。
私は目の色のまともなイワシを1キロと、干し魚を50ペソ分買い、外の八百屋でナスとキャベツとビーフンを買ってボートに戻りました・・・船が走り出すまでずーっと誰かに見られているような気がしたのは、気のせいでしょうか?

 さて、燃料と食料はそろった、水も積み込んだし、向こう岸の19歳を含む村の娘たちにも挨拶をしたし・・・いざ出航、と思ったらエンジンが掛からない。
ウンともスンとも言わないではありませんか・・・キンキン、どーしたのよ、と言うと、バッテリーが上がっているとの事。
へえっ?・・・だからオルタネーターをスリガオまで買いに行って来たんじゃなかったの?・・・お前、何を買って来たの? 鉄くずか?と、怒り狂う私に、トーピンが静かにビールを差し出すのでありました。
うん、ご苦労、とビールを飲み干した私は、デッキにひっくり返って寝てしまったのでありました。

 私の腕時計が10時を指した頃、ゴゴゴッと鈍いスターターの音がしてエンジンが掛かりました。
中途半端にチャージしたバッテリーで大丈夫かよ、と私が言うと、どっちみち一個はほとんど死んでいるから、とキンキン。
だからぁー・・・オルタネーターじゃ無くて、バッテリーだって、あの時俺は何度も言ったじゃないかぁ・・・と、私は鬼の形相で怒りまくったのでありました。
すると、今度はリチャードが、ほれっと、ビールのコップを差し出して、早く行くべし、と。
私は一気に飲み干して、デッキにひっくり返り、ドゥマゲッティーに着くまで起こすなよ、とふて寝でありました。
こいつら、俺が暴れそうになったらビールを飲ませろって、それで大人しくなるからと打ち合わせ済みと言う事か?・・・煩いから寝てろってことなのか?

怒りが収まって舵を握ろうとする私に、 ノノイがA4のコピー用紙に書かれた絵を見せてくれたのであります。
帰り道はショートカットで帰れるようにと、村人が地図を書いてくれたのだと見せてくれた物は、どこから見ても子供の落書きで、これは地図とは言わんだろう、と言う代物でありました。
しかも、方位線が書いて無いので、東西南北が分からないと言う、地図の根本を見失っている、たんなる絵図面でありました。
右手に大きな島を見ながら平行に走り、そこが途切れたら、90度に曲がれと言われたのだとノノイが説明する訳であります。
アッチャー・・・それじゃぁ、今の進行方向の方位を計っていなかったら、どうやって90度の転進を出すのよ、ノノイさん、と問うと、それは勘だと・・・バカめ。
私は村人に書いてもらった絵図面に定規をあて、航跡と方位を入れ、スリガオの街が見えた所で位置を確認し時間を記入し、リチャードに真西から10度南へ振って進めと、指示を出したのであります。

 途中快晴なのに強い風が吹き、船尾から持ちあけられて危ない目にも少しは遭いましたが、おおむね順調に、午後4時過ぎ、最初にボホールで停泊した街に船を舫、また井戸で水浴びをし、今度は村一番の大型スーパーで食料も少し買い、のんびりとしたのでありました。
船が入ったと言う知らせはあっという間に村に流れるのか、前回朝飯をごちそうしてくれたドドンが船にやって来て、晩飯を喰い来いと誘ってくれました。
しかし、11人も居るので今夜は遠慮しておくから、と言うと、じゃぁ朝飯な、と言って帰って行きました。
ああ、そうだ、多分明日の朝はバッテリーが一つ必要になるはずだから、今のうちにマシンショップに電話して、明日の朝貸してくれって頼んでおけば、とジェフリーに言うと、ぬかりは無いね、との返事・・・小癪な奴めが。

 翌朝は5時にはバッテリーを持ってマシンショップのおやじが来ていて、おまけに、彼の奥さんから卵が10個も届けられたではありませんか。
朝飯は豪勢なオムレツで・・・でも、野菜もハムも無いから、これはただの卵焼きだな、と言う事で、私が醤油と砂糖で日本風にしたのでありましたが、不評でした。
出航は6時でありました。
2時間ちょっと走って右手前方にパミラカンが見えた所で一同全員に安堵の顔が見えました。
ここからドゥマゲッティーまでは泳いででも行けると・・・でも、ドゥマゲッティーどころか、まだネグロス島の陰も見えては居ないのですが・・・。
トーピンがはしゃいで、ほらぁ・・・パミラカンの左の先に見えるじゃないか、と私をからかうと、ノノイも、見えるじゃないかぁ、と。
皆、なんだかんだ言っても、早く家に帰りたかったんでありますね。
10日ぶりにサンタモニカビーチにMDSを舫ったのは、ちょうど12時でありました。
 


  では、また・・・。           




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