今回の話題 | 十五年後の悪夢 |
タイトル | 易しい選択(02/03/04) |
地底の妖魔の国に帰っていました。 地底には太陽も月もなくただ薄暮が永遠に続いている。 地上に倦怠をおぼえ、少しの間のつもりで地底に帰った。 銀の鳥達が遠浅の水中で歌う。湖畔の砂は骨屑の白さの銀。裸足の足跡に従ってのちには罌粟が咲いた。葉は黒に近い翡翠。茎は緑柱石。花は最も色濃い柘榴石。足跡の持ち主に似て果実は毒になろう。他の罌粟に似て。 湖を過ぎると神殿がある。地底の時でも遥か昔、戯れに神殿を建てた妖魔がいたのだ。地底で崇められるなど、神々にとって最大の侮辱であるはずであった。罰が下るはずであった。 否。神々は人間にも妖魔にも無関心。その超越ゆえに。彼らの無関心を証明するためだけに建てられた神殿。神々の無関心を知っての遊びだったのだ。 神殿の門番は、伏せていても人の男ほどの高さの雪花石膏の獅子である。犬の顔と翼があっても獅子ならば。 その腹に頭をもたせてうたたねをした。獅子の心臓は百度打った。 地底での時は、変化をもたらさぬ。住人であり主人である妖魔の意思のみが変化を生じせしめる。主人の意思なくしては、時そのものが倦むまでただ流れ続ける。故に時は地上とは違った歩みを刻む。 石像の心臓が百打つ間にはどれだけの時が流れよう? 地底ではほんの数刻。では永生を持つ者のおらぬ地上では? 七ヶ月が流れていた。 皆様改めましてこんばんは。克也子です。「困った時にはハッタリで乗り切っちゃえ☆」といういい根性な文章(冒頭)を書いてみた克也子です。 「すぐ死ぬ人間のあなたたちには7ヶ月は長いでしょうけど死なないアタシには7ヶ月なんてちょっとうたたねくらいの時間なのよ……」 と、とりあえず高飛車に出てみました。 地底にいたはずにしては半年の間にADSLにしてたり(快適)、やたらと本を読んだり(月30冊)、母が完治したり(何より良かった)、恋の終わりを予感したり(ほぼ確実)、してました。 そこそこ遊んでもいたので、 「アンタ神戸のハッテン海岸に通い詰めてたでしょ!」 「○○(地名)の映画館で見たわよ!」 「ジムで出会った僕の立場は!?」 「今年三十路のくせに朝までクラブで踊ってたでしょ!」 と、目撃情報を寄せられてしまう可能性もありますが、そうなるとせっかくのハッタリが台無しなので、見かけた方は優しい気持ちで口をつぐんでください。 随分久しぶりになってしまいましたが、皆様いかがお過ごしでしょうか。ここまで休み続けたくせにこんなこと言うのもなんですが、何事もなく過ごしておりました。ちょっと忙しくて、ちょっとだらけていただけです。 さて、何からお話ししましょうか……。まずはもう遠い記憶となった去年の夏の話から始めましょう。 母がガンで入院ということになったので、私も珍しく夏に実家に帰りました。母は幸い、助かりました。夏の神戸は良かったです。 本日は久しぶりなことですし、あまり話したことのない少し怖い話をいたします。そう……この話を聞いた人の、アタシにとってあまり好ましくない反応が予想できるので今まで話さなかった話なのよ。退かれるか、奇異なものを見る目で見られるか、バカ扱いされるか。そして一部に熱烈な関心を寄せる人がいると思うの。でもまあ、たまにはね。多分、ただのちょっとした昔話よ。 唐突ですが、皆様は超能力と言われる類の能力をどう思われますか? アタシは「役に立たない」と思うの。小さな力ではリモコン代わりか見世物くらいにしかならないと思うし、大きな力を持っていてもそうそう使う機会はないと思うのね。強い力があったとしても、この文明化社会に、できるからって超能力でいきなりビルを建設したりするわけにもいかないもの。犯罪ぐらいにしか使い道がないと思うのよ。 それに、アタクシ、子供の頃から「自称」超能力者とか霊能力者というのが嫌いなのよ。そういうのって、世間の人が勝負してる、成績とか性格とか収入とか運動能力とか容姿とか人望とか、なんでもいいんだけどそういう一般的な価値基準をいきなり飛び越えて、人の気を惹こうとしてるように思えて、当時は汚らしく感じられたの。まだ偏差値自慢される方がマシだったわ。まあ、乙女時代だから潔癖だったのね。今だったらそんな自称されたら「とりえのないブスは大変ね」と、冷笑して済ませちゃうけど。 でもなぜか、そんなアタシにちょっと奇妙な力があったの。レッテルを貼るのは嫌だけど、ESP、超感覚知覚と言われる能力は、微弱だけど、よく言われるものはほとんど全種類あったのよ。 子供の頃、積み重ねたトランプを裏返しておいて、上から1枚ずつ当てていったの。完全に見えるわけじゃなくて、「全体が大きく塗られている」「赤い」「黒い」だけがわかったから、結果としては「絵札とスペードの1」「絵札以外のクラブとスペード」「絵札以外のハートとダイヤ」には分けられたのね。今考えると、偶然ではほぼ不可能だとは思うの。 でも、一見五感以外の感覚に思えるものというのはあるわよね。電話のベルが鳴っただけで、誰からかわかったりするでしょ? 鳴った瞬間に「この時間帯によくかけてくる人」「電話をかけてくる周期」「周囲の事情」なんてのを無意識に判断してるんだと思うの。だからこういうのは不思議なようで不思議じゃないのよ。 アタシは「子供の科学」を定期購読しているような子供だったし、「自称超能力者」が嫌いだったのもあって、ある時から子供ながらにいちいち理由を考えて超能力というものを否定するようになったの。「赤がいっぱい印刷してあるカードは裏から見ても少し透けてて赤っぽく見えちゃうんだ」とか「トランプを繰る時に無意識に計算して記憶してるんだ」とかそんな具合によ。でも、こういったやや強引な説明は段々追いつかなくなっていったの。 トランプを裏返して当てる以外のことは、意図的にはできなくて、「降りてくる」とか「勝手に見える」というのが近かったの。一番頻度が高かったのが予知で、この感覚、というよりは体質がピークだった14、5歳くらいには週に1度くらいは見てたのよ。 そして、自分の能力の限界も仕組みもわかったの。例えば、 ・予知は2週間先まで。 ・遠隔視は半径数百メートルまで。ただし、自分の知っている人がいて、自分も行ったことがあるところなら数百キロでも可能。 ・予知と遠隔視は同時に発動しない。予知できるのは将来自分の目で直接見るものだけ。 ・人の考えていることが流れ込んでくる時もあるが、それは言語化されていて、かつ意識の表層に浮かんだごく一部の単語だけ。 ・母方の人間が集まっているところでは発現しやすいし、力も強まる。 そんな限界や仕組みを調べていくのは何かを発見、攻略していくようで楽しかったわ。カテゴライズすれば予知とも遠隔視とも様々に呼べる、端的に言って「周囲のデータを勝手に読み取る体質」だったのよ。だから「初対面の人の名字が名乗られなくてもわかる」「母の従姉妹が自分の学校の先生と同級生だとわかる」というような、あまり一般的な呼称がついていないけど、普通はできないことをしてしまっていたの。 その頃にはまだ自分のしていることが特別だとも思っていなかったし、特異なのかもしれないと思い出した頃には、他の子供が持っていないオモチャを持っているような優越感があったのよ。子供だったから、周囲の大人が驚くのも面白かったし。 正夢というのは、起きている間に無意識に感じ取っていることを寝ている間に脳が再構成して見せる結果だと言うわよね。アタシが見ていたのも似たようなもので、ちょっと他の人よりもそれが強いだけだと思っていたのよ。 でも、段々怖くなったの。私の見る予知映像は曖昧な要素が全くなくて、未来の自分の見る視覚がそのまま見えたし、一度も外れることがなかったのよ。そして脳が勝手に再構築云々で考えるには無理なほど、寸分たがわず未来が見えたの。 そして怖かったのは、その奇妙な現象よりも、「100%外れない予知を見られるということは、未来というのは初めから決まっているのではないか?」という、より根源的な、運命論者にならざるを得ない疑惑だったの。キャ。思春期らしい悩みね。 幸か不幸か、意図的に未来を見ることはできなかったから、「未来は決まっている部分もあって、そしてどんなに自分が干渉しようと思ってもできない、その部分だけは知ることができるのだろう」と強引に自分を納得させたの。そう思わないと耐えられないほど怖かったのよ。子供だったし、「未来はどうやっても変えられない」ということが恐ろしかったの。 コントロールできない能力なんて全く意味がないと思うの。「2週間以内の数十秒間の自分の視覚と聴覚」とか「現在いるところから半径数百メートルのどこか」なんて無作為に取り上げても意味があることなんてまずないし、仮にコントロールができたとしても、決して変えられない未来なら見てもどうしようもないんじゃないかしら。 大人になって、そんな体質も段々おさまって、予知ができる故の恐怖も遠ざかったわ。「喉元過ぎれば熱さ忘れる」ってやつで、「あれは思春期特有の悩みだったわ」くらいに思ってほとんど忘れてたのよ。 急に、そんなことの全てを思い出したのはきっかけがあったのよ。 8月、母の手術が神戸市内の病院であったの。子宮の一部を切り取る、検査も兼ねた手術よ。そして、アタシ、姉、父、伯母(母の姉)は手術室の前の待合室で手術が終わるのを待っていたの。 何もできない時間を過ごしていたわ。そんな時、並んで座っていた姉の前のテーブルに2輪の花の咲いた百合の鉢植えが置いてあったのね。そして、斜め横からぼんやりと百合を見ていたアタシはふと気づいたの。 アクシ「姉、百合に斑(ふ)が浮いとう。もう切り落としてしまえばええのに」 姉「そうやね」 百合には一点だけ、茶色い染みがあったの。それがなんとなく気に障って、ふと姉に言ってみたの。母が手術中の待合室ではなんだかする話もなかったし。 その後、3秒くらいして「パスッ」と軽い音がしたの。「え?」と思った時には、百合の花が縦に真っ二つに裂けて、アタシの方に見えていた、斑のあった側が落ちたの。 一瞬何が起こったのかわからなかったわ。ただ、百合の花が正確に半分に切られて、その縦の断面を見せているのだけは、疑う余地のない事実だったけど。 「私じゃない! 私じゃない! 誰? 姉!?」 とっさにいくつかのことを思ったけど、まず初めに自分の力を否定したのは、やっぱり昔、この体質のせいであまりいい思いをしなかったからかしら。その後は色々と、この現象の原因を考えたの。 かまいたちかしら? (窓のない室内で?) 誰かがピアノ線のようなもので切ったのかしら? (誰が? 室内には家族のほかには誰もいなかったし、そもそもなんのために?) いたずらっ子が花を切って糊で付けていたのが剥がれ落ちたとか? (無理があるわ) 百合はもしかしたら裂けて枯れ落ちるのかしら? (そうかもしれないわ) そうよ、タイミングはちょっと良すぎたけど、偶然かもしれないわ。百合の花は萎んで枯れるものだと思ってたけど、もしかしたら室内では縦に裂けて落ちるものなのかもしれないわ。 そう無理に説明をつけてはみても、何か恐ろしい気持ちなのです。 まさかそんなことは万が一にもないと思うけど、 そう、万が一、万が一。 ……私が? 恐ろしいことを考えているのです。 いつか再現してしまうのではないかと思うのです。 無理に楽観的になろうとした、あの心に負荷の大きかった時間。 あんな時間をもう一度持ったら、無意識に何かを壊してしまうかもしれません。 私がこれまでにないほど人を憎む時のことを想像するのです。 未来の恋人の心変わりを。 絶望するほど人を憎む時のことを想像するのです。 部屋には、鍵がかかっています。 凶器は、ありません。 頚動脈が切れて、男が死んでいます。 原因は、わかりません。 犯人は、見つかりません。 ……犯人は、いません。 記憶が蘇るのです。 どうして瞼を閉じているのに物が見えるのか、疑問も抱かずに見た初めての遠隔視。 あの時、私は4歳だった。草地で若い女の人を5人の男が取り囲んでいた。 「お母さん、怖い!」と叫んだのを覚えている。 そう、あれは今にして思えば、たちの良くない集まりか、輪姦の現場だったのだ。 嫌だわ、昔のことを思い出したら、ちょっと暗い気分になったわ。でも大丈夫、きっと人はそう簡単に死なないわ。それに百合のことだって、きっと偶然だわ。ナーバスになってたから小さなことが気になったのよ。そうそう、これから新しい恋人探しに頑張るんだから! でも、その時ふと誰かの心が聞こえた気がするの。 「脈を切られても死なない人間を探す方が、心変わりをしない人間を探すよりたやすい」 …………風の戯れの音よ。 |