特別寄稿「理想と現実との狭間で」(2001.10.1)
 あれから、なぜ自分がこれほどまで、今回の橋尚子様の偉業に対して冷淡な態度を取れるのか掘り下げて意識下からサルベージしてみた。本当に橋尚子様の底が少し見えたような気がしたせいだったのか?否。じゃ、その理由は何?



 そもそも、橋尚子様がいらないといったペースメーカーを小出監督がつけることにしたあたりから違和感があった。その違和感は、レース前半で一気に僕の心の中に噴出した。



 
僕はこんなレースを見たかったんじゃない。



 映像に映し出される橋尚子様は、傍目にはガードされているのかも知れないが、僕の眼にはがんじがらめに縛られ自由を奪われた橋尚子様にしか見えなかった。

 バイクカメラが橋尚子様に離れろというポーズを取らせるくらいまで近寄る。ガードランナーはがっちりガードしてはいるのだろうが、僕は脚が交錯しないかと気が気でない。



 
僕はこんなレースを見たかったんじゃないんだ。



 シドニーの代表権がかかった名古屋国際の直前に、僕はこう書いた。

 「そういえば、ボクは98名古屋での高橋尚子様の走りとフォレストの走りとをだぶらせてみていたんだっけ。」

 フォレスト・ガンプのような走り。とにかく走る。何物にも束縛されず、自由に走る。それが、僕が橋尚子様に望む理想のレースであった。二宮清純のいう「全てを破壊する」とはつまり、束縛から解き離れた自由への志向を意味する。一言で言うと、孤高な一人旅だ。

 アジア大会の橋尚子様は、まさにその理想であった。陽炎の遥か彼方から黙々と脚を運ぶ橋尚子様が、その理想であった。前方にも後方にも、彼女を邪魔するものは何もない。あの時の橋尚子様は、小出監督からさえも自由であったと、今でもそう思っている。

 それがどうだ。あのベルリンに広がる光景は何だったのか。既にスタートから「世界最高記録、女性初の2時間19分台」に縛られたレース。「狙う」ということは自らを縛るということだ。何物にも束縛されない自由な走りなど、望むべくもない。そこには僕の望む橋尚子様の理想のレースなど、あるはずもなかった。



 気がつけば、時計ばかりを気にしている哀しい自分が、そこにいた。もうそれしか、僕のとってはあのレースには残っていなかったのだ。

 最後に残っていた期待は35kだった。35kからの5kは下り坂。僕は掲示板に祈るように書いた。

 「スパートだ。」

 悲痛な叫びだった。せめてここから、あの束縛から解放されたかのようなスパートを見せて欲しい…。しかし、そのような淡い期待は残り5kで橋尚子様の脚が動かないのを見て、完全に打ち砕かれた。


 確かに、女性初の2時間19分台という偉業は立派だったと思う。しかし、記録が全てじゃない。それなら僕は、橋尚子様が最初から1人で飛び出して、小出監督の指示もなしに本能の思うままに走り、30kでつぶれるシーンを見ている方がよっぽどましだった。

 今後橋尚子様がどんなマラソンに出るのかはわからないが、何物にも束縛されない自由を体現するには孤高でなくてはならず、すなわち、それは男女同時スタートのマラソンでは実現不可能だということを忘れてはならない。つまり、多くの海外レースでは橋尚子様がいかなる走りをしても、結局僕が完全に満たされることは恐らくないだろうということなのだ。



 
もう一度だけでいい。あの時の走りを僕に見せてくれないか。