書評 『宮内 泰介 編(2009)
「半栽培の環境社会学―これからの人と自然」

昭和堂 257pp. ISBN-13: 978-4812209349
定価 2500円(税別)


タイトルにある「半栽培」という文字と、表紙にある「畦に列をなしてイネを採食するサル」の衝撃的な写真に引かれて本書を読むことにした。 本書は編者が代表の科学研究費基盤研究(B)「半栽培(半自然)と社会的しくみについての環境社会学的研究」(2005〜2007)の研究会の概要と記録を伝えるため書かれたものである。 科研費研究への参加研究者の研究テーマのなかから10個の具体的事例を通して「半栽培」の(多様な)考え方を紹介している。全体を通して、一般の読者にわかりやすい言葉の使用で、用語の説明も加えながら、簡潔に要約された学術的成果を記してある。

評者は環境社会学, 人類学や民俗学などの研究者ではないが、兼業農家で育ち現在も多少なりとも米作りや、ある程度「半栽培」を利用した生活を経験している立場から本書を紹介するので、専門家向けのコメントではない。 従って、関連する専門用語や概念(例えば、「コモンズ」や「ドメスチケーション」など)の使用は避け、日常の言葉のみ使用する。また、「多彩なバックグラウンドを持った者たちが共同作業した成果でもあり、またそのことによって少しでも今後の自然環境をめぐる政策論に寄与できればと思っている。」と、あとがきにあるように、多様な分野に関わるものを、無理に整理したりするよりも、「半」状態のほうが良いのだと思う。

この本の論点は編者の宮内泰介氏による序章の「今後の環境保全はどうあるべきか、というのは、じつは、私たちが歴史を踏まえながら今後どう自然とつながっていくのか、ということとほぼ同義である。そして、そのことは、私たちがどういう社会を作っていくのかということと密接に結びついている。自然との関係が社会のあり方を規定し、社会のあり方が自然との関係を規定する。そう考えたときに、「自然のままにしておくのか、それとも人間が積極的に手を加えるのか」といった不毛な対立ではない、別の道筋を、本書では半栽培という概念を手がかりに提案してみたい。」にある。すなわち、「野生か栽培か、自然か人工か、所有かオープンアクセスか等の二元論を超えて、自然との関係社会との関係の「間」に位置する環境問題や生活問題に向き合うことの重要さを様々な事例を通して考察する内容である。

本書の構成は、序章「「半栽培」から考えるこれからの環境保全―自然と社会との相互作用」で基軸になる半栽培の3つの概念、栽培化(中尾佐助の提唱する意味での半栽培)、生育生息環境(ハビタットの改変)、人間の認知の改変という考え方を説明し、第1部「多様な関係としての半栽培」(第1章-第4章)で、半栽培の多様なバリエーションを紹介し、第2部「半栽培とこれからの自然管理」(第5章-第10章)で、一元的価値に基づく管理ではなく、順応的管理、弱い管理の重要性を論じている。 各章は、見出し、題目、副題が表示されていて概要がとらえやすく工夫されている。第3章と第10章でヨシについての話が重なることもあるが、「もの」ではなく、「こと」に沿って整理していく構成のためである。

以下に各章について簡単に見ていく。
第1章[生態系サービス]、「半栽培と生態系サービス―私たちは自然から何を得ているか」では、アグロフォレストリー、コウノトリの野生復帰、サンゴ礁などを事例として半栽培のひとつの意義を、生態系サービスを維持、向上させる手法であるという視点からとらえている。 第2章[変動] 「揺れ動く竹の半栽培―たけのこ産地はモウソウチクの繁殖力とどのようにつきあってきたか」では、半栽培の意義を北九州の合馬のモウソウチクと住民の生活との関係を例に竹林の成長と、野生化と栽培化のなかを揺れ動くその管理方法の歴史的経緯を通して、探っている。 第3章[生業]、「 生業と半栽培―河口域のヨシ原は何によって維持されてきたか」では、北上川河口域のヨシ原管理を中心に自然資源管理の独自性や多様性とその変遷を例に、生計を立てる為の「生業」との意味合いからとらえている。(この地域は、3.11の津波で河口付近の約450の家屋が流されたばかりか、多くの人命を失っている。) 第4章[里山]、「 アフリカの里山―熱帯林の焼畑と半栽培」では、焼き畑を利用した「畑の循環」や「森林循環」としての作物の利用や管理としてのの半栽培の意味を示している。 第5章[多様性]、「 半栽培の多様性と社会の多様性―順応的な管理へ」では、半栽培と呼応した社会的しくみとして管理形態の多様性や変遷が、第2部の各章で語られるkとに向けて整理されている。第6章[所有]、「 「半」の思想―不完全な資源の不完全な所有と不完全な管理」では、「半」状態でものごとに対することの効用が様々な事例で示されている。 第7章[規範と制度]、「 半栽培とローカル・ルール―きのことつきあう作法」では、山のものとして本質的に無主物であるきのこを、完全に管理するのではなく、自然な状態を取り込んだ半栽培生物として扱うことの合理性示される。 第8章[物語]、「 半栽培の「物語」―野生と栽培の「あいだ」にある防風林」では、北海道防風林の在り方や所有に関する歴史的、文化的、社会的過程が議論されている 第9章[獣害管理]、「半栽培と獣害管理―人と野生動物の多様なかかわりにむけて」では、下北半島のニホンザルによる猿害やその対策問題を通して、住民のコントロール不能な猿との付き合い方、向き合い方のゆらぎを報告している。 第10章[「住民参加]、「半栽培から住民参加へ―琵琶湖のヨシをめぐる住民活動から」では、一様な管理体制でなく古来の多様な管理形態の復権や地域の生活向上を軸とした様々な形態の在り方の重要性が主張されている。


いくつか事例に関する自分の身近なことがらを挙げてみる。
 モウソウチクは私自身も自家用に非常によく利用する半栽培の植物である。 現在、荒れた放置竹林が目につくが、原因はいくつか考えられる。ひとつは、竹はもともと農作業に欠かせないものであるが、田んぼの面積を増やすために、農地の傍ではあるが耕作地として利用に適さない山の斜面や高い場所など不便なところに植えられていたため簡単に手入れを行いにくい。 以前は、秋に竹林の手入れをし、伐採した竹は冬場に苗代や畑で使用するために加工することが常であったが、米作りなどへの竹の使用が無くなってきたためもあり、放置され野生化している。また、自家用として多量にタケノコを食べれば手入れもするであろうが、百姓でも容易に様々な食品を入手可能になったため、農繁期と収穫期が重なるタケノコを取らないため、ますます荒れていくことが考えられる。今でも、近くの山には、先人が植えたのであろう、タケノコの収穫時期が異なる唐竹やネマガリタケもあり、4−7月まで収穫を楽しめる。

シイタケとナメコは、強風で倒れたコナラやクヌギなどの広葉樹を雑木林から切り出してきて菌を植え付け、竹林や杉林の適当な場所で生息させている。元々環境に影響が大きくタイトにコントロールできるものと思っておらず、たくさん取れたらもうけものという感覚である。 野生のキクラゲ、ハナビラニカワダケよりは栽培的であるが、山で取れるヒラタケ(最近は毒性も指摘されているが)などのほうが毎年確実に多く収穫できるほどである。 

私の居住地域では、サルによる害こそないが、ここで記されている住民の声は共感できる。手をかけずにもたくさん成る半栽培に近い状態のカキをタヌキが食べにくることには、親近感こそ感じ腹は立たないが、比較的手間がかかり収量も多くないイチゴやスイカをタヌキやハクビシンに取られることは非常に腹立たしく感じるものである。それが、明日収穫してやろうと思っていた前日に横取りされることが多いからなおさらである。 タヌキやハクビシンなら対策も考えられるが、もし本書にある写真のような「畦に列をなしてイネを採食するサル」のような光景が自分の田んぼで生じたとしたらどう対処するであろうか。 「あきらめの境地」に至ることも容易に想像される。一方、以前はタヌキ汁、兎汁を食べたり、剥製を作ったりしていたのでお互い様という一面もあった。

また、私がよく利用する古い家は、(トタンで覆ってはいるが)藁ぶき屋根であったり、農作業場などの土壁の小舞(下地材)として萱が使われている。これらを特に手入れすることなく使用しているので、 生活の基盤におけるヨシ原の重要性は実感できる。

さらに、私自身の日常に目を向けると、普段気には止めないが、多くの半栽培があることに気づく。 典型的なものとして、ミョウガ、ミツバ、山椒などは、小川のワキや民家の周りに自生し、面積や手間を取らず、食用に利用している。これらの植物のある場所は、周辺に民家が無い場所でも以前はその地域に人が住んでいた痕跡だと思っていい。さらに、山から移植したものに、ギョウジャニンニク、タラノメ(タラの木)、ヤマウド、ミズなどがあり、全く手をかけずに季節ごとに味を楽しむことができる。 ドクダミも薬用に使っている。また、里山のゼンマイやカタクリも誰のもということのない無主物であり食用にするし、ホオ葉も利用している。 その際、自由に採取するわけだが、採取方法などに山をダメにするようなことのない"緩いルール"ともいえる「半」精神が存在するといえる。 そして、その行為が山や生物に対しては、”弱い撹乱”を与えていることになる。海岸においても、磯魚釣り同様で、イゴ、アオサ、岩ノリ、ギサバ、オカヒジキなどの海藻を自由に取るが、自家用に使う分だけなので問題が起こることは考えられない。農村地域の人口がその地域の環境容量を超えていない場合うまくいくという感じもするが、どうであろうか。 一方で、ローカルルールを(意識的・無意識的に)守らないよそ者による問題も忘れてはならない。 資源の枯渇のみならず、山火事や釣り場の環境汚染を引き起こすこともある。

上記の様に、現在におても、意識せずとも半栽培は日常生活に入り込んでいる。里山のタケノコの例にも当てはまるが、全ての山には所有権があるが、その採取に関しては、「土地所有」に関しても「所有」自体はある程度明確になっているが「境界」はあいまいなまま利用しているケースも多く残っている。 これらが社会の中で機能しているのは、序章や第6章にもあるように、「半栽培」的思想が存在していることによると思う。広く言えば、これは、利己と利他の二元論、生と死の二元論を超えた思想になじんでいることと関わり、本書のオビにもある「自然か/人間かの二元論を超えて」という点に通ずるものがあるといえる。 半栽培は、生業や収入源というわけではないが、セーフティーネットであるという要素も含めて、そこで生活することの精神的豊かさの背景になるのかもしれない。

繰り返しになるが、日常に垣間見える「ものごと」の一端を半栽培という概念を軸に見るという研究成果を、平易な言葉で表現しているので、 専門家や研究者よりも、むしろ農業者や比較的田舎者に読まれるべき良書であると思う。 最後に、本書の中で表示されている写真は表紙の数枚を除いてはモノクロであるが、編者宮内 泰介氏のHPhttp://miya.let.hokudai.ac.jp/modules/tinyd3/content/index.php?id=1
では、当時の研究会で使用された原稿がみられ、その中に迫力の伝わるカラーの画像をみることができる。その中のpdfファイルの原稿も参照しながら本書を読むことを勧める。

(2012/01/01)

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