「生物多様性」という言葉に見る「便利さ」の危険
         新潟・山田弘明(自然観察指導員)

 「自然」という言葉が”nature”の翻訳語として使われ始めたのは明治時代らしい。西洋的な、人間を自然の外に置き、分離してしまう視点と異なり、自らと自然は本来一体のものであるという日本の「自然感」においては、それまで「自然」の概念を用いる必要がなかったのであろう。同様のことが、自然保護No.514の磯野氏の「感性に響く生物多様性の表現」の中で「常に人とのかかわりで動植物の世界をながめていたのであろう」という記述にも伺える。
 最近になって便利に使われるようになり、一般にも広がり始めた「生物多様性」も、”biodiversity”という外来語から訳されたもので、やはり日本では古来から当たり前の概念である。ここ1,2年、本誌のタイトルにも「生物多様性」と題するものが多く見られるが、これはCOP10との関連によるところが大きいのであろう。
 人間にとっての利便性のために危険にさらされている固有種の保護に、外来の便利な言葉を多用することはある意味皮肉なことである。さらに、便利なものの普及が個人の思考停止状態を招くことも珍しくなく、危惧するところである。
(2010/07/19)

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