「山背郷」(集英社 2004)

里にへばりついて暮らしていると、日本という国はいかにも広大に感ずる。国を治める首
都東京などといったら、はるか彼方の異国にあるような別世界だ。ところが、大気が透き
通った冬山の頂から見おろすと、どこまでも続いていると思い込んでいた山並みのすぐ向
こうに、ぽっかりと海や平地が見えたりする。そんな時、この国は切ないほど小さいもの
に思われ、尾根を伝って歩いていけば、どこへだろうと一跨ぎでいけてしまうのではない
かという錯覚すら覚えた。若者特有の全能感には違いなかったが、根っこの部分は未だに
変わっていない。



「山背の里から」(小学館クリエイティブ 2004)

自らが小説を書くようになってはじめて気がつくとは、はなはだお恥ずかしいことなのだ
が、実は私だけでなく、中央に対して、あるいは西の文化に対して、何らかのコンプレッ
クスを抱えている東北人の、かなりの部分に共通している呪縛かもしれない。稲作がすべ
て、白いご飯を食えることがこの上ない喜びという、ある種の錯覚や幻想にからめとられ
て、つい最近まで東北の人々は、せっせと米作りに励んできた。その結果、東北の多くの
地域が、日本有数の米どころといわれるまでに発展した。ところが、ふと立ち止まってみ
れば、相次ぐ減反政策により、今の東北の農村はすっかり疲弊しきっている。もう一つの
東北の姿を、東北人自身がすっかり忘れてしまった結果だと言ったらあまりに酷か。

「少なくとも私と同じか、それ以上に鷹と自然が好きな者でなければ、弟子にするつもり
はありません。でないと、熊鷹を使う鷹匠の技術そのものも後退するし、鷹も本人も不幸
になってしまいます。だから、私の代で熊鷹使いが終わりになってもかまわないと、そう
思っています」

熊谷:以前、ある講演で山折さんが、「自然との共生と言う言葉を、私はあまり好きでは
なく、むしろ自然との共死という姿勢があるべきではないか」と言われたことを僕は印象
深く覚えています。また、同じ文脈の中で、柳田国男の『遠野物語』の語部の佐々木喜善
が、幼いころに山に入りシカの死体を見つけた時のエピソードに触れて、人が山にいると
きは、むしろ「動物に見られている」と言う狩猟民の感覚が働くのではないか、と言われま
した。

山折:日本の山は頂上に近づけば、浄土をイメージする名前が付けられている。一方、谷
間の近くには、賽の河原のように、地獄の荒涼たる景観を呈する場所がある。そこに地蔵
さんが立っていて、魂を救う役割をする。山は日本人にとっては生と死が交流する宇宙
だったと思いますね。いまの「山を殺す」という文脈で言えば、人間は山を利用して生き
てきた、その敬虔な念と同時に、そこを地獄の世界にしてきたという自責の念もある、そ
れが長い時間をかけて作り上げてきた感覚なんでしょう。

熊谷:赤坂さんが筑摩書房から出された『山野河海まんだら』がありますね。さまざまな
生業を営んできた人たちの聞き書き集といっていいかと思いますが、まさにあの世界で
す。僕の短編集『山背郷』は、ある意味で僕なりの『山野河海まんだら』を書こうと思っ
たものなんですよ。

赤坂:超えてはならない一線が研究者にはありますからね。熊谷さんはマタギ村に足しげ
く通って、彼らと一緒に酒を飲んで、山に入って、クマを追って、そして食べた。その目
撃したところを、論文や報告といった論理や事実に搦め取られざるを得ない容れ物ではな
くて、小説という想像力を発揮できる容れ物で表現した。目に見える事実を跳び越えて、
一気に彼らの内面の真実を掴み取った。
 たとえば研究者が調査に入る。なかなかホントのところは話してくれませんよ。話して
くれたとしても、研究者がそれを理解できるかどうかという問題もある。きっと、研究者
の調査報告は、真実の一面に過ぎないんです。そこから先は想像力を働かせないと理解で
きない。けれども、アカデミズムの人間にとって、それは踏み越えられない一線。そこを
超えてくれるのが、熊谷さんのような小説家の力なんじゃないかな。また、それこそが小
説の力というものなのでしょう。読み手としてはそのどちらも読むことによって、より深
く、マタギならマタギの世界が理解できる。熊谷さんの読者が、田口さんのような第一級
の研究者の著作を手にとってくれるようになればいいですね。



「邂逅の森」(文藝春秋 2006)

体がすっかり山に馴染んでいた。
毎年、寒マタギをはじめてからの数日間は、さすがに体に応える。だが、十日もすれば、
いつの間にか気づかぬうちに、体が山に順応する。不思議なもので、毎日あれだけ激しく
動いているというのに、食事の量が、里にいる時よりも少なくてすむようになってくる。

人は、歩いた数だけ山を知る。
山のことは山に教われ、獣のことは獣に学べ。それがマタギの鉄則である。

蕗の薹が薫る森で、たちまち二人は獣になった。
獣には、今に対する恐怖はあっても、未来に対する不安はない。
突き上げてくる快感の中で、富治は、ふとそんなことを思っていた。

それから一週間、富治は朝と晩に水垢離をとって身を清めた。なまった足腰を鍛え直すた
めに、近場の山々を歩いた。日々ごとに、猟師としての感覚が研ぎ澄まされていくのが実
感できた。そうして精進を重ねるうちに、今度の巻き狩りで、必ず山の神様は何らかの答
えを自分にもたらしてくれる、と確信するようになった。

山の神様はクマに姿を変えて、必ず自分の前に現れる。そのクマを自らの鉄砲で仕留める
ことができれば、またマタギは続けてよいという仰せ。撃ち損じるか、他の射手の手で仕
留められることになれば、タテを収める潮時だという印。そう考えるのが自然のように、
というより、それ以外には考えられなかった

(参)熊本の山師では、風邪を引いたら山にいけ。



「氷結の森」(集英社 2007)

勝手な思い込みにすぎないのかもしれないが、どれだけ吹雪いても、山は自分の命を取ら
ないという、妙な確信だけはある。
山に抱かれて死ぬという、ある意味、幸福な死に方を、山の神は自分にさせてくれないは
ずだと、そう思うからだ。

「日本人は、ああしろ、こうしろ、とてもうるさい。でも矢一郎はニブヒに命令しない
ね。なぜだ」
「この島は、元々はきみたちのものだから」
「それは違うよ」とラムジーンが首を振る。
「サハリンは動物と魚たちのものね。そこにニブヒは住まわせてもらっているだけ」
「そうだな、おれもそう思う」

ラムジーンの話に耳を傾けながら、日本の猟師も同じかもしれない、と矢一郎は思った。
必要以上に獣を捕りすぎてはならない。
それが先祖伝来のマタギの掟である。しかし、生きるため、を口実に、いつの間にか大事
な教えを忘れかけているのではないかと思う。矢一郎が阿仁を離れた時点では、ほとんど
の狩猟組が旅マタギに出るようになっていた。たとえば寒マタギで遠く月山麓や信州へと
旅をするのは、阿仁の山々からマタギがアオシンと呼ぶ日本カモシカが姿を消しつつあっ
たからだ。そして今度は、樺太にまで旅マタギに遠征し始めている……。

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This page last updated 11 June 2009.