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<予算と研究費> 
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2004年には国立大学が法人化されたが、2007年度には志願者全員が入学可能となる「全入時代」になると推測される。現役高校生の進学率は大学・短大合わせて「全入」時点で57%程度になるとの予想のようだ。定員割れを懸念して、私立大学はもとより、地方の国立大学も学生獲得のため、存在意義のアピールに躍起になっている。法人化された国立大学は独立した組織として経営や運営に大幅な自己裁量部分を手にいれ、国立大学への国の予算支出は私立のおよそ4.25倍に達し、学生1人当たりに投じる国費負担額では10倍以上になるため、圧倒的に有利な条件での競争といえる。つまり、国立大学は私立大学の10倍の研究成果や10倍の教育成果(10倍の学生数受け入れ)を挙げてもおかしくないことになる。より公正な条件下での競争にするには国立大学の予算を私立大学に回していくべきだ。しかし、国立大学は既得権の僅かな移行にも強く抵抗するだろう。ちょうど、国立大学の体質は道路公団をよりずる賢くしたもの、とでも思えばよい。

国民一人当たり600万円の借金漬けの国から、親方日の丸よろしく多くの研究費や人件費をもらい続けるという発想を転換することはできないのだろうか。科学技術立国という妄想をのための研究費獲得によるランク付けから逃れるためにも、研究費削減や人件費削減は良いきっかけにすらなるのではなかろうか。少なくとも、大学において一番必要なのは技術や経済力ではなく教養であろう。これの習得に鍛錬を続けるのが科学者であり、学生はその姿から学び、教養を身に付けていくというのが大学として目指すべきところといったらあまりに理想が過ぎるであろうか。大学が道路公団と同じだとしたら、大学の教員は教養の無い、専門分野のみの「つまらない」専門家でしかなく、上記の論はもはや成り立たないことになる。

国立大学を退職後、私立大学や研究所に天下る研究者は後を絶たないが、これも国民が厳しく監視すべきことだ。もし、大学教授1人が60才で定年退職すれば、その給与分で研究員3人、助手2人程の雇用が確保でき、博士の学位を持つ若い研究者の就職問題など簡単に解決するばかりか、学生に対する教育効果すらあげることができる。

また、やや極端な考え方をすれば、大学教授10人が給料から年100万円ずつ出し合えば、3−4人の研究員を雇える。教授は恩給によって老後まで何の生活の心配の必要ないのだから、大いに可能ではないか。日本の大学の法外な報酬にも庶民感覚とのずれを感じる。例えば、私の知る97才の漁師でも、何故漁に出るかといわれれば、「飯が食えないから」という。なんの保証もなく日々生活のために働く低所得者層こそが国を支えていると実感させられる。

ところで、学生が研究室選びのときに研究者や指導教官を見極めるにはどうしたらよいであろうか。大雑把な興味からということも多いだろうか。学生には専門分野の能力を直接評価できないだろうから、一般的には、周囲の評判やマスコミを通してということになるだろう。そこで、「教養がある」「フェアである」などを尺度にするということも有力に思える。

国の借金が約700兆円、にもかかわらず毎年、国債は30兆円余り発行されている。いつまでかやるのか? 単純なestimateをしてみよう。国民の総資産は1200兆円(うち預貯金は700兆円)ある。差し引きまだ200兆円もあるので、毎年30兆円借金しても、あと16年くらいは発行を続けるであろう。(日本の借金時計:http://www.takarabe-hrj.co.jp/takarabe/clock/index.htm)

土地バブルが1990年代前半に終わり、大学や学部増設バブルは2000年頃に終わり、そして研究費関係バブルも2005年頃には終わるだろう。この研究費バブルも「渡った先に何も無い橋」や「船の入港しない港」のような税金の無駄使いによる国土破壊と同じくらい罪がある。このバブルに乗った責任を取ることを忘れないでもらいたい。

実際、金が無いなら無いで、知恵と工夫によりいくらでも研究はできるものだ。NASAやカリフォルニア大では予算が減ってスーパーコンピューターが買えなくなり、各家庭にある計算機のCPUを借りて計算する処理システムをたった2000万円で開発した。これが高価なスパコンよりはるかに大きな計算力を得たということは有名だ。

ちなみに、「世界経済フォーラム」のデータでは日本は、人口一人当たりの研究開発費1位、企業の技術力2位、企業の研究開発費3位、と圧倒的に研究に金をかけている国である。
(2003.11.10, 2005.1.1改)