「国立大学」(2000/06/24,2000/07/06に書いた文である。)

「日本の(国立)大学をなくしたら」など「思考実験」をしながらその利点を考えてみる。

(1) 日本の大学を大学でなくせば、その跡地を市民、国民のために有効利用できる。特に国立大学などは広大な土地を所有しているので、さまざまな利用価値があるだろう。現状の施設を利用するだけでも、総合スポーツセンターの機能もあるし、図書館もある。これらをもとに整備し緑豊かな総合公園としてもいい。(日本には市民がお金を使わずとも楽しく、豊かにすごせる施設が少なすぎる。)

(2) また、図書館などは、IT関連に使う金で、計算機関係の設備を充実させ市民にはメールアドレスは無料で与えてもいいだろう。現状の大学の図書館はその大学以外の人が利用するには非常に使いづらいシステムである。多少は地域へのサービスということを気にかけてきてはいるが、国立大学の図書館などは国民なら誰でも平等に使用できてもいいはずだ。

(3) 講義室や実験室などは、多少の使用料を取って貸し出すこともできるだろう。それを知識や技術のある者が借りて聴衆を集め講義や実験などをして、収入を得るなどということも考えられる。これだけでも、社会に対して総合的には負の生産をしていると思われる「現状の日本の大学」よりはるかに社会にも役立つのではないか。

(4) また、まったく違ったアイディアとしては、日本の大学(国立、公立大学)を売りに出すことも考えられる。独立行政法人にするなどとは全然違った効果が期待できそうだ。世界の金持ちや財団が購入し、大学経営の知恵や技術を持った人が運営することになるだろう。(もちろん、そこで働いている教職員つきでは誰も買わないだろうが、土地や施設は購入して、OO大学新潟校のようになるかもしれない。)

(5) 現状の職員、教員でも有能な人は、希望があれば改めて雇われることにもなるだろう。また、日本人以外の教職員のほうが多くなるだろうから、学生もより世界中から集まり、日本にいながら多様な刺激のある教育が可能になる。

(6) これはおまけだが、国の借金の軽減に寄与できる。

(7) 外国の大学に進学

(1)(2)に関して:最近は市民も利用できるように国立大学の図書館もサービスを拡大しつつある。しかし、まだ制限されている部分も多い。また、市民向けの公開講義のようなサービスも多少は行われつつある。良い方向ではあるが、これらは内発的行為というよりは、外圧に対して閉鎖的イメージを開放的イメージに転換しようという思いからであり、積極性が低いものだ。まだ、公僕という認識が足りないのではなかろうか。

この「日本の大学を無くしたら」などはまさに「思考実験」だが、やろうと思えば簡単にできる。そのために多額の予算が必要なことではない。必要なものは決断と、「そんなことが実現できっこない」という思い込みを排除し、物事を考えていくことだけで十分だ。もちろん、ここであげたものもひとつのアイディアにすぎず、より優れた解法もあるだろう。いずれにせよ、天然資源の乏しい日本における唯一の資源は「人間」「人材」だと思うので、教育が良くなるためにはどんな思い切ったことであろうと実行していくべきだ。

西欧の大学は500年以上前からの歴史の中でその制度を模索して作られてきているようだが、日本の新制大学ができてまだ、50数年だ。それも教育というより、戦後の経済優先の偏った政策のもとにシステムを部分的に輸入し、なし崩し的につくられたという印象がある。もし仮に日本の大学をなくし、ゼロから創り上げようとしたとしても、500年を考えれば、現状程度のものをつくるなら、10回くらいやり直しが可能なわけだ。 そう思うと、今ゼロから始めても全然遅くないということである。

「国立大学の独立法人化」については賛否がある。「国民の意思」「国民の理解が得られるか」が一番の大切な点だ。多数の国民を味方にできれば、政治的流れも変えられるだろう。また、反対、賛成というときの違いに見られるものは、現状をどう評価しているかに大きく依存する。当然、独法化反対の人は、予想される期待値より現状のほうがはるかにいいと評価しているのだろうし、この流れをも利用していくべきと賛成の人は現状があまりにも酷いと評価しているのだろう。(私は後者。)もちろん、どちらの意見でも、現状に問題点があることは認めるだろうし、日本の国民性を考えたら独法化後に陥る危険性が存在することくらいは共通して持てる理解かもしれない。

国立大学が20年前より10年前のほうがよくなり、10年前より5年前がよく、5年前より現在のほうが良い状態になった、と心から思っている人はどれくらいいるだろうか?または、そう分析しているのだろうか? この点に関し、私自身はせいぜい20年位前からしか知らないが、良くなったとは思えない。良くなった悪くなった、ということは抽象的で、具体的に研究成果、教育環境などやもっと細かく言わないと議論できないかもしれないが、そんなものを全部ひっくるめて、どんどん良くなってきていると感じるか、悪くなってきていると感じるのかの「感覚の違い」が「結論の違い」になると思う。 もし、20年くらい前から、入試改革、大学院改革、などを実行してきて良くなっているならば(また、良くなってきたと感じさせることができれば)、「内的努力」を続けていけばどの程度まで大学が自らの力でやれるか、おおよその予想も立てられ、「大学の自治」「学問の自由」も「国民」に支持されると思う。

もちろん、「国民」も自らの感覚で「国立大学」の有り様を評価していると思う。その場合、多くの国民が大学生(output)を通して評価しているのではないだろうか。実際、国民の多くは大学を卒業してないわけだから内部のことや研究のことなどは直接には知りえないだろう。つまり、身近にみる国立大学の大学生や卒業生の言動や様子などを見て、「さすが国立大学の大学生、彼らの成長のためなら税金をもっと使ってもかまわない」と思うか、「私立大学の学生となんら変わらないではないか、この国の財政が傾いているときにとんでもない」と思う、かどうかで判断することが多いのではないだろうか。当然、それも重要な国民の評価であるから尊重されるべきだと思う。

さて、再び現在の国立大学の難点などについて、考えてみる。

ア) 現状の国立大学の予算は、その使い方に関する制限が多くの無駄遣いの問題を生み、柔軟性のある使用方法を妨げている。予算は、大学-->学部-->学科-->教官と、各々のレベルで単年度に使い切ることになっている。もちろん、教官ごとに出るばらつきは学科で帳尻を合わせ、ゼロにするという調節は行われている。これらのことは、年度末に近づくと必ずしも必要の無い道路の掘り返しが増えることと同じだ。たとえその年度に予算を使いきらず次年度に繰り越したいとしても、その分は必要のないものとみなされてしまい次からは減らされるのでは、という懸念がある。このことを通して私が一番問題だと思うのは、役人の指導に従うだけの教授を中心とする大学人の精神性だ。(長いものに巻かれているので、庶民的でいいといえばそれまでだが。)大学や大学人が健全なら、問題提起のためにも、意図的に予算の何割かを使わずに残すというような、積極的な行為を行ってもいいのではないだろうか。国の税金の無駄遣いに積極的に大学も寄与していると思えてならない。

イ) いわゆる、「箱もの」に大学内の機器も大学自体もなっている。第一、柔軟な予算の使い方などのどう見ても正しいことを、役人に納得させられない大学人の価値はどれほどあるのだろうか。しかも、役人の多くは大学を卒業しているだろうから、既存のシステムを維持することに力を使うタイプの役人の育成しかできなかった、大学自体の責任でもあるだろう。

ウ) 国立大と私大を比べたときの違いは予算・学費の点だけに思う。国立大の予算の主な出所は国費であり、それゆえに上記(1)(2)の私大よりも柔軟性のない運営が行われているのだろう。実際には工学系・医学系などでは研究費に占める委任経理金のウエイトは国からの公費より大きいというのが現状だ。そしてその比較的柔軟に使える委任経理金(人件費にも使用可)が多くあれば、使いにくい公費など必要ないと思っている人も多い。

エ) また、学生のモチベーションとも関連した学費の問題がある。もちろん、より良い制度の実現のためにはよりお金が必要になることも当然だから、学費も値上げすることになるだろうし、それに伴い、奨学金制度の充実も必要だ。企業や団体、個人からの寄付を募り、大学内に奨学金や返済の必要な学生ローンを組むような金融機関を作ることも考えられる。もちろん、寄付に対しては税金を優遇し、寄付しやすくなるような環境整備も必要だろう。また学生のモチベーションを高めるためにも、その親に対して子どもに直に金を出すよりもその金融機関への寄付という形で投資してもらうことを進めていくべきだと思う。難しいだろうか。

オ) 放送大学や衛星による通信大学とも関連した私のアイディアは次のようなものだ。かなりの数の講義はビデオや通信制の講義(予備校などでは導入済み)に置き換えられると思う。もちろん、人間的接触が教育の上で大切な要素であることは認識している。その講義の中でレポートや宿題を課し、それを提出させ、添削していくことにもなるだろう。また、その講義についての議論や質問は各大学で行えば、充分に人間的接触により有効に機能する部分は取り込めるのではないだろうか。たとえば、私も学生のとき、講義はビデオでファインマンやランダウの話が聞けて、わからないところなどを大学の教官や友人と議論や質問をするということで大学の単位を取っていけたら、どんなに素晴らしいことであろうかと思った。そうすれば大学が大金を払って雇う教官の数も大幅に削減できる。また、その学生の質問や議論の相手としては、それなりの実績のある人を登録制にして、その所属に関わらず登用していくことも可能だろう。これにより、大学の常勤と非常勤などの給与の圧倒的な差の解消にも繋がるかもしれない。実験・実習はどうなるのか、という意見も当然あると思うが、これも企業や他の機関等で、実際十分に置き換えられている部分を有効に利用していく可能性もあるだろうし、大学に残す部分もあるだろう。

カ) 繰り返しになるが、ここで私が言いたいのは、既存の大学の機能で民間のものや新しいシステムの導入により置き換えられるところや、実質、実現できている部分は、そのことに対しての権威や既得権益から切り離していき、自由化していくことが「現実へのつながり」への考慮となるとということだ。そして、このことが文部省や大学内の足の引っ張り合いで何年かかっても実現できていない国公立大学なんて、本当に必要なのだろうか。
(2000/06/24,2000/07/06,2003/12/24)

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