「学力低下と体力低下」

前半は2000/07/13と2000/07/17に書いた文で、後半の「体力低下」に関する部分は後から加えたものである。

「学力低下」とよくいわれ、私も10数年近くそれを感じている。しかし、それは「自分の身の回り」のことに限られる。つまり、偏差値で輪切りにされている現状では、より高い偏差値、または人気のある大学・学科の定員が増えているために、低いところの相対レベルは下がるのが当たり前ということだ。当然、定員を増やした分は偏差値の高いところのレベルも低下する。はたして本当の母集団の「学力低下」がおこっているのかどうかは、はっきりしないので、どうなのだろうか? 国際比較を例に比べることもできるだろう、参加国やサンプルの抽出方法が異なり、結果の判断は困難なようだ。当事者としは、自分の所属しているところの日常的問題が大切なのは事実ですが、全体のことも気になる。

学力低下を示す明確な根拠が存在しなくても「学力低下」の議論が意味がないなどと言っているわけではない。別に「どうせ証拠がないんだろう」と思っているわけでもない。特に、地方大学の見かけの偏差値レベルは入学定員により大きく違って見えるので、その手の問題をずいぶん前から感じずにはいられない状況だ。ただ、local なデータでなくて母集団の「学力低下」を主張できるものがあるなら知りたい。いずれにせよ、私は現状が良いとも思うわけでもないので、「大衆教育」「ゆとり」「学習指導要領」、、、などの問題とあわせて何かもっと良い方向がないものかと思っている。

私自身は、内容を減らすということ自体は大いに賛成だ。ただその中身が、

(1)枝葉を落として、幹は残していること。
(2)実質的に、総合学習の時間なども含めて、教師が時間を自由に使えること。
(3)全体として、教師の業務が軽減されること。(少人数学級などとも絡むことだ。)
などに、沿っている場合である。改定反対の人も「ただ内容を減ら
すのに反対」でなくて「減らし方の中身に反対」という人も多いのであろう。

さて、単純な例で「大衆教育」を考えてみる。自動車学校の状況に似ていると思う。昔は車も金持ちしか買えず多くの人は自動車学校に行って免許をとることもなかった。最近は殆どの人が車の免許をとり、実際マイカーを所有する家も多い。自動車学校で免許を取るまでの平均時間はどう変化しているのだろうか。たぶん、あまり変わっていないのではないだろうか?また、交通事故の増え方との相関がどうなっているかも気になるが、どうであろうか? 自動車学校で学ばなければならない交通法規は今も以前と変わらないだろうが、身に付けなければいけない運転技術は軽減されてきていると思う。しかし、大衆が免許を取得するようになるため、平均してその技術を身に付けるための時間はそう変わらないという状況のように思う。つまり、オートマ車やパワステになり、車自体が誰もが使いやすくなっている、また 道路が整備されてきているなど。

 学校教育でもそれに類することも多い。そろばんー>電卓ー>パソコンを当たり前に使うようになるにつれて、少し難しい計算をやる時間を減らして、パソコンを使って計算できればいいという方向もあると思う。もちろん、その結果が正しいかどうかの判断もできないといけないので程度問題だし、全員が同じようになる必要もない。

私がこの例で言いたかったことは、交通事故が増えないためにも、どこかにminimumを設定しなければいけないが、それは時代とともに、大衆教育社会になれば変わっていく方が自然であるということだ。ただし、決して今回の学習指導要領改定の中身を支持しているわけではない。

実は、私が一番問題だと思うのは、大学院の博士の学位までも、運転免許のようなものとして扱われていることだが、この件はまた別の機会にする。


以前「学力低下」は本当か? という疑問について、いろいろなデータはある。しかし、検索していくつか見てみもやはり「学力低下」を確実に立証するような資料は存在しないと感じる。国際比較もサンプルのとり方の問題や参加国数の問題があり、誤差がおおきく部分的に「学力低下」にみえるデータでも有意な結論を得ることは難しい。また、あるlocalなデータでは逆に数学の学力が上がってきている様にも読みとれるものまである。それだけ「確かなデータ」をとるのは非常に難しいのであろう。しかし、重要なデータは国としてもっと正確な国際比較可能なように、系統的に調べていく必要があると思う。そういう明確なデータが存在すると、責任問題などで困る人がいるのだろうか?

「枝葉を残して幹を落とすような内容の削減」が、3割の中に多くあるとすれば大きな問題だろうが、「教える内容を削減する目的」として、「教師の労を軽減するため」ならば良いことだと思う。「最近、何か子供たちがイライラしている」ようだという声を聞くが、やはり大人がイライラしているから子供がそうなるのだ。家で親が会社や社会のことでイライラし、学校では教師がイライラしてたら子供もそうなる。そのためにも、教師に「精神的ゆとり」が非常に大切だ。もちろん、「時間的ゆとり」もその必要条件だ。例えば、時間に追われサービス残業や家庭に仕事を持ち込まないとやっていけないようなら、「精神的ゆとり」をもてないだろう。

最近、「学力低下」を示す調査をメディアで取りあげることも多い。しかし、100歩譲って、実際子供の学力が低下しても、むしろ「どうして学力低下が問題か」をまじめに考えることの方が重要である。「国際競争力の低下」「生活レベルの低下」などは、私にとっては取るに足らない問題だ。経済を心配しているにすぎないからだ。もちろん、「考える力の低下」「哲学の低下」は問題があると思う。

 私は、勉強なんて本当に勉強したいこと以外、する必要が無いと思う。むしろ、反復練習や詰め込み教育は入試やぺーパー試験の点数を増やすのみで、「考える能力」「本来備わっている能力」の低下をもたらすだろう。それは、現在の社会で中心にいる人々をみればわかる。昔の指導要領に基づき多くのことを勉強し、競争を勝ち抜いても「金や経済」にはこだわるが「考える能力の低い社会や政治」しか作れていないではないか。

そんな訳で、実は「学力」などいくら低下してもいいと思う。むしろ、大きな問題は子供の「体力低下」ではないであろうか。子どもの基礎的運動能力が、多くの面で継続的に低下傾向にあるという文部科学省の調査結果がある。こちらのほうはかなり客観的データだと思う。子供は外で遊ぶことが商売なわけだから、学校では体育、クラブを多くやり町では、外で遊べる環境を整えるべきだ。サッカーでも野球でもスポーツは体だけでなく頭をつかう。むしろ、頭が良くなければスポーツ能力が上達するはずがない。イチローや中田、野茂などをみればわかるだろう。重要なものは「学力」より「体力」である。

斉藤たかし氏(明治大学)が興味深い実践をしている。 ヨガ、禅などを通して身体文化をを考えるというものだ。 指圧、マッサージはコミュニケーションとみると教育と似ているという。また、日本人の体は急に冷えてきており、特に都会の人は冷えていて、田舎のほうが暖かいかいらしい。 現代の心の問題もこの身体から理解可能であるようだ。まさに、中国の「気」の問題だ。 相撲、馬乗り、下駄、和式トイレ、帯を締める、など「臍下鍛錬」に関わる習慣を急速に失っていったことが、身体的冷えにつながり、ひいては集中力のなさ、精神的脆弱さになるという見方である。実際これくらい急に失われたものは無いらしい。さらに、斉藤氏が言うには、集中していてリラックスすることができないのは、腰で呼吸しなくなったためだ。身体における「型」が失われた。相撲で言えば、四股。歌舞伎の走り方をしなくなった。 これは重心が低く、ブレが少ない、腰腹文化だ。 「型」を持っているほうが、新しい動きにも強く、「型」を身に着けているほうが自由度が上がり選択肢が増える。これらが、心を整えることにもなっていた。 これらは、「猫の妙術」に通ずる精神や状況を覚える。 また、調息、調身のための呼吸法として、「3秒吸って2秒止めて15秒吐く」釈迦の呼吸法(仏教でも呼吸法が伴っていた)を勧めている。寝る前、無理のない赤ちゃんの呼吸法を実践するといいらしい。体が据わってくると、言い訳をしなくなるし、疲れにくくなるという。 おおよそ、経験的に頷ける話だと思う。


 最近、中学生、高校生などの学力の国際比較が発表され、日本の順位が低下したことで大騒ぎし、「ゆとり教育」が間違いだのと言い出す人がいる。極端に言えば、学力など最下位でも良いと思う、子供は「体を使い」遊んで、生活してさえいれば十分ではないか。 大の男が昔の「教育ママ」がごとく、学力をどうのこうのと騒ぐのは全く情けない事態ではないか。このことのほうが、将来の国をより危ういものに感じさせるように思える。


(2000/07/13, 2000/07/17, 2003/12/25, 2004/12/18)