Strathclyde大学滞在を通して感じたこと

 1998年10月から約1年間、Strathclyde大学のあるGlasgowに滞在した。私のhostは 理論物理学者のM.Wilkinson教授であった。滞在を通して印象的であった、日本 人研究者、特に日本の物理学者と異なる、研究精神について簡単に記したい。 日本の多くの研究者は、スタッフやポスドクまたは博士課程の大学院生を多く抱え、 自分の研究グループや分野を大きくすることにより研究の推進を計ろうとす る。これは、国内の理論系の研究室の指向にもあてはまるだろう。これに対し、 Wilkinson教授は物理・応用物理教室において量子論および固体物性理論分野のグル ープをただ一人で構成していた。従って、マンパワーや資金力に頼った研究により 論文を量産するようなことは決してなく、そもそもそんなことは無意味だと思って いるであろう。しかし、彼の業績には著しいものがある。例えば、「多自由度系のトンネル効果」 「磁場中格子系の電子状態」「多重非断熱遷移の理論」「バンドランダム行列の性質」 など、多数の分野においてそれぞれの領域でオリジナルなアイデアに基づく独創的 な内容のものを残している。しかも、10年、20年経っても風化することなくなお いっそう世界中で引用されている。このことは、個人の能力の差にも大きく依存するが、「研究に対する精神性」 や「研究条件の違い」なども大きな要因と思われる。日本の地方大学と比べると dutyが少ないこともあろうが、教育やその他の業務に関してのメリハリが大きく 異なる様に感じる。例えば、年間2ヶ月くらいは教育や雑務にとらわれないフリー な時間をまとめて取ることができる。これは、時間を継ぎ足した量的なものを言 っているのではなく、講義のあるときは毎日あってもかまわないが、独創的な研究 をするためそれに集中できる期間が重要だということである。細切れの時間がいく らあっても、決して独創的な研究や成果は生まれず、いつまでたっても日本の学問は 米国からの輸入やコピーにしかならないだろう。以前から思っていたことではあるが、「量より質を評価しなければ欧米との差 はますますついていくだろう」とGlasgowでの滞在を通して強く再認識させられた。そ のためには論文数やimpact factorなどよりも、その論文が世界の中で(自分や自分 のグループ以外の人たちに)どれくらい引用されているかや、論文一本当りの平均被引 用回数などを評価するようにならなければ質の改善は行われまい。数の評価は子供でもで きるし、質の低い論文をたくさん書く事は資源の無駄使いでしかないのだから。(2001年1月記・2001年度新潟大学工学部自己点検自己評価報告書掲載)

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