===================================
<物理学と数学、その他>
=====================================
理論物理なる分野を専門にして研究するとはどういうことかと、自問自答することがある。普通の研究分野は、理論と実験が分離していることはまずない。しかし、現代においては物理学の分野の多くは、「実験」と「理論」の研究者は別々であることが多い。「理論物理」の研究者は「実験」や「現実」との関わりや「多くの他分野」との関わりをどう位置づけるかを時折考えさせられる。特に、理論物理を研究する場合「数学」や「計算機」とも付き合わなければならなくなることも多い。

南方熊楠に言わせると、物理学の対称は「物」で、数学とは「事」の学である、という。「小生の事の学というは、心界と物界とが相接して、日常あらわるることという事も、大要領だけは分かり得べきものと思うなり、電気が光を放ち、光が熱を与うるごときは、物ばかりの働きなり。今、心がその欲望もて手を使い物を動かし、火をたいて体を煖むるがごときより、石を築いて長城となし、木を削りて大堂を建つるがごときは、心界と物界と雑りてはじめて生ずるはたらきなり。........」(南方熊楠全集7,平凡社)これは明治26年に書かれたものなので、現在の物理学でいう理論物理のあり方から翻訳すれば、ここでの数学は「理論」の部分と見なすこともできると思う。

実際、物理が数学発展の原因になることも多い。物理の発展のために必要なある部分の数学については、数学者の助けが役立つこともある。その場合は、数学者がポーターで物理学者が冒険家に例えられる。また、私なりの荒っぽいイメージでは「数学者は空手家」で「物理学者はプロレスラー」となる。反則の凶器攻撃も3秒以内ならOKだ。また、私は計算機とは相性が悪く「つかず離れず」の関係でつきあうことにしている。

特に物理専攻以外の工学部や理工学部で物理科目の講義をする場合、当然「この講義が何のためになるのか」を考えることがある。学生の側からの問いとしては当然のものだが、講義をする側としてもかなり考えさせられる。単純に「何に使えるか」「何に使われているか」を言うのは簡単なことで、この事実に即した部分のみを切り出すだけなら数回の講義で十分であり、15回または(....I, ...IIとして)30回もの系統的講義をする意味は薄くなる。実際に工学部の卒業生で「量子力学」「統計力学」「解析力学」が役立ったなどというものはごく稀である。次に、「直接は使わないかもしれないが、物事を論理的に考える能力を養うために重要だ」という答えもある。しかし、これは物理である必要は無い、どんなものでも良くて、むしろ法律や論理学だけでも十分になる。しかも、実際の物理を教育している人間を見れば、彼らが論理的行動を好み、それに従った生活をしているとは限らないこともすぐわかる。

数学者の井上淳氏(東工大)は数学を教育する立場から、数学教育の意義を考えて、「微分積分学読本 上 」の「喧伝版」という文章で、次のように記している。「論理的思考に十分馴染んでいる数学研究者は物事を論理的に考えられる」と信じてきた。ところが多くの数学研究者達は、数学以外の現実の出来事になると社会的訓練不足からか、自らの考えを論理的枠組みにまとめあげ考える以前に、幼児的感情で行動してしまうことすらある。とすると、論理的思考をマスターしたはずの数学者としての面目はどこにあるのか。「数学ができる」技術者として数学教育に携わっている人々は「数学的思考の真髄」をどう自らの実生活に活かし、また他者に伝える為にどうしたら良いのだろうか?そこで、著者は数学或いは数学教育は何のためにあるのかと改めて問わざるを得ないことになった。この書は自らのこの問いに対する、著者の答え探しの試みでもある。、、、』また『物事を理解するという、一つの典型的状態としての「数学的理解」なるものが存在するらしいことを感じて欲しい。』(http://www.math.titech.ac.jp/~inoue/r-memo-biseki-env2000.pdf)

物理学が自然界の法則性を研究するだけであれば殆どの自然法則は既にみつかっているのだから、多くの研究者は必要なくなる。実際、素粒子や宇宙論のなどの研究者の数は減って、物性や応用物理の研究者が増えている。しかしながら、新たな自然法則を見出すことは物理学の意義そのもののほんの一部である。物理学の存在意義は「様々な物事の観方を与えていく」ことで、数学からすればとんでもなく「泥臭く」「耐え難い」記述の仕方であろうが、「物事を理解するしかたの多様性を模索すること」であると感じる。素粒子や原子核の研究を否定するものではないが、身近な物事にいくらでも記述すべきものがたくさんあるように感じる。ちょうど、山登りでも山頂に行くのにも様々なルートがあり、実際は山頂に達することはどうでも良く、その道程に意味があるように。

話は飛ぶが、物理が好きでそれを研究する人には(物理に関する歴史に限定するのではなく、一般に)歴史が好きな人が多いと感じる。これは、その考え方に共通するところがあるからではなかろうか。歴史の事実は「点」として与えられることはできるが、その関係やつなぎ方、さらに生活環境や自然環境を通して現在の生活、習慣へのつながり方は多様な見方が可能であろう。例えば、司馬遼太郎の「街道をゆく」や「竜馬が行く」は点でしかない事実を、庶民の歴史という視点から文化や民族の歴史を見直すものの様に見受けられるがどうであろうか。「歴史」は富士山のようなものというが、「物事」も同様で、どこから見ても富士は富士だが、裾野が広く、どこから眺めるかで異なって見える、ということだ。

私のイメージでは、全く異なる方向に一歩でも踏み出すことが科学の面白さだと思うが、超伝導でも超弦理論でも、日本人は寄ってたかってやりすぎる。いわばAndersonのような独自の物の見方ができることが重要。(Higgsなんかも対称性の破れというAndersonのアイデアを素粒子論に持ち込んだ。)超弦理論や遺伝子配列の研究者を悪く言う気はないが、イメージとして、素粒子論、とくに超弦理論はゲノム科学?のあり方に似ている気がする。それを解決すれば全てが分かり、世の中や科学の謎がと解けるとか、これこそ「究極の科学」などと思う向きもあるが、たとえ統一理論が完成しても、多分何も新たなことはわからない気がする。ゲノムの問題も同様で、全ての遺伝子配列やたんぱく質が解明され情報は得ても、結局一番わかることは、生物や生命に対して、全ての遺伝子配列が解明されたこと事態がいかに小さいことかが理解されていくのではなかろうか。もちろん、それをとことん突き詰める学問的態度も立派だと思うが。ただ、そんなに大勢の研究者が寄ってたかってやることへの疑問はある。一生かけてもなかなかわからない問題は、足元に石のようにごろごろ転がっているにもかかわらず。

結論があるわけでもないので、また脈絡の無い文章になった。
(2002.10.10, 2005.1.1)