「ズレと非線形の世界観」 (2008.11記、2009.7改)

科学者や技術者は研究対象との関わりを通して、自らの世界観が構築されていくものであろう。私の関わる「非線形」という概念が私の物の見方に与えている中味を整理しておく。「線形」と「非線形」の違いは決定的に大きいが、それが「線形世界観」「非線形世界観」という認識の違いに大きく反映されているであろうか。 おそらく多くの科学者や技術者でも、非線形に関するものを研究対象にしていながらも自らの思想形成とは切り離し、「研究は研究」「生活は生活」としている場合が多いと思われる。

細かな線形と非線形の意味と説明は省略し、ここでは、簡単に、ズレやミスマッチが拡大していく場合の増大則の質的な違いを両者により特徴付けるものとする。

[A]本質的制御不可能性
この線形と非線形の区別は思想形成に重要だ。特に物事や現象を制御しようとする場合に、イメージの違いが顕在化すると思う。一般に、工学や技術は物事や現象を制御することを目的とし、制御できる部分しか扱わない。わかりやすい例として、システム制御(制御工学)やDNA工学や進化工学、金融工学というものまである。これらは、対象となる系をいくつかの変数で記述しその振る舞いを制御するように、パラメーターを設計して系の状態を安定に保とうというものである。 制御問題として、特に線形制御に関わっているとあらゆるものがうまくやれば制御できるものだというドグマに入り込む可能性がある。つまり、制御できないのは技術の問題であり、技術発展がより進めば必ず制御できるようになると思い込むことだ。 この場合、生物のもつ制御機能の一部を取り込んで、確率制御、カオス制御またニューラルネット制御も大いに研究され利用されているが、これらの利用もごく一部の限られた場合にのみ有効という意味では、線形制御をする考えとそれほど変らない。

非線形に基づく本質的現象は、工学や技術とは対極に位置する、自然現象、社会現象の中に顕著に現れる。もちろん、生物集団からなる社会もそれに含まれる。法律も社会を制御するための手段だと思えば、政治や行政も非線形制御問題に属する。 線形制御と違い、非線形は制御できないことがその本質に内在するものである。この違いは世界観に影響する。線形概念の適用限界を知るべきであろう。制御可能な領域はほんの僅かでしかないという認識が必要だ。 適応限界を見誤ると、その問題は、金融危機や生物の生活環境汚染などと同じ経緯をたどることになるであろう。

最近、日本で絶滅したトキを、中国から輸入し人工飼育・繁殖させ佐渡島で放鳥した。当然、その後も島の中でトキの生態など観察したり、観光のシンボルにしようという意図があった。しかし、一匹のトキが島から100kmあまり離れた本州側の関川村で目撃された。さらに、一ヶ月後には新潟市で発見され、トキの行動の制御不能性が明らかになった。 そして、数ヵ月後にはさらに2羽のトキが本州に渡った。朱鷺の行動、ましてや中国の朱鷺の行動は、制御できないのである。(トキを佐渡に連れ戻そうという声もあるが、監獄からの脱走犯じゃあるまいし、正気の沙汰ではない。観光のために身売りした佐渡は、必ずしもトキの住みやすい場所ではなくなっていることに気付くべきであろう。)

想定外のものごとの中には、確率的には小さくても必ず起こり、またそれが重要な役割を演じるものがある。 実際、ダーウィン的進化論によるる突然変異や自然淘汰のみで現在の生命の多様性を説明することはできない。 たった1回生起したカンブリア大爆発のような事象が生命をもたらすという見方もある。実際には稀にしか起らないが、確実に起る事が世界を支配することの例といえる。(確率論で言えば、小偏差でなく大偏差原理による現象が生じて初めて認識にいたるのかもしれない。)また、上記のような例を含め、コシヒカリの発明も地震や災害も大偏差(large deviation)の範疇で、偶然と必然のハザマに生まれたものと理解することもできる。 経済学や金融工学は、1/100の確率で生ずる事象を無視して論を進める。 そんなことをしているから、当然のものとして生ずるバブルの崩壊や金融危機程度のこと予言できなかったのである。


[B]分離不能性と階層性
非線形性と関連し生み出される現象の一つとして階層性がある。 「ズレ=不一致=不整合」+「非線形性」から階層性(フラクタル)が生まれる、と見ることができる。もともと、「自分+環境+相互作用(ずれ)」「体系+環境+相互作用」「自己+非自己+相互作用」などの見方自体、必然的に入れ子構造(階層性)がはいっている。 つまり、完全分離不可能性があったり有限性のために、環境が環境であるためにはいつでも外に別の環境を必要とする。つまり、環境の階層性である。

例えば、生命にとって重要な概念に「自己・非自己の分離性問題」がある。内と外を区別するということだが、これを明確に行う事は不可能である。内と外が分離不能なものを無理やり(近似的に)切った場合のズレは階層構造として系の内部に蓄えられるであろう。 また、実際物理の現象としては、準周期系や準結晶での固有値、波動関数とそれの外界への応答は階層性を持っている。さらに、自然現象の一部である自然災害なども、元々境界を持たないものだが、このような本来分離不可能なものに対し、関連する現象を便宜的に区分けした取扱いをする。 例えば、地震に関連していえば、建物の振動解析は建築学で、地殻の振動つまり地震は地震学で、など別々に扱う。これは社会的に様々な階層的問題を生じることであろう。

話を広げれば、矛盾や葛藤、抑圧なども階層構造をもって蓄えられるであろう。宗教や心理学にその現象をみることができる。宗教は、一見全体的で社会的な面もあるが、聖書などは抑圧された個人の内側の葛藤を表現している。 これは、一般的に外からものごとを包み込む事に対して、フロイト的に物事を見るように、内側からものごとの意味を包み込むことに対応する。
 
何かの創発は、相矛盾する一方も同時に生み出さざるを得ない。生と死のように。また、全ての文明で、発展要因が崩壊要因につながったように。これは、心理学でいえば、両面性 (ambivalence)がいつでも存在すること、つまり、ある対象に対して全く反対の二つの思考、感情、態度などが存在することにも対応する。つまり、相矛盾するものが生来一体のもので分離不可能なものなのであり、そこから様々な階層的矛盾が必然的に存在する。 例えば、進化の過程で文字が生まれれば、それに関わる病もうまれる。 逆に、病の存在自体、生死の両面性を示していることは、PWS症候群やサバン症候群の人の高度な能力(パズルが3倍早い、形状認識能力、記憶力)をみてもわかる。 本来、相反する分離不可能なものごとがいつでも存在していて、その反する一方のものを取り除くということは、どちらも相克する以外は不可能なことである。

経済の現象でいえば、貨幣の創発や信用(クレジット)の創発があれば、信用のインフレや収縮もある。生まれたものは、収縮により本来の概念(創発時点のもの)に立ち返らず終えない。人間の意識から技術(物質)も生まれたので、技術進歩の行先も、最後は創発時の精神に帰らざるおえないのである。 西田幾多郎の「絶対矛盾自己同一」や鈴木大拙の「印否の論理」「無分別の論理」と通底するのかもしれない。

「参考文献」
●「非線形という科学の見方」科学 2008年 11月号、岩波書店(2008)
●日本数理生物学会, 瀬野 裕美 (編集)
「数」の数理生物学(シリーズ 数理生物学要論 巻1) 共立出版 (2008)
●前田 肇「線形システム」朝倉書店 (2001)
●柴田 明徳「最新 耐震構造解析」森北出版; 第2版 (2003)

●水野道夫「戦争をめぐる時空間構造について」社会科学ジャーナル 64 COE特別号、143-166 (2008)
●N.O.ブラウン (著), 秋山 さと子 (翻訳)「エロスとタナトス」 竹内書店 (1970)
●フロイト「人はなぜ戦争をするのか エロスとタナトス」 (光文社古典新訳文庫) 光文社 (2008)

●島薗 進, 竹内 整一 (編集) 「死生学1 死生学とは何か」「死生学2 死と他界が照らす生」;
武川 正吾, 西平 直 (編集) 「死生学3 ライフサイクルと死」;
小佐野 重利, 木下 直之 (編集) 「死生学4 死と死後をめぐるイメージと文化」;
高橋 都, 一ノ瀬 正樹 (編集) 「死生学5 医と法をめぐる生死の境界」東京大学出版会 (2008)
●富森 虔児「生命の経済学―生物学による経済学再構築」 春風社 (2008)

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