教育について

大学を辞めて以降、学部以下の学生に対する教育に直接は関わっていないが、身近にある様々な問題を通して、その構造が教育にも通じると感じることがある。「物理教育について2」は、フリーな立場から、多くの社会問題の一部としての「教育」を見直している。在職中に書いた「物理教育について1」と比較して読むと、教育感の変遷がわかる部分もある。

●物理教育について1(2002/3/10)
●物理教育について2(2007/10/1)

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「物理教育について1」
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私は学部、大学院を通して物理学を専攻し、就職後は主に工学部の学生や大学院生に物理の教育を行ってきた。例えば、理学部であろうと工学部であろうと、入学してくる学生は高校で同じ理科や数学を学んでいる、また、物理学などの学問そのものは、教育対象の学生によらないものであろう。しかし、学部の違いや学科の違いで、入学してくる学生のモチベーションや精神性はずいぶん異なるというのが実感である。このとき、対象によりカリキュラムや教育内容の大胆な変更が必要になることも多い。

一例を挙げる。現在、機能材料工学科の学生に対し「応用量子力学」という科目名で量子力学の講義を行っている。対象は3年生で、このうち3-4割は高校でも物理IIを選択しておらず、入試でも物理を避け、化学を選択してきた学生たちである。彼らに対しては、数式はあまり使わず量子論の本質を伝えるべく、とにかく現象として現れる「干渉効果」と「トンネル効果」を実感してもらうよう努力している。もちろん、講義内容などは「これで十分」ということはないので、毎回、現象の本質を伝えるための効果的方法を工夫すべきであると思う。

また、現在、教養課程での全学の学生を対象に「複雑系の入門」の講義の一部を担当しており、狭い学問分野にとらわれない(リベラルアーツとしての)大学初年級での教育の重要性を感じている。

さらに、教養課程にある工学部学生対象の物理学の基礎(力学入門)やstudyskills(5人位の小人数演習)を担当し、特に実学指向に走りがちな工学部学生に対し、高校・大学間の高等教育の整合性や、リベラルアーツを含む大学の教養教育の役割を強調するよう努力してきた。あらゆることから自由になるために教養が必要であり、自由を得るためにはかなりの努力が必要であることは、歴史を見るだけでもわかる。工学部教官の多くが教養教育より専門の重要性を強調する状況なので、努力が実るのは至難の業と思うが続けていきたい。

近年、「大衆化に伴うレベルの低下」や「子供の理科離れ」がよく言われるが、これはそもそも効率化のみを優先するあまり、「科学者や研究者の科学離れ」や「社会の知離れ」が起こり、それを子供や学生は敏感に感知することにより生じていると思う。

しかし、原因はどうあれ、問題としての現象は現実に存在し、毎年モチベーションの不明な学生が多数入学してくる。その現状に即して、教育実践を考え、実行することを始めなければいけない。消費社会の真っ只中で育った今の学生に、単にほどほどの達成感を与えるような技術中心の教育ではなく、これらの学生にも将来の人生にこそ意味があるよう、基礎的内容でも「物理のものの見方や考え方」「考える力」「アイデア」また「批判する力」を育む教育をしていきたい。

大学院生については「自ら研究し学問の世界を築ける」ような学生を育てたい。私自身も常にそれを目指して努力していきたい。それには、我々大人や科学者は例え厳しい環境や条件下に置かれても、目先の状況に惑わされず学問の本質を追及し続ける態度を維持することが、大切ではないだろうか。



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「物理教育について2」
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よくある質問・疑問として、「なぜ物理を学ぶのか?」「物理は何の役に立つのか?」というものがある。これは、物理学やその教育の意義に対する自問自答でもあるし、また「物理」を「科学」と置き換えても良い。

回答としては次のようなものが考えられる。(A)「物事の原理を知り応用することができる」(B)「また、それが直接役立たなくても、物事を論理的に考える訓練になる」(C)「さらに、物事を多方面から見る訓練にもなる」実際に私も、高校生あるいは大学の一般教養の学生に対してこのような回答をしたこともあった。

しかし、別な物の見方をすれば、これらの回答も簡単に反論される。 (A)に対しては、(A')「工学系の場合に限られ、うまくいけば応用で役立つ場合も稀にあるが、多くの人に直接的応用は殆ど関係ない」。 (B)に対しては、(B')「全くウソとまでは言わないが、おおよそあらゆる学問は論理的に物事を追求しようというものであり、視野が狭すぎる。むしろ、物理のみが論理的に考える訓練にいいというのならば、論理的でない。そうでないなら法律や経済の方が多くの人にはより身近であり、より効率がいいとも言える。」 そして(C)に対しては、(C')「例えば弁護士は、一つの事案に対してそれを多方面から検討する仕事でもあるし、歴史学は様々な立場から出来事を検証するものである。 心理学もまた、しかりであろう。したがって必ずしも物理学であるは必要ない。」 つまり、自分自身を完全に納得させられる回答ですら難しいのである。 これでは、他の研究分野の中味を知らず、自らの研究分野のみを重要なものとした偏見や、保身に基づく偏った見方と受け取られかねない。もちろん、万人を納得させる説明が存在するとは思わないが、ここではより多くの人々に物理教育の「意味」を伝えるためのヒントを、全く異る方向から眺めてみることにする。そのひとつが、日本国における「稲作り」である。

田んぼの環境はここ50年で一変した。国や農協の方針として、機械化や化学化(農薬化)が進み、百姓の労働時間が40年で1/5に短縮された一方、田んぼに関わってきた多くの小動物や虫たちが激減し、絶滅危惧種まで出てきた。さらに、グローバリゼーションの名の下に、日本の「稲作り」は価格競争によって崩壊しかけている。 「稲作り」が滅びないために、私は、やってはいけないことが二つあると思う。それは、「政府や農協のような、お上からの指導を一方的に受け入れてはいけない」 そして「消費者に媚びてはいけない」ということだ。 消費者は、おいしく安全な米ならば、どこで作られたものでもいいと思いがちである。しかし、百姓自身は目先の利益のために「お上」や「消費者」に迎合してはならない。もちろん、「効率の良さ」「食味の良さ」も稲作りに関わる重要な要素であることは認めるが、それらが稲作りの「意味」の全てではない。 それらは、稲作りを分析的にのみ評価した一面でしかなく、米の内側のみに注目したものといえる。百姓も、機械化や化学化で農作業の効率化のみを追求させられ、米の内側のみしか観ることができなくなっている。つまり、稲作りにおいて米の外側に存在する、金銭や効率には換算されない物の価値を見失っているのである。現代的に表現すれば、「環境」という言葉が一番近いが、それだけでは狭すぎる。本来の百姓は「百の職業もつ自由で創造の民」であったはずだ。今後はその立場で「お上」や「消費者」と対峙し、例えば、社会の中での環境教育などの役割も担うべきだと思う。

もうひとつの典型例を「過疎化の進んだ日本の村づくり」に見ることができる。お上としての行政や地元の有力者の意向に従い、道路や箱物を作成し、観光客に媚を売ることに重きを置いた結果として、自らの存在意味を見失っている例が多い。地方の田舎に住みながら都会の生活様式に憧れ、都会のサラリーマン並の給料を得ることをステータスとする価値観では、それも当然である。自らの存在に対する「意味」や「かけがえのない価値」は、自分自身や周辺環境を良く観察することからしか、掴み取ることができないものであろう。

これらの事柄を、物理教育の意義や意味と照らし合わせて考えることができる。「人づくり」である教育でも、やってはならないことは同様ではないか。「政府や文部科学省のような、お上からの指導を一方的に受け入れてはいけない」「学生や保護者に媚びてはいけない」ということである。 そのうえで、効率や経済効果の外側に位置するものも含めて、よりよく観察して、自らの存在や物理教育の意義を虚心坦懐に捉えて行くことが重要だと思う。むしろそれ自体が、サイエンスの歴史にかなったものではないだろうか。

結局「なぜ物理を学ぶのか?」に対する即答は無く、日常の些細なことや自然現象における素朴な疑問などを通して、其々の個人に「なんらかの物理」を実感してもらう以外ないのであろう。そのためには、物理教育者自身が、狭い意味での物理に閉じこもるのではなく、物理の外側の価値を見つめていくことが必要だろう。そしてそれは、米の外側にあるもの、つまり小動物や虫たち、そして「里山に調和した景観」「田んぼの間を吹く夏の風」を実感してもらうことでしか、稲作りの意味を伝えることができないのと同じである。

日常の生活環境や雑務のなかで、教育や研究の理念を進めていくことは至難であるが、自らの生き方のなかでも実践していきたい。 寺田寅彦は弟子の中谷宇吉郎が、できて間もない北海道大に新任教員として赴任するときに次のような訓を送ったという。「君、新しい處へ行っても、研究費がたりないから研究が出来ないということと、雑用が多くて仕事が出来ないということは決して云わないやうにし給え」 「それから、時々根に肥料をやることを忘れないで」。これが、中谷の等身大の研究、「雪」の研究に繋がって行ったのであろう。私もそのように努力していきたいと思う。その姿が教育そのものになることを期待する。

最後に、再び稲作りとの対比で問題提起しておきたい。米が9俵取れるが、小動物や虫などが生息できない田んぼと、米が6俵しか取れないが、小動物や虫などが数多く生息する田んぼと、どちらがいい田んぼであろうか。後者の価値は米の価格に反映されることはない。 論文を多く書き、応用研究により研究費を多く獲得する物理研究者と、書く論文数はそこそこだが、身近な現象や物理学のより基礎的部分の構築しようと研究する物理研究者は、どちらが重要であろうか。私は、生物多様性ではないが、開かれた構造のなかでの、多様なタイプの研究者の存在こそが重要であると思う。




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