「水の都新潟」

16世紀の地図では信濃川と阿賀野川は下流域で一体になり非常に大きな州を形成していた。また、現在の鳥屋野潟や福島潟にあたる部分も今よりはるかに大きく、今では存在しない紫雲寺潟などもあった。また越後の穀倉地帯である西蒲原地区は、多くの潟や沼が散在する湿地帯であり大雨のあとの悪水を抜くために多くの努力がなされた。例えば、掘割(現:新川)を造って、水位の高い西川と立体交差を造り五十嵐浜へ水を抜く大土木工事は、江戸時代に伊藤五郎左衛門の尽力により完成した。 我々の祖先が水と苦闘し、したたかにその水を利用するべく開拓した結果、新潟は米どころとして有名になり「水の都新潟」などと呼ばれるようにもなった。米はもとより酒や温泉といった水と関わる産物も全国有数である。 また、「蛭」を漢方薬の材料として売り、収入源として利用していたというから厳しい環境の中をしたたかに生き抜いてきたであろう、開拓者である先人たちに頭が下がる思いがする。


今年(2004年)7月に、梅雨明けの梅雨前線の特異な振る舞いによる「新潟豪雨」があり、三条市、中之島町をはじめ県央地区を中心に膨大な被害がでた。

米どころ新潟、水の新潟の裏返しの出来事と思えば、まさに良寛が知人の地震の被災者に送ったという「災害にあう時節には、災害にあうがよく候、死ぬ時節には、死ぬがよろしく候、是災難をのがるる妙法にて候」という見舞いの言葉を思い出す。時節とは仏教用語でまさに時が到来しており避けることのできない状況である。生活の中から排除し切れない災害、不幸すらその生活の一部として積極的に捕らえていくべきである、という思いが生まれる。 

 セクト主義的現代生活の中では、一見「負」の部分をを全て生活の中から切り離し、「快適」な部分のみをむさぼり、それが恒常的かのごとく錯覚をしているように思えてならない。生や死は病院、教育は学校、経済・金融は銀行、政治は議会、のようにである。しかし、それによりもたらされる「快適さ」は、部分的であり一時的なものに違いない。個人の能力や適応力を著しく脆弱なものにし、思考能力を奪っていく。これに比べれば、生活の場に生や死の様々な場面があり、環境に適応した循環型社会生活を行ってきた祖先はやはり尊敬に値する。現代人は退化した現代社会に生活しているとみなすことも可能である。
(2004/07/20)  

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