「生物多様性」

近年、地球温暖化に関するエコロジーや外来生物問題がニュースになることが多い。これらの問題の中でキーワードの一つとして、生物多様性(biodiversity)という言葉がある。この言葉は一見、いかにも日本的な自然観に合致したもののようにも思えるが、実際は外来語を後から日本語化したものだ。対応する言葉が無かったのは、日本人が自然音痴であるというのではなく、このような言葉を敢えて作る必要がなかったからであろう。つまり、それぞれ生活の一部に自然が、自然の一部に生活が組み込まれていたからだと思う。

自然環境の中のサイクルやネットワークは実に多様である。それらは、人類誕生よりはるか以前から形成され始めた生物多様性であり、人類が長い年月をかけた試行錯誤の結果として、そのネットワーク中の一部に組み込むことに成功したものも存在する。しかし、永遠に人類がとらえることのできないものも多いだろう。

環境問題というのは、長い年月をかけ形成されたネットワークに、人類のたった数十年から百年程度の浅知恵で傷をつけ、破壊し、取り返しのつかない事態を生み出すことだ。キズは思いも寄らぬ形で人類の存続をも脅かすことがある。

ここでは、人間生活と自然のサイクルが組み合わされた文化の例を挙げる。まずは、輪島塗がある。輪島塗には126の製作工程があり、輪島の人口の6分の1が蒔絵の伝統工芸関係者であるという。工程の最後の段階では「細かい筆」が必要で、特に筆先には琵琶湖畔のクマネズミの水毛が欠かせない。一本の筆を作るのには10匹のネズミが必要だが、近年の護岸工事や漁師の不足から、このクマネズミの水毛が不足しているという。いくら科学技術が進んでも、人口毛や中国産のネズミの毛では簡単に代用は利かず、そのために千年来の伝統工芸も危機的状況にあるというのだ。

また、台湾に東方美人茶という高価なお茶がある。この茶葉の栽培は、ウンカという虫の駆除をせず、雑草が多い自然状態の中で行われている。ウンカの内分泌物質や刺激によるストレスで葉に生じる成分が、このお茶の味を良くするのだ。さらに、製品にする前に、葉の乾燥や揉むという作業を繰り返すわけだが、この過程でも人間の手から出る成分が重要で、機械化のできない部分だ。まして、農薬の拡大や環境変化で自然状態が保てなくなれば、長年続くお茶文化にも打撃を与える事になる。

さらに、水田において雑草を減らす目的で導入された外来植物の流出も、環境公害になっている。この水草は水面を覆うように繁殖し日光を遮るために、雑草の生長を阻害する作用がある。主に合鴨農法による無農薬米栽培を補助する目的で利用されているが、これが水田の外に流出したというのだ。人の手で簡単には制御できないものが自然であるから、当然起るべくして生じた事態といえる。また、外来種が問題になるのは「長時間かけてプールした」多様性を、一瞬にして著しく下げる働きをしてしまうからだ。これを元に戻そうとしても無理である。(物理の言葉でいえば、非断熱過程だからだ。) このような問題は科学の問題のみならず、生活の問題であり、民俗学的歴史学的視点から見直すことも重要である。 一見、生物多様性の保持は、経済発展や開発と対立するようにも見える。しかし、まともな社会や国に生きることを望むなら、そんなことはないと気づくはずだ。まともな機械には加速機も減速機も必要である。世界経済でいえば、かつては日本が加速機であったが、現在は中国や韓国が加速機である。このときは、日本が減速機になればいい。また、経済や工学が加速機なら理学や文学は減速機の役割を担うものだ。しかも、当然のことながら、時には理学や文学などが加速機として働くこともある。つまり、減速は加速と同等、いやそれ以上に重要な役割がある。国の人口問題も大学の規模拡大もそれを踏まえて議論されるべきだ。
(2007/3/15)


●鷲谷 いづみ 他「生態系へのまなざし」 (東京大学出版会 2005)
●サイモン レヴィン「持続不可能性―環境保全のための複雑系理論入門」
(文一総合出版 2003)
●鷲谷 いづみ,矢原 徹一「保全生態学入門―遺伝子から景観まで」 (文一総合出版 1996)
●長田 弘「詩集 人はかつて樹だった」 (みすず書房 2006)
●富山 和子「水と緑の国、日本」 (講談社 1998) ;
「日本の風景を読む NTT出版ライブラリーレゾナント」(NTT出版 2005)
●都甲 潔「自己組織化―生物にみる複雑多様性と情報処理 」(朝倉書店 1996)
●田幡 憲一 「日常の生物事典」 (東京堂出版 1998)

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