「固有種と外来種」

川辺や野原を散歩するといろいろな自然と出会う事が多い。そんな中で考えるのは、動植物における日本の固有種と外来種のことだ。そもそも希少になってきつつある日本的固有種は貴重だと思う。やはり、外来種が入り込むと日本種は大きさや繁殖力の点で弱者となり、小さな島国の中で長時間かけて自然に形成された微妙な均衡状態が一気に崩れていき希少種になるのであろう。例えば、川におけるタニシや湖におけるブラックバスやブルーギルなどの話はよくあるが、「日本タンポポと西洋タンポポ」「日本のザリガニとアメリカザリガニ」最近は、「日本オオクワガタと西洋のオオクワガタ」など、きりがない。詳しいデータは知らないが、いずれも日本種は以前より大きく減っているのではないか。閉ざされた空間の中で多様で固有なものが増えていくことは、自然の計り知れない多様性を人々に学ばせてくれるという意味でも重要であり、決して無闇に一気に外来種に置き換えるべきでない。もちろんこのようなことは日本だけではなくて、世界中の島々でも生じているだろう。また、ハブとマングースの話などは、生活環境を代えるためにこの類のことを利用したことになるかもしれない。

カオスや複雑系という概念を持ち出すまでも無く、自然界では長時間かけて安定で微妙なバランスが形成される。それをごく一部の人間の行動で外来種が持ち込まれ、一気に崩される。もちろん、完全に閉じたものがすばらしいなどとは思わないが、自然界では、空か海、また渡りを行う生物を通して、わずかずつゆっくりとした時間スケールで、相互作用し長時間かけてその環境に合った次の安定性が形成される。(変わる瞬間は急峻なこともあるが、そのときも準備段階が形成されているだろう。)

「日本古来種は外来種に比べてどうして弱いのか」を考える。単純には、強いものも、弱いものも対等に存在するが、外来種で弱いものが日本の中に入ってきてもすぐ淘汰されてしまう、という考えが浮かぶ。しかし、そんな単純な話ではないだろうと思っていた。この「日本古来種は外来種に比べてどうして弱いのか」ということの原因として参考になる話をテレビで見たことがある。日本タンポポと西洋タンポポに関する鳥越俊太郎氏のレポートだった。日本タンポポは有性生殖でありメスーオス(めしべーおしべ)の受粉で増えるのに対し、西洋タンポポはメスのみで増える無融合生殖を行う、つまりクローンを作って増える。西洋タンポポは日本タンポポの花粉を受け付けないらしい。一方、日本タンポポは西洋タンポポの花粉をうけつけるので、雑種はできる。日本のタンポポの90%はこの雑種らしいのだ。さらに、この雑種と西洋タンポポは交配をするようになってきた。その原因は、環境ホルモンなどの化学物質の影響かもしれないと思われるがまだわかっていない様だ。ただ、「いったん、雑種と交配した西洋タンポポができると帯化タンポポになり、それは化学物質に過敏である可能性をもつ」ということが確認されているらしい。植物のタンポポの場合なので動物はまた違うだろうが、様々なことのヒントにもなり興味深い話である。

微妙な形態の違いはどこから生まれるのであろうか。
日本のイモリは5ブロックに分かれてその生態、特に求愛行動が異なる。(もちろん、見た目の姿は区別がつかず全く同じである。) 例えば、京都のイモリは求愛行動で雄が雌の背中に手を乗せるが、新潟のイモリでは行わない。 つまり、新潟のイモリを京都に持って行き京都のイモリと一緒にしてもうまく交配が行われないことになる。 従って、これが続くと後々形態も変わっていくことになると思うが、どうか。

簡単に言えば、全く孤立し閉ざされた環境が自然で良いという訳でもなく、(そもそもそんなものは存在しない)、周囲や他の環境と非常に緩やかに相互作用するものが自然であり、その中から断熱的に長い時間のうちに多様な形態を生み出すものだと思う。例えば、「自然vs人間」というわけでもない。人間は木を切り草を刈って、土を耕し水を使い生活する。その生活が再生可能な自然のなかで行われていれば、より豊かな自然条件をその境界に形成することも可能であろう。田んぼや畑の周辺の草を刈ったりすると、木のみの森との間に新たな豊かな環境も現れ、そこで他と異なる植物や小動物の生息環境も生まれることを考えると容易に想像できるだろう。(物理の言葉でいえば、人間の行動が僅かな摂動の役割をするということだ。)

さて、多少強引だがこのイメージを社会や個人に当てはめるとどうなるであろうか。一見、「今の日本を守れ、改革反対」に結びつくように見えるかもしれない。しかし、現状がいかにして形成されたかを考えるとそうはいかない。日本はまだ戦後60年位しか経ていないが、その中の数十年は高度経済成長やバブルなどの異常状態である。したがって、まともな状況が自然に形成されているとはとても言えないと思う。これは、日本の常識が世界の非常識になり、本末転倒社会にもつながるのであろう。その意味では、戦前のほうがよりましな個人主義があったのかもしれない。

日本社会も崩壊を恐れるがゆえに、たんに現状維持を好み変化に抵抗する勢力が、官や大学はじめ様々な領域で存在する。自然界とは異なり、日本社会の自力で歩く戦後は始まったばかりなのだから、欧米で長時間かけて形成されたシステムを導入することを初期条件とし、その後の自らの財産を築いていく事は有力な具体策になると思う。その上で大切な事が、物事、システムを輸入して人まねのみでは成り立ち様がないということだ。日本人が欧米のシステムや様式を単に真似してそのままうまくいくとは限らない。赤ん坊や子供が親や大人のまねをするという段階は必要であるが、しかし、まねのレベルでは、決して大人にはなれないということと同じだ。創意工夫し、まさに国として財産を築き上げていかなければいけない。

よく、「競争原理」は日本に合わない、嫌いだという話がある。私も競争は嫌いだ。何故ならば、単に負けるのがいやだから。しかし、漫画やアニメでよく見るように、ライバルとの競争が人間を成長させる姿を見て感動したり、競争の必要性を認識することも多いはずだ。 重要なことは、健全な競争が行えるシステムや状況を求めることであろう。健全な競争は勝者も敗者も成長し、得るものが多いのである。むしろ、負けた場合の方が得るものは多い。そのためには、適材適所に配置された中での競争が大切になる。そうであれば、実力で負けても、その結果や過程から学び、その実力は更に伸びるので、次の競争がまた楽しみになるのだ。
(2002/03/12,2003/12/20改)

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