「生命感2」(2008/03/10)

昨年、いくつかの本を読んだ感想として、「生命感」という雑文を書いた。 その中で取り上げた「歴史としての生命」の著者、村瀬雅俊さんからメールを頂き、その後に出版した文献も教えて頂いた。(突然の著者からのメールはうれしかった。HPはこんな価値もあったと実感した。) 
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   『たまたま、山田さんの「生命観」を拝読し、多田さんに全てがあるという
  ご指摘に「そのとおり」と脱帽している次第です。実は、多田さんの影響を
  乗り越えるべく、いろいろと年月が過ぎました。
  村瀬, 雅俊. 進化ダイナミックスにおける自己・非自己循環原理の探求
  - 構成的認識の理論と実践 -. 2008。 この解説の私のものには、電子版で
  登録している「こころの老化」があります。
  ユングによって、「曼荼羅」の重要性に気づき、それらについてこの2つに
  触れています。 添付資料は、私自身の盲点を自覚するにいたった経緯を口述
  した内容です。生協の2008年1月号に掲載されました。』
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ここでは、村瀬さん返信メールを書いた折に考えたこと、感じたことに基づいたメモを記しておく。 京大生協の記事や「進化ダイナミックスにおける自己・非自己循環原理の探求」、「こころの老化としての「分裂病」: 創造性と破壊生の起源と進化」には、西・東洋的弁証法の統合やその考えに至る村瀬さんの経緯などがよく現れている。

清水博氏の本「生命と場所―創造する生命の原理」では、彼の「場」の概念形成を仏教の生命感や西田哲学にける「矛盾的自己同一」「逆対応」などの概念に照らし合わせて強く言及している。 清水さんや村瀬さんは、薬学出身であることにその源泉があるように思う。つまり、免疫機構に基礎を置いて、自己・非自己という観点から「生命」を徹底的に考えることに発想の源泉があるのであろう。 かつての西洋と東洋の哲学や弁証法における違いを、抗原−抗体による免疫機構での自己・非自己の違いに例え、それらが混在する現在の思想をその統合になぞらえれば、自ずと西田哲学を参照することへも繋がるであろう。 また、村瀬さんが、曼荼羅図のように自己・非自己循環原理や西・東洋的弁証法の統合の図を現したくなる気持はよくわかる。

西・東洋的弁証法の統合過程と比べることから、話の次元を変えすぎかもしれないが、日本における在来種と外来種という身近な問題で自然環境(むしろ、生物や生態はというほうがいいか?)は、その統合を現実のなかで行っている(その過程の途中)とも思える。また、話を更に卑近なものにすると、コンビニエンスストアで一番良く売れているのが、日本茶とおにぎりであることを考えれば、こういったものをよく利用する現代の若者の生活なども対応するのかもしれない。

また、物理学の量子論における基本問題で「観測問題」がある。 これも自己・非自己の視点にそのままあてはめることができる。「観測対象系」と「観測装置」は自己・非自己や内側・外側 または自己・環境などに対応するわけだ。 その境界は明確なものではない。特に、非線形性によるカオスの存在がその「分離不可能性」を顕著にしている。最近の量子計算などで言われる量子も縺れ   (entanglement)なども本質的に同じ状態をさすものだ。物理が科学「哲学」と密接に結びついていた頃の問題が科学「技術」と密接になってきた現在に大いに関わっているというその意味で、循環しているといえる。

物理でもそうだが、多くの場合、理論家は全体(対象)からモデルを抜き出して解析や議論をするわけだが、それを再度、対象に埋め込む操作を何度も繰り返す(村瀬さんの言葉で言えば「循環」)必要があると思う。研究者個人においても当然それが必要であろう。研究課題などは、研究者としてはなんとか攻略しなければいけない異物のようなものといえる。なんとか攻略して、また攻略されてかはわからないが、それを自分の日常の生活形態や行動に自然な形で取り込む様なことができると、坊さんやマタギに一歩近づけるのではないか、と感じている。 熊楠なども、彼の人生の経緯や森を守ることを最後の実践の場にしたことなどを通して、重要なものを見せてくれている。

さらに、昨今、研究現場や様々なところで主流を占める、効率や有用性などの議論も、それらの使用自体の効率や有用性というものがどこまで含まれるかなどを通して、意味も考察されるべきだと感じる。メタレベルの事は、いつでもあっという間に身近な実用的な意味合いを持ちうることが、その背後に用意されているのではないか。「リハビリテーション」なども自己・非自己の関係やlocal/grobalの関係など生命(人といった方がいいか?)に関するあらゆるものが密に埋め込まれている事柄であるような気がするのだ。

いい加減なイメージだが、「生と死」を生活の中に埋め込んでいるような「民俗学」が、自分の「生命、老化、死」などを考えるときの感覚と結びつくと思うことが多い。 「マタギ」の生活一つをみても、生と死を生活の中に埋め込んだ相克の世界であったようだ。熊を殺し、食ったり利用したりするわけだが、ある意味熊と一体化して、自分が熊なのか、熊が自分なのかという境界の大きな揺らぎが、いつでも存在しえたのではないかと思う。その危うさ自体が意識せずとも生活の中に埋め込まれているというイメージである。

「生命観」は、自らの生活や生き方と直接結びつき、切っても切れない問題である。 それゆえ、きちんと向き合って表現をすることに対する恐ろしさもある。もちろん、生きている限り閉じることのない開いた問題であるため、精神的苦悩を伴うのも必然だ。 論文を書こうが本にまとめようが、常に向きあうことを余儀なくさせられるであろう。 そこまで来ると、哲学や思想や宗教の意味やその重要性が増してくることを感じ、生命を語る場合の哲学や思想や宗教の有用さや効率の良さを見ることもできる。これを当てはめ利用することにより、一気に見方を変えることができたり、渇望するものを得ることもある。 先人たちの哲学や思想はその「深刻さ」が重要であり、深刻なほどその有用さも増すのではないか。そうでないものは、他人には意味がないのではないかと思う。一方、当然なことながら、考えることの分業化やout sourcingを必要以上にもたらす危険がある。また、著者の苦悩自体が一番有用であり、技術的なことや記号や式を導入するほど私のイメージからは遠ざかるのである。

個人の「生命感」などは、個人の経歴に強く依存して形成されるものであり、時間的に変化する部分も大きいと思う。そして幾重にも、整理しておくことが必要である。往生要集のなかでも、様々な助念の方法が示されているように。 「一目の羅は鳥を得ること能わず、万術をもって観念を助けて往生の大事を成す」


●村瀬 雅俊, 進化ダイナミックスにおける自己・非自己循環原理の探求
- 構成的認識の理論と実践 -. 2008
[津田一郎(研究代表者). ダイナミックスからみた生命的システムの進化と意義(仮題)
国際高等研究所報告書 2008に収録] http://hdl.handle.net/2433/49154
●村瀬 雅俊, こころの老化としての「分裂病」: 創造性と破壊生の起源と進化
中村雄二郎, 木村敏監修. 講座生命. 5, 2001, pp///-///.
木村敏, 村瀬論文「こころの老化としての「分裂病」」に寄せて,pp259-263;
村瀬雅俊, 木村敏氏のコメントに答えて, pp264-268.
URI: http://hdl.handle.net/2433/48889.
●郡司 ペギオ‐幸夫「生命理論―第1部 生成する生命/第2部 私の意識とは何か」
(哲学書房 2006/03)
●Jesper Hoffmeyer 「生命記号論―宇宙の意味と表象」(青土社 1999/07)
●清水 博「生命と場所―創造する生命の原理」新版版 (NTT出版 1999/03)
●J.Maynard Smith and E.Szathmary, The Origins of Life: From the Birth of Life
to the Origin of Language, (Oxford: Oxford University Press, 1999).
[ジョン・メイナード スミス, エオルシュ サトマーリ, 長野 敬 (翻訳)
「生命進化8つの謎」(朝日新聞社 2001/11) ]
●J.Maynard Smith and E.Szathmary, The Major Transitions in Evolution,
(Spektrum Akademischer Verlag, 1995).
[ジョン・メイナード スミス, エオルシュ サトマーリ, 長野 敬 (翻訳)
「進化する階層-生命の発生から言語の誕生まで」
(シュプリンガー・フェアラーク東京 1997/9) ]
●今西 錦司「私の進化論」再装版 (新思索社 2000/06)
●西川 伸一 , 本庶 佑 (編集) 「岩波講座 現代医学の基礎〈8〉免疫と血液の科学」
(岩波書店 1999/03)
●大角 修「日本人の死者の書―往生要集の〈あの世〉と〈この世〉」 (生活人新書 220)
(日本放送出版協会 2007/05)

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