「生命感」

量子力学の創世期における巨人のひとりである、理論物理学者シュレーディンガーの書いた"What is life?"( 「生命とは何か」)は有名な本である。しかし、理論物理学は「モノ」の研究、特にその普遍性を研究するすることに長けた手法ではあるものの、「イキモノ」に適用するには違和感があり、「物理と生命」の間に私はは距離を感じていた。生命を考えることは日常的にできても、生命に対する畏敬の念が、生命を研究することをあまりにも恐れ多いものと感じさせていたのかもしれない。 (ある意味、Somthing Greatということになろう。)

"What is life? "の裏返しは、"What is death? "ということである。おそらく多くの人が、年齢を重ねるとともに、多少とも死のことを意識するようになり、「死」を自然に、かつ真面目に考える機会である宗教的物事にも関わることになる。

私自身は「生命」を物理の研究対象として積極的に取り扱うつもりはないが、自らの「生命感」は常日頃から認識している。そして、それが生活や研究に関わり得ることは否めないと思う。「生命」関連の本を読んだりもする。 ここでは、いくつか読んだ本の感想を簡単に記しておく。

初め、村瀬さんの「歴史としての生命」(2000)と金子さんの「生命とは何か」(2003) を平行して読んでみた。 金子さんの本では、さすがに細胞に関してなど、カウフマンによる40年前のアイデアを超えている部分があることがわかった。しかし、生命の理解より「生命のモデルの理解」に一生懸命の感があり、この先これが生命の理解につながるのかは不明である。もちろん、アイデアを出し、モデルを構築して解析するということは必要な一面ではある。 モデル作りのプロの金子さんらしさは出ていると思うが、策士策に溺れる、とならなければ良いが。 しかし、このように大規模なプロジェクトを組み、金を使い、長期に渡ってやるべきことかは甚だ疑問だ。

また、村瀬さんの捕らえ方は非常に自然で、必然的な感じを受けた。

さらに、田中博著「生命と複雑系」(2002)と多田富雄「生命の意味論」(1997)「生命をめぐる対話」(1999)も平行して読んでみた。「村瀬」「金子」の本のときもそうだが、意図的に異るタッチの記述(アプローチ)によるものを平行して読むことで、自分の感じ方を整理しようとしたわけだ。田中氏の本は、工学出身の著者らしくあまりにシステム的で、カオスからプリゴジンの非平衡構造論までを並べて教科書にしただけの本なので、最後まで読み進むのが困難だ。

多田さんの本はさすがに面白い点が多く、我が意を得たりという感じがした。さらに、村瀬さんの本の主張は全て、多田さんの見方の中に含まれていたのではないかとも感じた。もちろん、村瀬さんが「循環」という言葉を用いて整理した点は新しいといえるだろうが、多田さんが徹底して「自己」と「非自己」の区別やその曖昧さについて記述し、「スーパーシステム」という概念を作り、「生命」を「社会」「都市」「言語」「歴史」に広げることも主張しているのである。 そして、多田さんが死者の視点から現世を見る「能」をやることが、これらの生命感の形成に大きく関わっていることも興味深い。

もちろん、同じものや同じことを感じても、自分なりの納得いく表現に辿り着くというのは重要なことであり、村瀬さんの本の価値を矮小化する気は毛頭ない。むしろ、自分なりの納得いく表現はその個人だけでなく、多くの人に役立つ機会もある。

他にも感じたことがいくつかあった。

「ボーアの不確定性」ということがよく言われる。細かなものを切り出してそれを研究すればするほど、全体の理解から遠のいてく感じがするというものだ。理論をモデル化すると、いくら研究しても実態に近づいた実感が持てないというのは、金子さんの研究に感じるものに似ているのかもしれない。もちろん、彼はそれらを四方さんの実験で補おうとしている様子がうかがえるが、逆に実験をモデル化することにもなる危うさも感じる。モデルに対する対応物を、いくらでも実験から切り出せるからだ。

村瀬さんの捕らえ方?を私なりに荒っぽくいえば、次のようになる。モデル的に(階層的に)切り出した現象があり、その現象を扱うことにする。ある空間的、時間的スケールや状況によってはその切り出しの効果が(時にカオス的に)拡散していき、無視できなくなる。それどころか、そのズレ自体が本質的になることもあるということだ。これを「循環」として次の階層で捕らえなおして、それを繰り返す。

このイメージで共感できた点は、「循環」で繰り返し進むと言う点が、閉じておらず、開いているというか、前に進んでいるという感じを与えてくれる点だ。できることなら、切り取らない自然観(したがって開いている)が「宗教的」「日本人的」自然観に近いのではないかと思うが、西洋から入った自然科学を否応無く学んでしまっている我々の脳でそれを捕らえようとすると、やはり村瀬さんのようになることも理解できる。 その村瀬さん本人に、多田さんの、なるべく切り取らないようにして観る感覚(本人が書いているわけではないが、勝手にこう表現している。)を西洋的で洗練された表現にしていこうという意図があったのではないか、という見方は、下衆の勘ぐりでろう。

「生命」のようなメタレベルを含む研究は面白いが、常に開いていく方向(うまく表現できていないが?)でないと私には興味が持てなくなってくる。この、開いていく方向のほんの一つとして応用もあるわけだが、それはほんの矮小化されたものに過ぎないだろう。本来は「生命感」自体が、教養や学問というものに結びつくことが重要なのかもしれない。

DNAに関わる研究でも、「生命」「歴史」「生活」など自分と切り離すことのできない関わりを強く認識する中で「研究」していくことのほうが、不確定性のバランスが取れ(コヒーレント状態?)、より自然なことではないかと思う。牽いては、それによって研究がより開いたものになる可能性があり、研究自体も始めて救われるのではないか。

対極のAとBが存在する場合、AとBの争いの中間で生じる事物が複雑で多様なものであることは、一般的に誰もが認識しうることである。生死の問題で境界を行き来するような存在、例えば、「妖怪」「神々」などに対して、私は魅力を感じる。それは、どちらの世界も行き来する神秘さとともに、人間の思考や精神を豊かに、多様な価値観や創造性を与えてくれるからであろう。

また、このような話がいつまでも収束せずに続くのは、自らは内側にいて、その外側から普遍的なものを求めている、というある種の自己矛盾によるのかもしれない。

実験分子生物学者の川出氏の観方からの生命感を書いた最近の本も、多田さんの生命感とoverlapするものを語っている。また、ミクロとマクロの重ね合わせという科学思想を提唱した大森哲学は「科学の意味」理解するうえで大いに役立つ。そのほか、目に付いた文献も挙げておく。(2006/8/10, 2007/6/5) 

●金子 邦彦「生命とは何か―複雑系生命論序説」(東京大学出版 2003)
●村瀬 雅俊「歴史としての生命―自己・非自己循環理論の構築」(京都大学出版 2003)
●田中博 「生命と複雑系」(培風館)
●多田 富雄「免疫の意味論」(青土社 1993); 「生命の意味論」(新潮社 1997);
「生命をめぐる対話作家」(大和書房 1999)
●川出 由己 「生物記号論―主体性の生物学」(京都大学学術出版会 2006)
●大森 荘蔵 「知の構築とその呪縛」(筑摩書房 1994)
●丸山圭蔵 「生命とは何か」(共立出版 1986)
●郡司ペギオ−幸夫 「生成する生命:生命理論 I、生成という存在態」(哲学書房 2002);
「生命と計算:生命理論II、現象論的計算と意識」(哲学書房 2002)
●「“1分子”生物学―生命システムの新しい理解」(岩波書店 2004)
●北原 和夫 田中豊一「生命現象と物理学―「生きもの」と「もの」の間」(朝倉書店 1994)
●小松 和彦「妖怪文化入門」 (せりか書房 2006)
●荒俣 宏 「稲生物怪録―平田篤胤が解く」 (角川書店 2003)
●谷川 健一 「日本の神々」 (岩波書店 1999)

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