「市町村合併・町づくり」

私の故郷の町でも市町村合併問題が進み隣接町などとの合併がほぼ決定し、合併後はアンケートで多数であった「良寛町」という町名に移行するらしい。しかし、何のために合併するのか、どうしてその名がふさわしいのか、などをもっとよく考えるべきではないか。たびたびの「良寛ブーム」もあり、町の名前は知らなくとも良寛という名は聞いたことがあるという人も、全国では多いであろう。しかし、その縁の地に住む人々がどれだけ良寛やその精神を生活に溶け込ませ、感じているかが重要なことであるように思われる。良寛は「書」「和歌」で有名ではあるが、私にとって良寛の大きな意義は、いわば「良寛的生き方」の実践者だということである。大雑把な私の感覚では「人生や考え方を通して、違った価値観を見せてくれた人」である。「災害にあう時節には、災害にあうがよく候、死ぬ時節には、死ぬがよろしく候、是災難をのがるる妙法にて候」などもまさにそうではないであろうか。そう思うと、良寛が「良寛町」などという名をもし聞いたならどう感じるだろうか疑問が残る。もちろん彼のことだから、強く反対などはしないであろうが、決して彼が喜ばしい気がするとは思えないのである。
 
 良寛町誕生後は、良寛の様な生き方・考え方をする人が多く生活する町、またその精神を持つ出身者が多い、などという方向への町づくりを期待したい。 少なくとも、その知名度の利用や良寛ゆかりの地ということをネタに、観光者などを呼び込もうとする表れでないことを祈るばかりである。 ましてや合併自体が、合併特例法目当てや議員歳費の問題などの 一部の目先の利益のみと絡んだものにならないことを、よくよく監視 していくべきである。

 一般的に、未来を語るためには過去をよく知らなければならない。 つまり、歴史教育が重要なわけである。もちろん、世界史、日本史、は教科科目とし て 学校で教えている。しかし、その自分の生まれた地域、生活する地域の歴史、文化 を、世界史、日本史と同様に積極的に学んでいくべきではないか。小学校の生活科の み で なく、むしろ中学、高校の科目の中に「地域学」「地方史」として取り入れる べきだと思う。人間は過去が無ければ、未来に向かって生きていけない動物なのだか ら。 教科書、参考書として、 「江戸時代 人づくり風土記(15) 新潟」 (農山漁村文化協会 1988)や 鈴木牧之「北越雪譜」(岩波 1991)を読んでいくのもいい。 また、町づくりも同様だと思う。

  たとえば、 NHKのプロジェクトXという番組の 「湯布院 いやしの里の百年戦争」で紹介されていた例がある。 町の人々は、ダムによる保証金やリゾート開発により目先の利益誘導をやめ 歴史、環境に根ざして百年単位で町づくりを考えた。 売りは何か?と考え、調べ「大切なのは静けさと緑」だと気づいた。 その結果、現在では、行ってみたい町、いい町並みの1位になっている。

 また、越後でも 日本三大薬湯「松之山温泉」を有する松之山町などは、「ブナ条例」 をつくり、積極的に観光と農業が調和して発展する町づくりを目指している。 そのために重要なのは、棚田やブナ林の環境である。 この条例の前文は、次のようなものである。 「太古の時代よりわたくしたちは、ブナをはじめとする広葉樹林が生み出す有形、 無形の生産物やその恩恵にあずかりながら生活してきた。しかし、近代化の発展と 共に広葉樹林を針葉樹林に替える植林が行われるようになり、広葉樹林のその 美しい姿が消えつつある。それに伴い、山崩れや水源かん養力の衰退、 鳥獣や小動物の生活範囲の狭小化など様々な悪影響が顕在化してきている。 わたくしたちはここに、ブナを代表とする広葉樹林が生態系や国土保全に 担っている役割を十分に理解しながら、町内に原生している広葉樹林を後世に残し、 人々に憩いと安らぎの場を提供するため、この条例を制定する。」 また、松之山町は他の多くの地域と異なり、目先の利益を優先しなかった。 戦後の植林政策によって 奨励種として補助金のついた針葉樹ばかり植えることをせず、 視察対策のために森林の外側のみ植林し、内部は天然林のまま残したという。 その独創的なしたたかさが、松之山町の独自の町づくりに通じているのかもしれな い。

逆に、お上の意向どおり植林を行った地域では 林業の不振で、間伐されずに放置される人工林が増え、 森の保水力は落ち、水害や土砂崩れにつながり 今後も事態は悪くなるばかりであろう。 100年後、200年後の人までが誇りを持てるような合併、町づくりを勝ち取る ためには、「汝の立つ所を深く掘れ、そこ必ず泉沸く」がごとく、足元を深く見つめ ていかなければ ならないであろう。
(2004/07/25)  

追記:2008年6月に、東大の大学院で森林学を研究している大学院生から、上記の松之山での取り組に関する質問のメールを戴いた。 「土地利用における杉林の配置がどのように決められたのか」興味があり、文献などを尋ねられたが、残念ながら忘れてしまい見つけられなかった。 松之山町史や村松町史などにはみつからず。  探すと、2003年出版「暮らしてみたら魔法の里」(つるたとよ子 著)のp35に次のような記述があった。
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数年前奥多摩で、山仕事をしているおばあちゃんがこう言っていた。 「戦争中、お国の政策で杉を植えろとうるさい。杉ばかりじゃ炭も 焼けない。でもお役人が視察に来るから見れるところだけ全部杉を植えた。 見えない中の方は雑木林だよ。」 ......。 松之山町も杉林ばかり。だけどその杉もやはり道から見える所だけ。 中はブナの多い雑木林。「あ、同じことをやっているな」ニヤニヤ 眺めてしまう。 ....  昭和初期、木炭にするために伐採されてはげ山になったところに 若木が生えた。 時代が変わり、生態系が見直され、自然保護が謳われる ようになって、村人の無償奉仕で林間が掃除され、若木だけの美しい ブナ林となった。.....

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