「虚実の狭間」

虚と実といえば、近松門左衛門の虚実皮膜論が有名だ。芸術とは虚構と現実の狭間にあるというもので、まさに現在の脳科学や量子力学を先取りしていたかのようだ。

彼は、江戸時代の浄瑠璃などの脚本家、作家である。曾根崎心中なんて作品がある。人間が「いいな」と感じる芸術感を、虚実皮膜論といって表したのだと思う。芝居などは所詮実在しない「虚」の世界であると誰もが知っているわけだが、それでもすばらしい芝居をみると、いくら観ていても飽きないし感動するわけだ。そのときの感動は何から引き起こされるのか? 感動した自分のなかに実在する感覚、理想、イメージなどとその虚が結びついたときにひきおこされるのではないか。つまり、虚のみではやはり退屈であろうが、虚実か絡み入り混じったときに初めて魅力が生まれるといったことだと思う。 芸術論、俳句、場合によっては写真などでもよく出てくる論であるらしいが。

また、複素写像で生成されるジュリア集合やマンデルブロウ集合も、複素数を扱う世界の面白さであり興味深いものを思い起こさせる。量子力学の面白さに通じるものがある、そう、トンネル効果だ。これは実の世界では記述できないため、時間を複素化したり、力学変数を複素化したりしてその効課を取り扱う。実際、トンネルに対応する複素古典軌道がジュリア集合と関連する事が見つかってきている。
 
写像の中で重要な役目をするものが特異点だ。何かしらある情報があり、それを他の空間に写像するようななんらかの操作があれば、必ず特異点というものが存在する可能性がある。情報や経験と脳内の記憶の間でもあるのが自然だろう。また、生物はその特異点を上手く利用してその個体の成長、維持を行っているかのしれない。そういったことも既存の知られたものを、数学などの目新しい言葉で表現し直すことかもしれないが、物事に違った視点を導入するきっかけになるので重要な事だと思う。実際ここ1世紀くらいの間に、物理学はその幾何学化により整理されたことも多い。

物理学、化学、生物学の自然現象には、特異点の存在により転移が起こり現象がかわるということは珍しくない。社会のなかでも、決して多数でなくても特異的存在が革命や大きな転換期を生み出すことも多い。(もちろん、悲劇的な状態をもたらすことも含まれてる。)新しい物事を生み出すきっかけになるということだ。現状を変えたくない勢力は反対するので、除去可能特異点であってはいけない。物事が大きく変わっていくときは、あっちこっちと特異点が現れ始め、そのうち自然境界ができあがり、どうにも解析接続不能になるのかもしれない。

人生においても実軸上のどの点にいるかはではなくて、虚軸のどの深さまでいきどんな特異点のまわりをどういう経路でたどって、その実軸にきたかということが重要になるのではないか? 生きているうちに多くの特異点にめぐり合うことを楽しみたい。

飛躍すれば、虚と実の入り混じったものや境界にあるものにに魅力を感じる人は多いのではないか。例えば、仙人だ。「仙人とは、不老不死の術を体得し人間界を離れて山中に入り、修業をかさねた想像上の人とか、中国の道家思想にもとづく理想的人格として空想されたり、実在の人が神仙化されて超人的な神通力をもった人とかといった説がある。」道教の理想の人間像や不老不死の仙術などとは別な視点で、私なりに簡単に捕らえると、仙人とは人間と神との中間の存在ということだ。無頼の絵師といわれる曾我蕭白の「郡仙図屏風」なる絵(仙人が鳥と話をしていたり、体の一部が周囲の景色と一体になったりした老人の絵)にある様に、仙人とは、「自然と共にある人」をいうことで、どうであろうか。 

 私自身も仙人の気分のかけらを味わいたくて、時々山行をしたくなる。(もっとも精々1500m級の山で日帰りのみだが。)重装備をしたスポーツ登山の類はあまり好きではない。山歩きは、技術の一部はスポーツ登山と共有するがその精神たるや全く異なると思う。山歩きのようなものでは、山と「何がしかの一体感」を得るということが目的だ。ついでに、同じ理由で、釣りは好きだが、ルアーを使った釣りやリフトで登るスキーなどもあまり好きになれないない。
(2002/08/14,2003/12/22改)

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