「議論のあり方」

欧米では学校教育の段階でディベートの訓練を行う。それに比べて、日本人は議論が下手だといわれている。これは、「裁判沙汰」と言われるように、争いごとを避け、事なかれ主義的な状況を好む日本の風潮の反映とも理解できる。

常々、ことに接するたびに「議論とはとうあるべきか」と考えてきた。私は、データや法律に論拠を置くような議論やディベートはあまり好きになれない。それが、官僚的だからだ。普段よく目にするものは利害を調整するための議論だが、これはいくら立場が対立したとしても「開いた議論」とはいえない。利害調整ならデータや法律に依る部分が多いのだから、計算機同士の議論でも代用できる。これに対して、「開いた議論」というものは、利害調整の前に徹底した理念に関する語り合いがあり、お互いがどこまでその理念を共有できるのかを、実感するすることで始まるものであろう。またその過程では互いの立場が逆転したりする瞬間もあるだろう。そして結果的に、利害に関わらず、両方が成長することが可能である。物理の用語を交えて言えば、異なる相の間(界面)のゆらぎをもたらすことが重要ということだ。しかしながら、そういった開いたタイプの議論は大学内でも殆ど行われていない。人事や予算など利害が絡む物事では、利害関係のみに基づく行動が多いことは、如何に大学人はダメかということを示唆している。

これに対し、むしろ昔の日本の第一次産業的な職業の人々の間での後論のほうが、「開かれた議論」ではないかと思う。例えば、百姓間での稲の水管理の問題だ。これは問題自体が開いた構造をもつことからもわかる。水をうまくやりくりしなければ、稲の育成の遅れのみならず病害虫の発生にもつながり、それは境界が屏で仕切られていない様々な田んぼに伝播して行く可能性が多いからだ。自らのローカルな利害のみで閉じていないのだ。経済的に見れば、減反問題なども個人の利害のみで閉じない問題である。

漁師の漁獲量の問題や猟期の問題もそうだ。簡単に魚という資源保護の問題のほかに、古くから続くその土地での生活理念の問題でもある。民俗学者 宮本常一の「わすれられた日本人」に出てくる聞き取り調査での漁民の集会の話は忘れられない。何か決め事をする場合は、食事や酒が入りながら2日ても3日でも集会場に寝泊りし、話し合いを続けるようだ。土着の直接民主主義の自然発生のようだ。

日本でも数年後にはから裁判員制度が始まる予定だ。社会としてはこれをチャンスにすべきである。裁判員に選ばれれば、仕事を休んで裁判に集中しなくてはならないが、様々な人(被告人、裁判官、検事、弁護士、他の裁判員など)と境界を越えて様々な議論をすれば、その結果得られる利益は大きいだろう。

開けた人のあり方というものが無いと、開けた議論には発展しないかもしれない。閉じた行動と言うのは、自分側の勢力拡大や影響力拡大に向けた行動であろう。それに対し、開いた態度と言うものは、単に柔軟な態度ということでは決して無い。つまり、人や物事に迎合せず、自分のスタイルを明確にするという、むしろ頑固さがなければならない。

出久根 達郎「漱石先生の手紙」(講談社 2004) の中に、夏目漱石が久米正雄や芥川龍之介に宛てた手紙の一部として、次のようなものがある。

「...僕も其積であなた方の将来を見ています。どうぞ偉くなって下さい。然し無闇にあせっては不可ません。ただ牛のやうに図々しく進んで行くのが大事です。文壇にもっと心持の好い愉快な空気を輸入したいと思います。それから無闇にカタカナに平伏する癖をやめさせてやりたいと思います。是は両君とも後同感だらうと思います。....」 

「.... あせっては不可ません。頭を悪くしては不可ません。根気づくでお出でなさい。世の中は根気の前に頭を下げる事を知っていますが、火花の前には一瞬の記憶しか与へて呉ません。うんうん死ぬ迄押すのです。其れ丈です。決して相手を拵えへてそれを押しちや不可ません。相手はいくらでも後から後からと出てきます。さうして吾々を悩ませます。牛は超然として押していくのです。何を押すかと聞くなら申します。人間を押すのです。文士を押すのではありません。.....」

ここでの態度、押し方は開いている。 押す対象が人間一般であるからだ。学問や大学関していえば、学会や大学教授を押すのではなく、物理学や教育そのものを押す、ということになる。また、前者の押し方は、いかにも閉じており利害が異なれば相手方の人格をも否定する、という最近良く見受けられる日本的議論に通じることにもなる。
(2007/3/20)

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