「日本公園と西洋公園」

公園の沢山ある街は魅力的で、そんなところに住みたい。昔から西洋庭園と日本庭園の比較の話がある。英国式をはじめ西洋の庭園はきれいに花や植物が植え込まれ対称性が高く、秩序を持っており、一方、日本式の庭は、ある独特なバランスにより石や庭木が配置されている。日本人(東洋人?)は、完全な規則に従っているとかえって気持ち悪く感じるのかもしれない。かといって、私の中では、日本庭園のエントロピーは低いものに見える。(池の鯉まで含めて庭だから、まさに動的安定性なんてこじつけたくもなる。)類似のことは、日本の生け花と西洋のフラワーアレンジメントなど様々なところで感じる。流派にもよるのだろうが、生け花では「天」「地」「人」のバランスを尊ぶとか。また、どういう庭を好むかは文化や背景と共に、その人の心の有り様とも大きくかかわってくるだろう。心理学で行う様に子供に庭づくりをさせて深層心理を確かめたり、箱庭療法など興味深いものもある。西洋の公園は西洋庭園の大きなものと見なせる気もする。そうすると、字のごとく西洋人のもつpublicという概念にも通じるところが見える。逆に、日本人には西洋的publicはそのままでは十分には活かされない気がする。本来、日本的public, 東洋的publicというものを歴史の中で試行錯誤して培っていくべきなのだろう。

ただ、庭などに縁の無い百姓育ちの私にとっては、日本庭園は金持ちがstatus symbolとして全ての自然(宇宙)を囲い込みそこに君臨し、おだやかな秩序を楽しんでいるだけのようにも感じる。生命として無意識のうちになんらかのバランスをとっているのかもしれない。京都にいた庭師、7代目小川治兵衞の庭は、住む人が変わっても受け継がれており、その見事さは素晴らしいようだ。 石、コケにもこだわり、靴脱ぎ石に鞍馬の赤い石、鴨川の黒石などを使い、コケも何年も掛けて養殖する。まさに、雅な都の文化を象徴しているようだ。石、コケの自然物は山の中でそのまま楽しむべきだと思う、典型的に日本人である田舎の百姓である自分には違和感を感じる面もあり、国の文化といえどかなり不均質なものであろう。


「カオス」は一つの有力なものの見方を与えてくれる。完全秩序と確率的ランダムさを含め、さらにその中間のものまで含んだ概念だから。それも、AかBかではなくて一つ高い次元からAもBも必然として生まれるわけである。物事の見方、捉え方が進歩することは楽しいものだ。豊かになった気がする。自然科学などもまさにそれをする学問だろう。

社会の物事も、AかBの対立ではなくて中庸ということ(東洋なら中道か?)が当事者の中から生じ得て初めて健全という気がする。野暮に表現すれば、まさにA点B点を結んだ中間の中途半端なとこに落としどころを求めるのではなく、一つ上の二次元から位置付けを考えていくとまた違った解釈が生まれる、などであろうか。直線状でないAとBの間の空間を考えるなどというのは現代の日本人には難しいのだろうか。間が無い人を「間抜け」などと呼んだりはするのだが、、、、。

「公」と「私」の問題は多くの人が生涯関わりあう永遠の奥深い問題であろう。当然、いわゆる個人の目先の利益のための公私混同などは論外だが、昨今は「公」と「私」をあまりに分けすぎる面が強い気がする。うまく表現できないが、分離しすぎるのも善くないと思うわけだ。聞いた話だが、西洋でも生活の中に興味深い決まり(法律)があるらしい。例えば、ドイツでは、樹齢20年以上の樹木は、例え自分の庭のものでも勝手に切り倒す事はできないという話を聞いた。また、スコットランドでは、郊外に多くの牧場や農地があり、もちろん農家の私有地であるが、その土地の中には「誰でも通り抜けられる細い道を用意しておかなければならない」という規則があるのだ。実際これは、農家のためにもなるのではないかと感じる。 通り抜けるとき挨拶したり、作業を見ていくうちにお互いの理解も増すからだ。これも私的な生活の中から「公」が生まれその公の中でこそ、より心地よい「私」的生活も成立していくようなバランスを知恵として持っている気がする。当然、昔の日本にも知恵があった。例えば、「村八分」や「盗人にも三分の理」なんかも、どんなものも完全には分離しないで、中に取り込んみ全体の秩序を安定に保つような感覚があるような気がする。

少々強引だが、「公」と「私」の問題とも一脈通問題を一般化する。例えば、物理系なら「システム+熱浴」、生物系なら「生物+環境」、DNAなら「エクソン+イントロン」の間の関係ともいえるかもしれない。

何事も、システムとその周辺としてものごとを整理すると理解しやすいし、取り扱いが便利になる。時にそれで十分有効だが、忘れてはいけないことは、いわばこれは第一近似に過ぎないと言う事だ。つまり近似には必ず適応限界があるということだ。生物系なら、その環境の中で生存するべく生物が生まれていることであり、環境との強い相互作用がある。物理系で言えば、まさに相互作用に関する摂動展開の収束性の問題だ。空間的時間的に短いスケールでは、近似的に良く成立しているように見えるが、広範囲や長時間を考えた時その級数が発散に転じてしまうということは珍しくない。

昨今は、自分や周りの人間、また、自国とその周辺国など、切り離して考えすぎるのではないか?と感じる。時間的に言えば、現在と過去や未来を切り離しすぎているのではないか? 生死の問題もそうだ。もっと生活の中に死生観や人生観を自然に養えるようになるほうよいだろう。その方が、一歩先に行くと突然発散し収集が着かなくなるようなことの無いような安定した状態に思える。
(2002/11/01)

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