「越後人3」

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<<佐藤雪山(虎三郎)>>
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小千谷出身で、関流八伝の江戸後期の和算家。小千谷の縮の問屋をしながら、生涯のほとんどを小千谷で過ごした。元々、和算は生活の中に入り込んでいた。 実際、土地の測量や商売の勘定、大工の図面などに有用であったと思う。

和算が盛んであった様子は、全国各地にある算額からもうかがい知れる。算額とは額や絵馬に数学の問題や解法を記して、神社や仏閣に奉納した日本独自の文化である。私の家の身近なものとして、滝谷薬師堂(旧西越村、現出雲崎町)にも、1869(明治2)年に2問の算額が奉納されている。
問1「如図今有三角等面四円容只言大円径若干中鉤及小径間幾何為如何」
問2「如図今有玉六箇只言子己巳三玉積*又容寅卯辰之三玉尺寸若干只
   言又言之六玉崩言玉他其玉径間幾何為術何」

一方、真理探求そのものを楽しみにした風潮に対する批判として次のようなものがあった。
藤田貞資(関流四伝?和算家, 1734-1807) 「算数に、用の用あり、無用の用あり、無用の無用あり」、荻生徂徠(1666-1728)「数学も亦、不侫未だ之を学ばず。然れども今の数学者流を観るに、種の奇巧を設けて、以てその精微を誇る。その実、世に用なし。」

明治以降、在来の和算や寺田物理学が西洋から輸入された外来の数学や物理学にとって代わられたわけだが、その過程や生き残り方はどのようであったのか。 近年、生態系や経済活動で観られる、在来種・外来種問題と通じる点などがあるのであろうか。最近、学問としての物理学や数学が片隅に追いやられていることに関し、参考になることはないのか。 興味あるところだ。

それにしても、 関流六伝の長谷川寛、七伝の山口坎山、八伝の佐藤雪山が越後の出身者であったことは興味深い。

●五十嵐 秀太郎「評伝 佐藤雪山―越後和算学者の系譜」(東洋書店 1989/5)
●佐藤 健一「続・和算を教え歩いた男―日本人と数」(東洋書店 2003/06)

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<<山口坎山(山口和、山口倉八)>>
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江戸後期の和算家で、当時江戸で一番人気があった長谷川道場で関流七伝を受ける。阪口五峰(坂口仁一郎)の「北越詩話」(1918年)によると、師匠の長谷川寛(長谷川善左衛門)の出身地も水原であったようだ。

坎山は6回にわたり全国を遊歴し、その道中日記に各地の和算家の状況、算額などの記事を記した。坎山が最後の旅を終え、水原に戻った年に文政の大地震(1828年11年12日, M7)があった。この大地震では、三条市を中心に1600人以上の死者,11000戸の家屋倒壊があったという。「北越雑記」によると「海辺通り出雲崎と弥彦山が崩れて海の中 へ押し出し、、、」
と記されているようだ。

この地震の折に、良寛は有名な言葉「災難に逢う時節には逢うがよく候。死ぬ時節には死ぬがよく候。是はこれ災難からのがるゝ妙法にて候。」を書間に記している。

坎山らに因んで水原町(合併後、阿賀野市)は算数の町として、活気づこうとしていることは、非常に謂れのあることといえる。商店街の店に算数の問題が貼られ、各店に解答用紙も備えてある。(以前、何も知らずに初めて商店街を通ったときはなんだこれ、と感じたのだが。)

現在も、阿賀野市城外町 城外八幡宮に「山口坎山頌徳碑」があり、当時の「道中日記」が水原町博物館に残っている。 以下のサイトで「道中日記」のこと、和算のことを紹介している。
http://www.itsquare.co.jp/koukisin/kazu/index.html

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<<村山禎治(1830-1922)>>
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小千谷の佐藤雪山に入門し免状を得た、茨目(柏崎市)出身の和算学者。 木曽路・米山峠の測量などで活躍。村山家に残る塾則に「稽術は上達を専一とする。故に新古貴賎にかかわらず、一歩も進み候を上席とす…」と書かれている。

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