「越後人2」

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<<小林虎三郎>>
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1828年、長岡生。『米百俵の精神』として、小泉総理の演説でにわかに注目を集めた。佐久間象山の塾に入塾。勝海舟、坂本竜馬、吉田松蔭らとともに蘭学や砲術、そして、西洋事情と象山独自の開国論を学ぶ。その俊才ぶりから、長州の吉田寅二郎(松蔭)と並べて「象門の二虎」とたたえられた。師の象山も「松蔭の大胆で知略に優れている点と小林の深い学識はいずれも世に稀な才能であるが、天下を動かす大仕事をするのは吉田で、わが子を託しても教育をしてほしいと思うのは、小林だ。」と述べている。 河井継之助に戦いに参加することを止めるよう言うが、それもかなわず、長岡藩は北越戊辰戦争で幕府軍につき敗北する。敗戦後の長岡の窮状を見かねた三根山藩から百俵の救援米が届けられた。虎三郎はこの米を元手に、次の世代を担う子どもたちを教育する学校を作るという使い道を選び、反対する藩士たちを説得した。そして、虎三郎の必死の訴えを聞いた藩士たちもただ一時の空腹を満たす今日の米より、明日の人づくりの道を選んだ。そして、2ヶ月後この米を元に士族だけでなく平民にも門戸を開く学校が建てられた。
 小林は決して名利や皮相な技術を求めず、技術の基礎にある学問の法則に目を向け西洋科学の成り立ちを正しく理解しようとしていたという。特に窮理学(西洋物理学)を修めていたことは興味深い。
(2004/07/26)
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<<河井継之助人>>
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幕末の長岡藩家老。藩政改革に実績をあげ、赤字財政の建て直し、富国強兵に成功したことで有名。しかし、戊辰戦争では中立を標ぼうしたが明治政府に受け入れられず、激戦の末長岡城は陥落。会津に逃れる途中に没し、「八十里,腰抜け武士の越す峠」との辞世の句を詠んだ。この峠は司馬遼太郎作「峠」の舞台ともなり、全国的な知名度も高い八十里越のことだ。下田村と福島県只見町へ通じる峠で、天明の大飢饉を契機に、越後の塩、米などの生活物資を会津地方に輸送したり、農民の日光参詣や江戸へ至る重要な生活道路だった。現在では下田村主催で八十里越を歩くイベントがある。もちろん、八十里を歩くわけではなく、25Km位であり到着地に車を回していけば、1日の行事として丁度いいということだ。
(2004/07/26)
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<<高野余慶>>
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実証的な学風を重んじた儒学者。著書に『昇平夜話』『粒々辛苦録』などがある。長岡藩は厳しい藩の方針で、武士・庶民を統合し、質素倹約を奨励した。藩主、牧野氏の「常在戦場の精神」による人生の処し方は藩の統治に影響した。「粒々辛苦録」において、農民の生活をしることができる。上農(庄屋、組頭、長百姓)は多くの田畑をもち、その下に中農、下農(水呑み百姓)がある。水呑み百姓のなかでも田畑を借りているものはいいが、老人、女ばかりの家は草木の葉や落穂をひろいなんとか凌いでいるものもいた。貧しい家の子はたまにしか米で作った餅など見ることができないなど、階層により食生活は大きく異なっていた。殆どの農民が下農のため、厳しい食生活であったことには違いないようだ。粟、稗、麦が常食で男も女も子供のうちから働き手であった。朝暗いうちから農作業に出て、夜遅くまで働いていた。風呂など入らず、川か井戸で手足を洗う程度であった。
 「粒々辛苦録」においては、農民の実情を知ることにより、武士はいっそうの倹約に努めなければならないとした。
(2004/07/26)
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<<鈴木牧之>>
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塩沢(現在:南魚沼市)に生まれ、たちぢみ仲買と質屋を生業としながら、「北越雪譜」(1842年完結) 「秋山行」等の著作をした。 「北越雪譜」が江戸の出版元から発刊されるまで40年の歳月がかかったが、貴重な雪の結晶、雪国独特の民具、川や山での漁、行事や遊び、伝承の説話、大雪の記事など民俗学や自然科学の貴重な資料となる、雪国の博物誌です。 鈴木牧之記念館に多くの資料が収められている。 「秋山記行」は、平成18年の豪雪で孤立した集落などを通り、秋山郷に向かうなかで様々な民族、風物を紹介する記行文である。特に、その生活の素朴さ、質素さがわかる。 この秋山記行を読んで今更ながら感じたのは、「句」「和歌」が如何に優れた表現手段かである。 映像などの撮影器具がなくとも短時間に、合理的に一瞬にしてその状景を写し取るわけだ。 外国人がこの世界一短い文学に感動するのも無理はない。 この地区の多くの世帯の苗字が「山田」である。
 なを、鈴木牧之記念館には鈴木牧之の他に、荘田幹夫を紹介するコーナーもある。荘田幹夫は中谷宇吉郎の弟子で、雪崩や電線に積もる雪の状態のような未知の自然現象の解明を目指して研究した。 是非、雪深い冬期間にたずねてみることを勧めたい。
(2006/01/07)
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<<上杉兼信>>
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最近もNHK番組「そのとき歴史が動いた」で、私利私欲の無かった日本人(戦国武将)として紹介された。武田信玄や織田信長と比べると野心がなく、大儀につくす坊さんのような精神を持っていた様だ。その時代などは、信長のように小心者で、狡さをもつものが生き残ることも多かったであろうと思う。このとき、以前友人から譲渡された「上杉史料集(上)(中)(下)」(井上鋭夫)が結構高い値になっていることを知llった。

上杉謙信の家訓16条
 「心に物なき時は心広く体泰なり」
 「心に我が侭なき時は愛敬失わず」
 「心に欲なき時は義理を行う」
 「心に私なき時は疑うことなし」
 「心に驕りなき時は人を教う」
 「心に誤りなき時は人を畏れず」
 「心に邪見なき時は人を育つる」
 「心に貪りなき時は人に諂うことなし」
 「心に怒りなき時は言葉和らかなり」
 「心に堪忍ある時は事を調う」
 「心に曇りなき時は心静かなり」
 「心に勇ある時は悔やむことなし」
 「心賤しからざる時は願好まず」
 「心に孝行ある時は忠節厚し」
 「心に自慢なき時は人の善を知り」
 「心に迷いなき時は人を咎めず」 
(2007/01/07)
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<<坂口安吾>>
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2006年は坂口安吾生誕100年ということから、安吾や坂口家の話を聴く機会が多かった。安吾も五峰(安吾の父)も物にこだわらない、自由人だあった様だ。「諸国畸人伝」(中央公論新社; 改版 2005/09) という石川 淳の本では次のように紹介されている。 「碁を好み、酒を好み、おそらく女を好み、唄を歌えば調子はづれ、演説をぶてばしどろもどろ、そのくせ大言あたりをはらって、放曠の處士をもってみづから居るということにならうと、これが五峰のことか安吾のことか父子いづれとも分かちがたい」
放曠:こころの趣くままに振舞う事
處士(ショシ):民間において仕官しない、在野の人
(2007/01/07)

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