「越後人」

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<<生田万>>(越後出身ではないが)
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生田万は上州出身の武士であり、江戸に遊学して平田篤胤から国学を学び、帰国後藩政を批判したため追放される。藩校でも学風になじまず,独学をしていたようだ。1836年越後柏崎に移り,ここで桜園塾を開き国学を教えた。天保飢饉がおこり、米価が急騰して貧民の生活が窮迫した。時の柏崎代官は救護の策を講ぜず自ら暴利を貪っていため、1837年、同志ともに陣屋を襲撃したが、敗れ自殺した。37才だった。高校の歴史でも習うように、大塩平八郎の乱に影響を受けての義民・生田万の乱として有名である。柏崎小学校西側に碑が建てられている。
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<<良寛>>
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江戸時代の禅僧、歌人、書家で、動物や草木にまでも同じ愛情で接した逸話で有名。1758年、出雲崎で名主兼神官を務める家の長男として生まれた。22歳の頃、備中(岡山県倉敷市)の円通寺の僧になり、11年間修行する。33歳の年に師・国仙から仏道の悟りを得た証明書を受け翌年、諸国行脚に出る。5年後越後へもどる。隠遁僧として自然を愛し、山中独居、乞食行脚の生活を実践した。良寛の興味深さは「僧にあらず俗にあらず」だろう。一見、中途半端にもみえるかもしれないが寺に僧として属するよりも、実行するとなるとはるかに難しい生き方かもしれない。晩年を過ごした五合庵は寺泊にある。出雲崎には良寛堂、多くの書がみられる良寛記念館がある。特に、良寛記念館では弁士の方の説明をきくこともできる。

良寛の詩歌は、英語、ドイツ語、フランス語、中国語、タイ語、イタリア語などに翻訳されているらしい。また、各地で良寛研究や良寛サミットなどの研究会が開かれ、映画もできている。同郷の私としてはうれしい限りだ。私としては、良寛のような生き方を実際に実行していくことが肝心ではなかろうか、と思う。もちろん、真似をすればよいというものではない。行政は、観光客誘致に良寛を利用するという向きもあるが、むしろ「良寛の生き方」をする町民を誘致する(支援する)などしてはどうであろうか。この地には在来種の白タンポポもみられる。
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<<吉田東吾>>
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日本歴史地理学のパイオニア。1864年越後安田町大字保田で三男として生まれた。国郡の区分に従い、著名の土地を標目とし、地名の変遷などを出典を示して精細に説く文字数1200万字からなる「大日本地名辞書」を単独で書き上げた超人的学者。現在でも版を重ねており、序文に記された「悪銭僅かに生還する想いあり」は制作期間十三年間を凝縮している。地域に密着した生活空間から日本を観ていこうとする着想である。勉強するために軍隊に入り図書館で独学を続け、当時の著名な学者を論破していったという。安田町には吉田東吾記念館がある。最近、市町村合併問題において、新たな名前をどうするかの対立でもめる事も多いようだ。やはり、歴史に根ざすことが将来を明るくし、そこで生まれ育ったことに誇りを持てるようになるのではなかろうか。吉田氏の言うように、地名を失うことは郷土を失うことでもある。
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<<小林ハル>>
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1900年現在の三条市生。生後すぐ視力が低下し、5歳で瞽女として弟子入り。73歳まで瞽女として唄い続け、77歳で重要無形文化財・人間国宝になる。史上最後の瞽女である。瞽女は三味線をかき鳴らし、語りものなど唄う「女旅芸人」のこと。芸をするのは主に盲人で、生きていく術として幼少から厳しく芸を仕込まれ、親方のもとでそれぞれ「組」を構成し、独自のオキテとしきたりのもとで、各地を「門づけ」して歩く。5−6人で関東の村までもまわっていたらしい。有名な言葉、
「生きている限り、全部修行だと思ってきましたが、
 今度生まれてくる時は、たとえ虫になってもいい、
 目だけは明るい目をもらいたいもんだ・・・。」
その半生で、考えあられる不幸を全て受け入れて生きてきた人と言えるかもしれない。現在は、黒川村の老人ホームで昔の瞽女仲間とともに生活している。文献:本間章子「小林ハル 盲目の旅人」求龍堂、2001
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若月忠信氏が「遠野物語の二、三の疑問を「瞽女 小林ハル」で読む」という話をしていた。柳田国男の「遠野物語」は、「ザシキワラシ」や「捨老伝説」「神隠し」など遠野に伝わる、生活に根ざした不思議で怪しい話を伝えているものだ。若月氏は、越後瞽女ハルさんの存在を、これらと相通ずるものがある一種の「負の知恵」と見れるのではないかという。遠野物語の「ザシキワラシ」は、家の中で封じ込めて、生き抜いていく(他から隠して子供を生かす)民俗文化の象徴のひとつでしょう。「瞽女」もまた生きていくためのすべとして生まれ出てきたものであろう。ただ、「ザシキワラシ」は内面に抱え込むように展開していった感があり、一方瞽女は、それを外側に展開していった文化である気がしてくる。
(2003/10/10)
追記: 2005年新潟県黒川村熱田坂の特別養護老人ホームにて、老衰のため105歳で死去した。96歳の時点で500曲近い瞽女唄を覚えており、最後の弟子もとった。

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