「農民と教養」


教養とは何か。culture の翻訳語として受け取られてきたわけだが、日本においては米作りに代表される農業にこそ、教養を見る気がする。知識が古くなり、新しい知識に対面するとき、その時、深く耕された「教養」が役にたってくれるという。 culture の語源はラテン語の動詞 colere であり「住む、耕す、祈る」の三つの意味をもっていた。

日本人は米作りで生活をしてきた農耕民族だ。肉などを食べ始めたのはつい最近である。その原点に戻って学ぶことは多いのではないかと思う。自然の状態では、動植物でもその環境に適したものの存在が許される。その土地で生きているものは、その土地との相関が大きいということだ。その生活の中で学ぶものが多かったのだと思う。「身土不二」(自分が生まれた場所の四里四方の物を食べて生きるのが体に良いという話)という言葉もある、体と土は分けることができない。人間も所詮は自然の一部にすぎないのだ。これは極端な話にしても、質素、倹約による生活が身に着いていたのだろう。もちろん、百姓から学ぶことは、質素倹約のみではない。気候や環境の制御は難しいわけだから、なるべくそれを利用して創造的未来を展開することも必要だ。要は、「百姓は自由の民であり創造の民である」ということだ。百姓ともあろうものが、つまらない政治家なんかに手懐けられてはいけない。ましてや、研究者なんぞと異なりヘゲモニーに統合されにくい存在であらねばならない。

日本は米作りの国である。稲を刈って、藁は稲を入れる俵や草履を作るのにも使うし、土を肥やす肥料としても利用した。モミがらは、田んぼに蒔くと雑草を防ぐ除草剤の代わりにもなった、糠で糠漬けを作ることもできる。もちろん、田んぼは、貯水や防災のために役立つ、、、など 限りない役目がある。 なんと無駄が無く、まさに美しい文化ではないかと思う。また、江戸時代なども米の品種は多数(100種以上?)改良され、北の大地でも作れるように工夫されてきた、技術であり文化であろう。(20−30年前を思い起こしてのことで、現在の米作りとは大分異なる。)

さらに、ここ10ー20年位は、「合鴨農法」や「不耕期栽培」での無農薬米などの生産も行われてきた。これまた無駄が無く美しい。江戸時代には無かったわけだから、新たな日本独自の文化として期待がもてる。

「合鴨農法」 
合鴨農法とは合鴨(野性の鴨とあひるを交配させたもの)稲は食べずに、水田雑草に多い柔らかく筋のない草を喜んで食べる習性を利用た無農薬米作りです。また、中国大陸から梅雨前線に乗って飛んでくるウンカやイナゴといった害虫を食べることで殺虫剤を使用しなくて済む。水掻きで土を掻き回すことにより酸素を根に与える耕田の効果もあり、糞は肥料になる。もちろん収穫後は食用にもなる。稲の成長と、合鴨の成長をのバランスを良く見定めて様々な日程を決めなければならないところがポイントだという。私の家の近くでも行われており、全国で1万戸位が実行しているとか。
「不耕期栽培」
田んぼを耕さず、農薬も使わないで土を硬い状態で、自然のまま稲を育てること。これに加えて「冬期湛水」で冬場に水をはっておいた田んぼには、生き物たちがいっぱい集まる。微生物が多く生息し、絶滅危惧種の植物も生まれる、またメダカやタニシ、収穫後は生態系の頂点に立つ鳥も多く訪れるとう。また、「冬期湛水」による保水効果や水の浄化作用は環境問題を救う役目もするというのは、興味深い。この、害虫も益虫もいる中で育つ稲の野生化を、岩澤信夫さんが指導している番組がNHKであった。全国で200件の農家が試みている。肥料としては、米糠を使う。実際こうしてできた稲は、冷害に強く味もいいが、雑草の問題、収量の問題はあるらしい。これをトキの野生化のプロジェクトと絡めて実地している佐渡では、10ヘクタール600俵、つまり、一反で6俵とやや少なめだ。私の家では1反で悪くて8俵、多い年は10俵くらいである。岩澤氏の「稲の野生化」の発想は、武術家・甲野善紀氏が「古武術」に求める人間にとっての切実な問題を端的に扱う方法、と通ずるものが多い。

合鴨農法にしろ、不耕期栽培にしろ、生物の多い昔ながらの自然な田んぼを目指すわけだ。そもそもメダカ属(Oryzias)の名の由来はOryza sativa (稲の学名)にちなんで付けられたくらいなので、メダカのいる田んぼが自然な田んぼなのであろう。そして、よく言われることが、収量は多くはないがとにかく楽しんでやれるということ、これが一番だ。 現在、手間暇を惜しまない心意気のある方によって広められる試みであろうが、こういったことこそ行政がバックアップすべきだと思う。しかし、以前の食管法による(逆ザヤ現象が起るような)金の与え方は、人間を駄目にし何も生まない。(日本の海外援助のやり方のなかにも見ることができる。)

これは国の愚策の典型だと思う。旧食管法は「高く買い上げて、安く売る。」方式であった。一時期は非常に有効に機能もし、意義もあったと思うが、それを政治家や役人が、結局は己のために利用して、「 金を与えたが、プライドを奪ったわけである。」本来、 「法」を与えねばならない。百姓はなにより創造的なわけで自ら「法」も模索するのだから、そのためのバックアップ少し手伝えばよいのではないだろうか。第一、水の保全、浄化、環境維持など様々な効果を考えれば、米作りの社会への貢献は年間10兆円に相当するという試算もある。もちろん、棚田のような芸術的・美的景観を多くの人々に与えていることも見逃せない。ずっとそこに住んでいると気づかないが田んぼのある田舎に住むことは、散歩道の沢山ある公園の中に住んでいるようなものだ。英国では、村に散歩道があることが住みやすい町の条件として重要だ。多くの子供たちが将来は農業をやりたい、百姓になるのが夢だ、と答えるような国づくりをすべきだと思う。

どこかの百姓が言っていた。自給自足の為に必要な「百」の方法を身に着けた者を百姓という、自然の理を知り、本当の知慧を持つ者を百姓という、どんな状況の中でも正しく生きて行ける者を百姓という、「生命のいとなみ」を知る者を百姓という。
(2002/10/06,2003/12/24改)

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