日系半魚人日記
前田 司郎 ゴキブリは嫌いだ。 今日の朝、悲しい物を見つけた。巣だ。 掃除などしなければ良かった。今思えばどうしてだろう、なぜか本棚の上の辞書のケ−スが 気にかかった。 背中がかゆい時も、気になりだすとかゆくてたまらない。世の中は意外とそうゆう事で出来て いるのかもしれない。 僕は今日、家を出た。 ゴキブリはいつから辞書のケ−スを家にしていたのだろう。 ポケットには千円札が二枚と小銭がいくらかあった。お金は、僕の太股から汗を吸って少し 湿っていた。 山手線に乗った。田町で降りて、モノレ−ルに乗った。 海が見えて来る。 景色が気に入ったので、次の駅で降りた。 駅は親子連れで満ちていた。自動改札は開きっぱなしだった。久々にこれだけの数の人間 を見た。 人間もゴキブリも基本的には、生きて増えるだけの存在だ。 子供の泣き声が癪に障り始める。そのなかでも目立ってうるさい子供を殴ってみた。 子供は黙った。床に倒れて、しばらく音を出さなかった。花瓶を落とした時の事を思い出す。 子供が泣き始める。周囲が騒がしくなって来る。親達が徐々に、僕を囲い始める。口々に何 かを叫びながら。 父親の一人が、僕のウロコを指差して大声をあげた。うるさいので殴ってやった。 五、六人の父親が僕に絡み付いて来る。僕は首の所から、ぬるぬるの液体を出した。首にし がみ付いていた父親は、恐れをなして飛び退くと、アロハ・シャツにしみついた僕の体液を、指 で触っていた。 色とりどりの花がプリントされたアロハに、短パン。その夏休み丸出しの格好に、妙に黒光り する革靴を合わせている。そんなセンスの人間に、首から体液を出せるくらいで恐れてほしくな い。 駅員が人垣をかきわけて近ずいて来る。父親達、母親達は、一斉にいきさつを語り始める。 子供達は、僕に敵意の目を向けた。アロハ・シャツは、僕の体液が如何に生臭いかを訴えてい た。 駅員室に連れていかれる。 偉そうな人と向かい合って座らされる。革張りの素敵なイスだ。周りの人間は興味深げに見 つめている。初めてのデ−トを思い出した。 背の低いそばかすの女の子が、お茶を持って来てくれた。僕はお礼を言って、一口飲んだ。 女の子は一瞬戸惑ったが、ニッコリ笑って会釈してくれた。 お茶を飲み終えると、さよならをしてドアの方へ向かう。駅員達は取り乱して、まだ話の途中 だと言った。随分自分勝手な事を言う。 窓の外は海だった。 偉い人が急に怒りだす。 海は静かだった。小さな波の連なりは、生まれた数だけ消え、消えた数だけ生まれ、地球上 の海という海を被い尽くしている。 偉い人が机を叩く。聞いているのかと机を叩く。 この人は波を生もうとしているのだろうか。机の上に生まれた波は一瞬で消え、もう一度生ま れようとはしなかった。ゴキブリは生まれ、増え続けている。ひかえめな波は決して増えようとし ない。僕は。僕が消えたら、新しい僕が生まれるのだろうか。僕は増えたいと思わない。 偉い人が僕を叩く。駅員達が偉い人を止める。 この人間達は増え続けるだろう。増え続けて最後には、辞書のケ−スに巣を造るのかもしれ ない。それを見て、また誰かが家をでるにちがいない。 僕は窓から海に飛び込んだ。 周辺の人間が僕を見る。指差す。怒る。笑う。石を投げる。僕はそのまま沖に向かって泳ぎ 始めた。 海の底に潜って空を見上げる。海水を通して見ると、太陽までが涼しげに映った。 しばらく泳ぐと、一匹の若い魚がついて来るのに気付いた。一人で泳ぎたかった。スピ−ドを 上げる。魚はけなげについて来た。 魚は、陸が見たいと言った。 陸には何もない、僕は言った。 それでも陸が見たい、陸を見せてくれるなら私を食べてもいい、そう言った。 僕にはその場で魚を鷲づかみにして、頭からかじる事も出来た。が、そうはせずに、なぜとた ずねた。 魚はただエラから海水を出すだけだった。 僕はもう一度、なぜとたずねた。 見た事がないから、魚はぽつりと言った。 僕等は陸に向かって泳ぎ出した。海面すれすれを泳ぐ。照り返す太陽が、海水と僕の体を暖 めた。 増えようとは思わないのか。 増えたいとは思わない、唯見たい、と魚は僕を見ずに言った。 頭上で鳥の羽音がうるさい。海面から顔を出して泳ぐ。防波堤が見えて来る。波が顔を撫で る。僕は船着き場から陸に上がった。日は落ちかけていた。 魚は海の縁で僕を待っていた。 濡れた裸足に、熱いコンクリ−トが心地よい。 見せて下さい、どうしても見たい、陸が見たい。どう歩くのか、どう走るのか、見たい。 僕は、殺したくなかった。 陸に上げてくれ。見せて下さい。 水掻きのついた手を合わせプ−ルを造った。小さな水溜まりだったが、この若い魚には充分 な大きさだった。 魚は僕の手の中から、その無表情な目を陸に向けた。 僕の手からは水がこぼれ続ける、陸に上がった魚は死に続ける。 魚は口を開閉しながら陸を見る。魚の銀色は夕陽に照らされて、見た事もない美しさだった。 魚の目に映る船着き場の景色は湾曲して歪み、その湾曲した瞳が景色を懐かしく物悲しい物 にしていた。 手の中の水が空になる。 魚が何か囁く。耳を近ずける。 水に戻してくれ。 僕は魚をコンクリ−トの上に置いた。 乾いたコンクリ−トが魚の水分を奪う。 魚は跳ねまわって、体を傷つけながら、目は唯海だけを見ていた。鱗が飛び散り、一つ一つ が海に沈む太陽を映していた。 濡れた体の僕は、本屋に立ち寄って新しい辞書を買った。 店員は海水に濡れたお金を、笑顔で受け取った。 −完− |