――十五の夏、浅羽夕子は髪を切りたいと言い出した。



 兄の手で、ある。
 もちろん兄は快諾した。
 そんな訳で、浅羽夕子は実に五年ぶりに兄である浅羽直之に髪を切っ
てもらうことにした。夕子はもちろん五年前のあの散髪を今日まで忘れ
ずにいたのであったが、兄の方は案の定妹の髪を切ったことなど、綺麗
さっぱりと忘却していて、「髪の毛切るの、初めてだね」などと笑いな
がら言ったものだった。こういうところがどうしようもないと夕子は思
うのだが、そもそも五年前のそんな些細な事を後生大事に覚えている自
分の方が相当なものだ――などと彼女は決して思わない。

 伊里野加奈が転校≠オてから二年が経った。

 たった二年で子供のようだった夕子の体つきは見る見る内に大人びた
それへと移り変わり、服とブラのサイズは立て続けに大きくなり、値段
もそれに比例するように高騰し、だが何よりも夕子が「大人になった」
と家族に認められたのは、どんなに慌てても大声を出していても「ほ兄
ちゃん」と浅羽を呼ばなくなったことだろう。
 今では兄のことを夕子は普通に「お兄ちゃん」と呼ぶ。実のところ、
浅羽は夕子の「ほ兄ちゃん」という呼び方がくすぐったいながらも好き
だったので、これは結構残念に思えた。
 夕子は今でも少林寺拳法は続けている、さすがに受験が近付くにつれ
て道場へ行く回数は減少しつつあるが、それでも突然自分に抱き着いて
きた痴漢を急所蹴りで撃退できる程度の腕前ではあるようだ。

 勝気なところはあまり変わっていない。
 ただ、兄に対する態度だけは、あの夏の頃から次第に神妙になってい
た。何をするにしても逆らっていたことが嘘のように。夕子からすれば、
その頃の方が嘘だったのだと思っている。
 一度だけ、兄と話していて、ひょんなことから新聞部の話題が出た時
に、彼女は恐る恐る晶穂ではないもう一人の女性部員について――つま
り伊里野加奈について尋ねてみたことがある。
 兄は曖昧に言葉を濁し、目を窓の外の星空に逸らした。それで答えは
充分だった。以後、夕子は伊里野加奈の話題を禁句(タブー)とした。
 それ以降、兄に彼女ができた、という様子はなかった。モテないだけ
かもしれない、伊里野に酷い振られ方をしたせいで、女性恐怖症にでも
かかっているのかもしれない。それとも、伊里野加奈のことをまだ忘れ
られないのかもしれない。未練がましいと思う。
 でもまあ、夕子にとって彼は兄で、いつまでも兄だから、自分にとっ
ては何も変わらない――と彼女は思っている。


「終わったよ」
 そう言って浅羽は鋏を置き、両面開きの鏡を持って一歩後ろへ退がっ
た。夕子はゆっくりと前髪と鏡に映る後ろの髪を何度か見て、手で触り、
そして一言。
「うん」
 これでよし、という合図に首を縦に振った。
「お疲れ様」
 浅羽はそう言って、夕子の前掛けを取り払った。それでも否応なしに
ついてくる髪の毛を夕子はぱたぱたと手で払って、立ち上がった。
「お兄ちゃん、ありがと……じゃあ、行って来るね」
 夕子がそう言いながら、浅羽理容店のドアを開けた途端、夏の日差し
が浅羽の目を射し――。
 刹那、浅羽は其処に幻影を視た。
「伊理――」
 幻影は幻覚に過ぎず、浅羽が視たのは夢幻に過ぎない。

「どうしたの?」
 声を聞きつけたのか、ドアに手を掛けたまま夕子が振り返る。浅羽は
「何でもない、いってらっしゃい」と言い、夕子は笑顔で頷き、浅羽理
容店を飛び出して行った。
 去年の夏もこうだったのだ、夏がやってくると、どうやったっていつ
もこうなってしまう。夏の日差しが眩しいせいで、目を開けていられな
いせいなのだろうか。それとも単にあの二年前の鮮やかすぎるほどの色
彩を持つ記憶を思い出すからだろうか。
 抜けるような蒼空、
 綿飴のような白雲、
 身も凍りつくような暗闇、
 それから――。

 白い髪の、泣き顔の少女。

 結局のところ、いくら夏が終わってからといって、何もかもの決着が
ついたからと言って自分の心までも騙しとおすことは不可能なのだ。浅
羽は伊里野のことが好きだったし、今でもそれは変わらないし、これか
らも、多分これからも変わることはないだろうと思う。
 思いたい、と浅羽は考える。


 卒業式の日、浅羽は須藤晶穂に告白された。
「浅羽のこと、好きだった」
 過去形だった。続けざま、
「伊里野のこと、まだ好きなんでしょ?」
 浅羽はゆっくりと頷いた。丸二年続いた晶穂の恋はその浅羽の頷きだ
けで、あっさりと終わりを告げた。晶穂は泣いたりせずに、むしろそれ
が当然だという風に、告白を受け入れた。
「ごめん」
 浅羽がそう言うと、晶穂は指で軽く浅羽の額を弾いた。呆気に取られ
る暇もなく、すぐに背中を向けて走り、校舎の角を曲がる寸前に一言。

「ばーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーか!」

 浅羽の視力は悪い方ではなかったけれど、さすがに晶穂がその時目尻
に涙を浮かべていたことまでは判らなかっただろう。ともかく
 気持ちいいほど振られっぷりを見せた晶穂は浅羽とは別の高校、もっ
ともっと遠い場所の高校へ進学した。水前寺は晶穂出立の日、彼女のカ
バンによかったマークを山ほどつけた。それに感動した訳では決してな
いと浅羽は思うのだが、ともかく晶穂は水前寺にしがみついてわあわあ
と泣いた。
 島村清美も、それにつられてわあわあと泣いた。
 西久保と花村も目尻に涙を浮かべていた。泣かなかったのは、水前寺
と浅羽の二人だけだ。
 それ以来浅羽は晶穂とは逢っていない、数度の手紙のやりとりもすぐ
に途絶えてしまった。でも、元気でいることだけは間違いないだろう。
 もし、晶穂との別れの場に伊里野がいたら、伊里野も泣いただろうか。
 きっと泣いたに違いない、と浅羽は思う。伊里野は割と涙脆いと思う。

 閑になった。

 客待ち用のソファーに座り、天井を見上げ、射し込む陽射しに目を細
め、音もなく飛びまわる羽虫の姿をぼんやりと眺める。
 いけない、と思った時にはもう手遅れで浅羽の双眸からぼろぼろと涙
が零れていく。判っている、理屈ではこれ以上ないくらい判っている。
 哀しんではいけない、泣いてはいけない。男だからなんてどうでもい
い理由からではない。浅羽は楽しまなければならないのだ。人生という
ものを、世界というものを。
 多分、多分それが――彼女の望んだことだから。
 それでもあの夏が終わって、秋が来て、冬が来て、春が来て、また夏
が来ても尚、浅羽にぽっかりと穿たれた穴は塞がった試しがない。そし
てこうして、時折浅羽に強烈な虚無感を喰らわせる。

 目を閉じた。何も考えないように努力する、いっそ眠ってしまえばい
いと思う。猫型ロボットが出てくるアニメの主人公のように、三秒で幸
せな顔をして眠ることができたら、どんなに幸せなことか。
 ……。
 ……。
 ……。
 三秒では無理だった、彼が眠るには十七分三十二秒必要だった。

 ところで話は変わるが、夕子が出ていったきり、今の浅羽理容店には
浅羽以外には誰もいない。浅羽父も浅羽母も理容店の共通休日であると
いう月曜日をいいことに、二人で出かけてしまった。
 つまり、ドアの向こうには「本日休業」の札がぶら下がっており、ま
してや多少なりとも日本で暮らしてきた人間ならば、月曜日が理容店の
休日であるということは判りきったことであり、つまり浅羽が居眠りを
決め込んでいる時に、浅羽理容店にそろそろと入り込んできた少女はそ
の常識を持ち合わせていないということになる。
「浅羽」
 遠慮がちにそう呼び掛ける。応答はなし。顔を近付ける、鼻息がすぴ
すぴと音を立てる。鼻毛はちゃんと切ってあった。息はカレー臭かった。
 浅羽は、起きなかった。
 仕方ないので少女は座って待つことにした。


 夢と夢と夢を視た。
 最初の夢には水前寺、次の夢に伊里野、最後に校長が出てきた。
 水前寺は浅羽にキスを迫り、伊里野は良かったマークをべたべたと浅
羽に貼り付け、校長は何故か伊里野の声で「だいじょうぶ、へいきへい
き」と浅羽に語りかけた。
 記憶と思い出と願望がごちゃ混ぜで、実に訳の分からない代物だ。
 ――どうでもいいか。さっさと僕を起こしてくれ。
 浅く鋭い頭痛を伴って、浅羽は目を覚ます。はて、自分は何をしてい
たのだろう、頭を振って状況を認識しようとして――呼吸が止まった。
 ぽかんと、だらしなく浅羽の口が開く。全身が弛緩し、末端神経が脳
の「動け」という命令に無反応を示す。立ち上がることすらできない。
 幻影、幻覚といった文字が頭をよぎる。だが同時に圧倒的なまでの彼
女という存在のリアリティがその言い訳を残らず駆逐する。ようやく右
腕に力が篭った。ゆっくりと、必死の思いで立ち上がった。
 そして見た。


 長い髪の、園原中学の制服を着た、伊里野加奈が散髪用の椅子にちょ
こんと座っていた。


 その間も、浅羽の頭にはありとあらゆる疑問が渦巻く。生きていたの
か、生きていたのなら、どうして今まで何も教えてくれなかったのか、
エイリアンはどうなったのか――しかし、どれもこれも今この場におい
てはあまりに下らない質問で、そんな質問をしたら伊里野は不意に消え
てしまいそうに思えた。
 それで、ようやく浅羽が、全身の力を振り絞って放った言葉は、
「やあ」
 という何の変哲もない挨拶だけだった。片腕を上げることすらできず、
ただ、口を動かして「やあ」と言った。伊里野は少し驚いた顔をして、
それから「やあ」とオウム返しに応じた。
 声が、確かに聞こえた。そして、伊里野はいつまでたっても伊里野で、
他の誰かにすり替わったり、掻き消えたりはしなかった。あの夏の、あ
の最後に伊里野を見たあの日を、伊里野を感じたあの瞬間を思い出す。
「いりや……だよね?」
 声が震える、生唾を呑む。よしんば単なる生き写しの線だってありう
る。一番ありうるのは、目の前の伊里野加奈はただの幻覚だという線だ
ろうけれど。
 ようやく伊里野が座る椅子まで辿り着いた。そっと手を差し出す。伊
里野の長い長い髪に触れる。細い髪の感触、忘れもしない、あの時学校
で切った、あの髪だ。
 浅羽は歓喜をどうやって爆発させるか迷いながらちょこんと座った伊
里野を見下ろす。伊里野は逆に浅羽を見上げて、
「髪」
 そう言いながら自分の長く伸びた髪を指差した、一発で浅羽は伊里野
が何をして欲しいか理解する。櫛を持ち、伊里野の髪をそっと梳かし始
める。けれど、手が震えて仕事にならない。
「ごめ……やっぱり、だめ……」
 櫛が手から滑り落ちた。涙腺が完全に決壊する、涙がとめどなく溢れ
出す。今の浅羽にできることは、ただ頬を拭うだけだ。伊里野は不思議
そうに浅羽の頬を撫で続ける、「痛い?」「ちがうよ……僕は、僕は、
ただ……」やはり言葉にならない。伊里野はただ頬を撫で続けるだけ。


 その後、改めて浅羽は伊里野の髪を切った。長い髪の毛を、一緒に逃
げ出した時のように。ただ、あの時は白かった髪に、今はちゃんとした
色がある。それが浅羽には嬉しかった。
 浅羽は同じ位に髪の毛を切った、伊里野は気持ちよさそうに目を閉じ
ている。
 夕子と浅羽の父と母は窓の外からそっと二人の様子を窺ってい
た。三人で顔を見合わせて、ニヤリと笑う。悪魔の笑み。
 三人は買い物から帰ってきてまたもや買い物へと出掛けて行った。
 夕子は戻ってきて伊里野加奈がまだ兄といたら、こっそりとあの時ひ
ねり出したあの質問を投げかけるつもりだった。
「毛、生えてた?」


 そんな風に、伊里野加奈はひょっこりと帰還を果たした。


 それから。
 何時の間にやら、校長も浅羽家に舞い戻っていた。校長は日がな一日
浅羽家の屋根に寝そべったり、伊里野にお腹を擦ってもらったりしてい
る。いつかまた、ふらりといなくなるかもしれないけれど。浅羽はそれ
でいいと思っている。



                               <了>



























<あとがき>
 一応「取ってつけたような」ハッピーエンドを目指してみたんですが、
いまいち上手くいかなかった模様。とは言え腐らすには勿体無い(貧乏
性)なので、一応公開しておきます。

「イリヤの空 UFOの夏」についてはあのエンディングで納得いくよ
うないかないような、そんな複雑な気分です。四巻使われても、まだ物
足りぬ。もう少しだけ、伊里野加奈と浅羽直之がいる世界を読んでみた
かったと。多分、それが一番の不満な気がします。






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