――目覚めればなんてことはない朝だ。 昨日からバレンタインバレンタインバレンタインと誰も彼もがやかましく、 すっかり意識してしまっていたが、朝はいつもの通り、何も変わらない。 今日も普通に仕事、そのはずだ。 「……そのはずだよなあ」 相良崇は着替えて髪を整えつつ、そんなことを呟いた。だが同時にどこかに 期待感が沸き上がるのは否定できない。 自室のドアを開く、どうやら今日は長い一日になりそうでまったく――。 外の空気はひんやりと心地よかった、ついこの間まで刺すような冷気だった せいか、このくらいの冷たさでも何だか温かいように感じられる。気合を入れ て両頬を張った。 「うーし、今日もやるか」 相良崇一日最初の仕事は庭の朝掃除である。軽い運動も兼ねたこの仕事は結 構気に入っている。今日も今日とて随分と枯れ枝や枯葉が広範囲に渡っている ようだ。 鼻歌混じりにそれらを箒で掃き、塵取りで掻き集める。しばらく頭をからっ ぽにして作業を行っていたが、一人のメイドが「お〜い」と言いながら駆け寄 ってくるのを見て動作を止めた。 ――あの乳の揺れっぷりは。 「マリア、ういっす」 「チース!」 おおよそ女らしからぬ挨拶をかましながらマリアは手を振った。右手には何 やら綺麗な紙に包んだ箱のようなもの。 ――あ、もしかしてもしかして。 「義理チョコだよ〜、葛城家メイド一同からはいどうぞ!」 ガクン。 ちょっと期待をしただけに、失望が大きい。だが一方でそこはかとない嬉し さも感じるのがまた情けない、なにしろ誰かにプレゼントを貰うというのもま た久しぶりなもので。 「あー、ありがと」 頬の緩みを抑えながら、わざとぞんざいに受け取る。 「なあに、嬉しくないの?」 マリアの質問に相良は勤めて無関心を装った。 「べ、別に嬉しくも哀しくもないっ」 思い切り無駄だった。マリアはニンマリと笑い、 「手、貸して」 と言いながら相良の手を両手で握り、突然その魔乳の谷間に突っ込ませた。 わずかに脳内に漂っていた眠気が遠い星の彼方へぶっ飛んだ、一瞬遅れてマ シュマロとゴムの中間ほどの柔らかい感触が掌に伝わる。 「……」 「……」 相良崇はパクパクと酸欠寸前の金魚のように口を開くが言葉にならない。 頭が回らない、思考は交錯し、乳の柔らかさに脳が犯される。 マリアはさらに相良の腕を奥に差し込む、ゴリ、と突然硬い感触。ちょうど 乳と乳の間に挟んであったせいかどことなく生暖かい。 「はい、どうぞっ」 そう言って一気にマリアは相良の腕を引っ張り出した。すぽん、と抜け出る 腕、そしてその手にしっかりと掴まれた細長い包み。 「……なんじゃこりゃ」 「いやだねぇ崇ったら! チョコよ、チョコ!」 唖然、呆然。 いや、チョコは分かった。大変物凄く良く理解した。だが、一体全体今の渡 し方はなんなんだ。いや良い思いをしたのは確かだけれども! あの感触は忘 れ難い、思わずマリアの胸を凝視する。 視線に気付いたマリアが頬を染めて、胸元をぎゅっと両腕で抑えた。しかし それは余計に相良の劣情をそそる仕草でしかない。顔が途方もなく緩みかけ― ―。 「な・に・し・て・る・ん・で・す・か・? 相・良・さ・ん!」 一瞬で引き締まった。 振り返ればそこには修羅のご面相をした湯浅七海が立ちはだかっていた。 一体全体いつのまに自分達の背後に回っていたのだろうか。ちなみに正解は マリアが相良の腕を自分の胸元に滑りこませてからであり、つまり二人のたわ けた所業をほとんど最初から最後までバッチリ目撃していたことになる。 「な、七海!?」 「七海! え、いや、その、あの、これはだな、ええと……ぎ、義理?」 思わず背後のマリアに問い掛ける。相良は当然合わせて「そうよ、義理よ義 理」と軽く流してくれるものと思っていた、マリアはそういう関係のはず、だ った。 「違うよ、本命チョコ」 相良は開いた口が塞がらない。だが、当のマリアは日頃の屈託無い笑みを棄 て、真摯な表情でじぃっと相良のおどおどした瞳を見据える。 「ほ、んめい?」 「うん」 マリアは頷いて、ゆっくりと息を吸って――。 「はぁ……」 と吐いた。すると不思議なことに一瞬でマリアはいつもの笑顔に戻った。 「という訳で私の出番は終わりっ。じゃ、七海もがんばってね」 と、何とも訳の分からないことを言った。なんじゃそりゃ、と思っていると マリアは背中を向け、あっという間に走り去って行った。 「……」 「……」 「あ、ハハ……マリアのやつ、どうしたのかね――」 「相良さん」 「あ、はい、何でございましょう」 思わず丁寧語。それほど七海の声は迫力に満ちていた。あれだけ破廉恥な場 面(腕を服の中に突っ込む……そー言えば、マリアノーブラじゃねぇか!)を 見られた後では、何をどう言い訳しても無駄だろう。 ちらりと七海の顔を見る。 だが、彼女は相良を無視し、すぅはぁと浅い呼吸を繰り返しながら胸に手を 当ててぶつぶつと何事かを呟いている。 「……?」 耳を澄ます、七海は「がんばれ、がんばれ……」と自分を励ましているよう だった。気のせいか能面のようだった表情に熱が篭り始める。 「あの、七海?」 「はっははははははいっ、やだもう相良さんいたんですかっ」 いや、ずっとここにいたじゃないか。というのは果たして無粋なツッコミな のか、それとも正しいツッコミなのか。しばし悩む。 ともかく七海はようやく相良を見た、お互いの視線が絡んだ。七海は手に持 った綺麗に包装された箱を差し出し――。 「あの、これ、よかったら、その、あの、マリアさんの後で申し訳ない気もす るんですけど、えと、チョ、チョ……」 「イタリアの……」 国会議員、と言おうとして相良は非常に親父臭い気がして止めた。どうやら マリアの乳に相当毒されているらしい。くそ、眼を覚ませ相良! 「チョコレート……なんですけどっ!」 ガン、顎に割と重みのある衝撃。くらっと意識が遠のく。七海の悲鳴。そし て顎に当たった箱からチョコの匂いが漏れた。その匂いに触発されたせいか、 ギリギリで現世に踏みとどまる。 「ご、ごめんなさ――」 「チョコレート?」 「…………………………………………う、ん」 顎がほんの少し(いや、凄く)痛かったが、我慢する。七海がしおしおと頬 を染めて俯いている仕草はとても可愛らしかった、同時にこのチョコレートが ただならぬもの――少なくとも義理ではない、ということを思い知らされる。 相良も真面目な表情で、実に神妙にそれを受け取った。というか、顔を緩め ていいのか、躍り上がって喜べばいいのか悩んだ末でのことだったが。 ともかく、深呼吸一つ。 「あ、あ、あ、ありがとう、うん」 それでも普段のように気さくに声をかけることができなくなっている、ぎく しゃくした手でそれを受け取り、マリアから貰ったチョコと一緒に持つ。 「あの……それ……手作りで……」 え、と驚いて七海のチョコを見直す、とは言えシンプルだが綺麗な紙包みか らは中身が知れようもない。 「えと……ですから……その〜……」 ううう、と七海が呷く。痛みが走ったように頭を抑える。 「だ、大丈夫?」 「…………だ、駄目だぁ〜……全然分かってないよこの人ぅ〜〜」 庭の片隅でいじける、指をのの字に描いて現実から逃避する。だが相良はポ カンとしたり、七海を慰めたりと――それはそれで嬉しいのだけど――実に分 かってない行動を繰り返すばかりだ。 ――まったく。 とんでもない人を好きになったと思う、とんでもないにぶちんを好きになっ てしまったのだと思う。それはそれで朴訥なところが魅力的、と言えなくもな いが――。 「限度がありますよね、全く」 七海はため息をつき、きっと相良を睨んだ。怯む相良。詰め寄る七海。 叱責されるかという一瞬の予感。 「相良さんっ、わたしのそのチョコ、本命のチョコですから!」 そう言うなり、マリアと同じく相良から背を向けて駆け出して行った。 相良は呆然とする。 「ほ、本命?」 これは、その、そういうことなのだろうか。チョコが、本命ということは、 その、やっぱり、どう考えてみても、だ。 愛の告白……だよなぁ。 しばし茫然。 まず彼が何よりも第一に思ったことは。 「なんで?」 という七海に対して実に失礼極まりない質問だった。 だがしかし、相良崇は本気である。本気でなんでまた自分に本命チョコを渡 したかどうか疑問に思っている。 鏡で自分の顔は毎日見ている、別に醜男とまではいかないが、それほど目立 つようなツラ構えではないことを自分でよく自覚している。 女の子との話術が上手い――訳でもない、一番親しく話すマリアは別として、 七海とは、ある程度仕事場でのお付き合い――という感じでしか話したことが なかったはずだ。 たぶん。 自身ではそう思っていたが、ひょっとして七海はそんな些細な会話で自分に 惹かれていったのかもしれない。むう、大した話をしたつもりはないのに。 乙女心というやつは、男には永遠に理解し難いものなのだろう。 たぶん。 ――くそ、「たぶん」ばっかりで全然ちっとも話が見えてこない。 大きく深呼吸、そして手渡された二つのチョコレートを見る。どちらも渡し た当人曰く「本命」チョコ。 ……この場合の「本命」チョコとは果たして女性が対象の男性に好意的感情 を抱いていて、それを洗いざらいぶち撒けるために渡すチョコレートのこと、 と認識していいのだろうか。 もしかすると、葛城邸では「ちょっと仲が良いから他の人より差をつけてあ げよう」程度の認識なのかもしれない、うん、きっとそうだ。 はっはっは、万事解決。 ――する訳がないのだろう。 とりあえずチョコレートを自室に持っていこうとして、館の中に戻った途端、 いきなり大量に舞い込んできたチョコレートを片っ端から受け取る羽目になっ た。 「相良くん、よかったらこれ食べて!」 「相良さん、これ差し上げます!」 「相良! ええと、ほら、これ!」 メイド達から、そんな台詞と共にチョコレートが差し出される。紅い頬、潤 んだ瞳。ますます困惑する、何かの罰ゲームではないかとふと思う。 からかわれているのではないか、と。 しかし、それを問うと自分の立場が極めて不味いことになりそうだったので、 そう問い詰めたくなるのをぐっと堪えた。とりあえず山のようなチョコを抱え ていざ自室へ。 「……あれ?」 ドアがわずかな隙間を開けていた、おかしい、出るときはちゃんと閉めたは ずなのに。誰か、用事でもあったのだろうか――? そんなことを考えてドア を開くと、中には。 誰かがいた。 「……?」 ベッドが思い切り盛り上がっている、不審すぎる。チョコをそうっと机の上 に載せ、それからゆっくりと忍び足でベッドに近づく。 一歩。二歩。三歩。 まるでコメディ映画の登場人物のようなおっかなびっくりな足取りで、相良 はベッドまで到達した。そっとシーツを剥ぎ取る。 唖然とした。 「奥……様……?」 十羽子が丸まって眠っていた。 「くー…………」 安らかな寝息、てっきり部屋を間違えてしまったか、と思ったがすぐに自分 の部屋であることを確認する。いや、少なくとも十羽子の寝室はこことは明ら かに内装が違うのだから間違えようがないだろう。 となると、忍びこんでベッドに潜り込んだのは十羽子の意志だということだ。 「あ、これ――」 十羽子が片手に包装紙に包まれたものを握り締めていた、そっと顔を近づけ て匂いを嗅ぐ、紙の無機質な匂いに混じってわずかながらチョコが香った。 「……チョコレート、か」 ああ、と相良は納得した。恐らくこのチョコを自分に贈るにあたって十羽子 は驚かそうとベッドに潜り込んだに違いない。 しかし、ベッドの魔力に効しきれずゆっくりと眠気が襲ってきて、抵抗した ものの、最後には眠気が勝ったと。 もしかしたら日頃から疲れていたのかもしれない、当主代理というものは彼 女の躰に想像以上に疲労を蓄積していたのだろう。 ――うう。 相良は軽く呻いた。なんというか自分のベッドに妙齢の美女が安らかな寝息 を立てている姿は想像以上に“くる” ものがある。 艶やかな唇に眼を奪われる。ゆっくりと上下する豊かな胸にどぎまぎする。 ほんの少しスカートから晒し出された太股に脳がクラクラする。 ――いけない、 そう相良は思う。なんというか背徳的な気分が増幅し、今すぐにでも服をル パン(勿論一世ではなくその孫)のように脱着して飛びかかりたい。 それはいかにも不味い、不味すぎる。 けれど。 そうかと言って起こすには、あまりにも彼女の姿が愛らしすぎた。 愛らしい? 凄く失礼なことを考えている、と相良は思った。仮にも自分の主たる女性に 対して愛らしい、というのはあまり褒められた表現とは言えないだろう。 しかし、一方で無防備すぎる十羽子に劣情というか、いわゆる“萌え”的な 感情を抱いてしまっているのもまた事実だ。 硬直する。 一歩迫ったら取り返しのつかないことになりそうな気がする。 一歩後退したらなんだかすごく勿体無い気がする。 なんというか、困る。 行きつくところまで行くべきか、素直に安穏とした日々に戻るか。 全身が油の切れた機械のようにぎくしゃくする。 「ん――」 シーツを引っぺがして寒くなったのか、十羽子が顔をしかめた。 「と、とりあえず……シーツだ」 足のところまでずれたシーツを肩まで引っ張り上げる。 「……ふー」 全身が隠れた途端、妙に落ち着いた。とりあえず、自分は何も見なかったこ とにして去るのが賢明だと思う。 うん、そうしよう。 足音を立てずに抜き足差し足で後ろへ、後ろへ、後ろへ――。 「相良さん、いる?」 心臓が潰れるかと思った。 「は、は、はい!?」 「わたし、樹里ですけど……今、お暇ですか?」 「あ、ちょ、ちょ、ちょっとお待ちをっ」 頭でバケラッタがメカラッタと飛び跳ね捲くる、ワンワンパニックだ。 もし、もし、こんな状況で部屋に踏み込まれたら目も当てられない。 (無実なのに、美味しい思いなんて全然してないのに) とりあえず、この危機的状況(バイオハザード)にも関わらず、ぐーすやら ぴーと寝ている十羽子の頭までをすっぽりシーツに被せる。 ――うむ、これでよし! 全然よくなかった。見た目いかにも何か入ってますよ、性別不明生死不明の 生ものが入ってますよ、といった按配である。 だが、とりあえず部屋に入らせなければギリギリごまかせそう、な気がする。 「今、開けます」 深呼吸、万が一の時に勘繰られないように服装を念入りにきっちりさせてお く。十羽子の性格を樹里はよく把握している、きちんと言い訳できれば何とか なるだろう。 「ええと、何か御用でしょうか?」 「うん、ちょっとね……入ってもいいかしら?」 そ う き た か 。 我が身の不運に泣けて来る、こんな時でなければ大歓迎なのに。 「ええと、その……」 「あら」 樹里が顔を曇らせた。 「ダメかしら?」 反射的にぶるんぶるんと首を横に振った。 「いえ、ダメじゃないです!」 バカだ、バカだ俺は。そう思いつつドアを開き、樹里を部屋に踏み込ませる。 相良は覚悟した――が、なんたる幸運! 樹里は部屋に足を踏み入れると、ベッドの方まで真っ直ぐ進み、それから相 良の居る方向、即ち背後を振り向いたのだ。 ――これならば何とかごまかせる! ありがとう神様! そうとなれば、相良は樹里との会話に全神経を集中することにした。手早く、 さっと終わらせ、この状況から抜け出そう、そうしよう。 「あの、相良さん?」 「はい、なんでございましょう」 相槌を打つ、樹里は腕に持った小さなブランド物のバッグの中から今日は既 に見慣れ捲くったチョコレートの箱を取り出した。 もちろん何度貰っても嬉しいものだけれど。 「フフ……マリアちゃんや七海ちゃんのように手作りとはいかないけど、割と 奮発したのよ?」 「はぁ、ありがとうござ――」 待て。 ちょっと待て。 “手作りとはいかないけど”……? 「あの、樹里さん?」 「どうしたの? 鳩が銀玉鉄砲食らったような顔をして」 それを言うなら豆鉄砲だ。だがそれより疑問の解決が先決である。 「いや、あの――なんで俺がマリアや七海にチョコ貰ったってこと、知ってる んですか?」 樹里はわずかに目を見開いた。 「あら、もう二人ともあげちゃったんだ。疾いわね〜。他にも貰ったでしょ?」 「ええ、なんか結構……あの、もしかして」 「なに?」 「……俺、からかわれてます?」 沈黙。 沈黙。 沈黙。 ――そして、 「はぁぁ〜〜……こりゃね、みんな苦労するのも無理はないわね」 「え? それってどういう――」 「相良さん」 口を開こうとした矢先、樹里の指先が相良の唇に触れて言葉を押し留めた。 「わたしは、少なくとも真面目な気持ちよ? 受け取ってくれる?」 そう言ってにっこりと微笑まれた、改めて差し出されるチョコを相良は神妙 な面持ちで受け取った。 「ありがとう……ございます」 頬が赤くなるのが相良自身にも分かる。樹里はそんな自分を見て悪戯っぽい 笑みを浮かべた。 「ねぇ、その顔はその――」 「はい?」 樹里が一歩近づいた。綺麗に整った樹里の顔が間近に迫る、色っぽいぷりぷ りとした唇が目を惹き、淡い香水と女の匂いを鼻に吸い込んだ。フェロモンと いうやつなのだろうか? 脳髄がくらっ――ときた。 「私にもチャンスがあると見て……いいのかしら?」 「チャンス?」 何のですか、と言う前に……頬に温かくて柔らかい感触が、ぷにっと。 「〜〜〜〜ッ!?」 樹里は童女のようにあどけない笑みを浮かべ、 「これがチャンス」 と言った。 「……」 この日何度目かの呆然。気付くと樹里は部屋から出て行った、去り際に悠人 の名前を述べていたようだが、相良の耳は彼女の台詞を右から左へと聞き逃し ていた。 ――これが、チャンス。 頬に手を当てた。一瞬だが強烈にインパクトに残る感触が思い出される。 少しだけ頬が緩む。 「見〜て〜た〜わ〜よ〜」 氷結。 ギギギギギ、と機械仕掛け(しかも油が切れてる)の人形のように首を回す。 シーツから恨めしそうにも関わらず、どこか楽しそうな声。 十羽子が、目を開けていた。 「奥様! いやあのですね、これはですね、そのですね、う、えーと、その」 「言い訳無用だわ〜、あ〜んなことをしておいて」 「されたんですけど……」 「拒まなかったじゃな〜い」 拒める状況ではなく、拒める速度ではなかった、と弁解したかったがどうや ら言い訳は無用の状態のようだった。 「樹里さん、抜け目ないな〜」 ぶう、と膨れっ面をしながら――いや、子供っぽい表情のそれがまた十羽子 にはぴったりと似合っていた――彼女はチョコを齧っている。 チョコ? 「あ、あの、奥様、それ――」 「これ?」 口に咥えたチョコを指差す。 「はぁ」 曖昧に頷く。十羽子はニンマリと微笑んだ。 「欲しい?」 「それは――」 もちろん欲しい。 「でも、相良さんには樹里さんのチョコがあるのよねぇ〜」 どうしようかな、という風に十羽子は悩むふりをする。相良はそれが十羽子 のフェイクだと半ば看破していたものの、どうすることもできない。 うう。 「奥様の……チョコは……その……奥様で、樹里さんは……樹里さんですから」 しどろもどろにそう言うと、十羽子はうわぁい、と歓声をあげてベッドから 抜け出し、相良の躰に両腕を絡ませた。 「と、十羽子様!?」 ――もうちょっと他に喜びを表現する方法はないんかあんたはぁ! 怒鳴りつけたくなったが、十羽子が口に咥えたチョコをぐっ、と近づけるの を見てまたもや硬直する。 「ふぉひぃ?」 どうやら「欲しい?」と相良に尋ねているようだ。 十羽子の咥えているチョコは一口サイズの板状のチョコで、それを口でひら ひらと動かして相良を挑発する。 ほとんど――迷わず相良は頷いた。 ゆっくりと十羽子の顔が近づき、相良の口にチョコを当てる。 (これを……噛めってことだよなぁ……やっぱり……) 熱に浮かされたように、相良は口を開けてチョコを咥えた。口腔に硬いチョ コが侵入する、外気に晒されたばかりのせいか、チョコはほんの少し冷たかっ た、十羽子はゆっくりとチョコを相良の口に侵入させる。 (……!) 途中から、チョコの温度が明らかに高くなっていた。おまけに硬かったチョ コが歯で咥えるとぬらり、と溶けるほど柔らかくなっている。 間近の十羽子の目を見た。彼女はほんの少し目を潤ませ――といっても悲し んでいる訳ではなく――明らかに愉悦に浸っていた。 チョコを完全に押し込んで、十羽子は甘いチョコの息を吐いた。 「ね……もっと……欲しい?」 相良は頷こうとした。 見栄も外聞もなく、矢も盾もたまらず。 だがしかし、脳裏にふっと、突拍子もなく、全く関係ないはずの映像が挿入 され、相良は動きを止めた。 ――いや……関係……あるのか? 昨日の、紗英香の、あの不機嫌そのものの表情。背中に鬼が貼りついたよう なあの――。 ぞわり。 背中に冷たいものが疾走する。不味い、絶対に、今度こそ絶対に不味い。 なかなか言うことを聞こうとせず、十羽子の唇に近づこうとする自分の躰を べりべりと引き剥がした。 十羽子は、きょとんとしている。 「相良さん?」 「奥様! これやっぱり不味いです! 不味いですって!」 ふう、と息を吐いて一気に捲くし立てた。十羽子は拒否されたことに少なか らずショックを見せていたが、やがて納得したような表情でため息をついた。 「そうか〜、私じゃあ……ダメ、か」 「そんなことはないです! ただ、その、奥様はやはりその、奥様ですし……」 困ったようにそんなことを言う。 十羽子は――ああ、と納得してぽん、と手を打った。 「誰か好きな人がいるんだ〜?」 ギクリ。 先ほどとは違う意味で相良の躰は後ずさった。 「い、いえ、そういう訳では……」 だが十羽子はもはや人の話を聞いてはいない、ふんふんと相良の焦る顔を楽 しそうに見つめ、上の空で何かを考えている。 「誰かな〜、誰かな〜、誰かな〜♪」 すっごく嬉しそう。 おたおたする相良をよそに、やがて結論に行き当たったらしい十羽子はズバ ッと指を彼に突きつけた。 「七海ちゃん!?」 「……ち、違います」 「じゃあ、マリアちゃん!」 「違います」 七海の方は戸惑いながら否定、マリアはキッパリとした否定の仕方だった、 むむむ、この二人は残念ながら没シュート。 「うーん……紫苑ちゃん?」 「いえ、それも違います……っていうか、別に好きな人が――」 「樹里さん? 違うわよねぇ、だったら頬にキスされたとき、もうちょっとく らい嬉しそうにするもんねぇ」 「ですから」 「紗英香ちゃん」 「え」 ドキリ。 反射的に相良は手で心臓を抑えた。おまけに名前を言われただけなのに頬も 紅い。 ――ビンゴ。 十羽子は指を鳴らそうとしたがスカッという冴えない音がしただけに留まっ た。 「うっふっふっふっふっふ……」 うわあ、さっきよりもさらに嬉しそう。 「ち、違いますよ違いますよ違いますって――!」 この慌てふためく態度で半ば白状したも同然である。 「なるほどなるほど……分かった! サエちゃんのことは私に任せなさい!」 どん、と胸に拳を当てた。が、ぱうん、と自分の豊かな双丘に押し返される。 「……」 「……」 「……」 「……こ、こほん。ともかく私に任せなさい、悪いようにはしないから……」 いや、なんだろう、絶対に事態が悪い方向に向かう、という確信がふつふつ と沸いてきてしまうこの感覚は。 任せなさい、任せなさい、とまるで何処ぞの政治家のようなフレーズを連発 しながら、十羽子もまた相良の部屋から出て行った。 「……はぁ……参った……」 何というか――最後には押し切られてしまった。 紗英香お嬢様に……あの人は何をする気なのだろう? うう、どう考えても ネガティブな方向に思考が到達してしまう……。 「ふぅ……考えるの、止めるか」 何がどうだろうと一旦ああなった奥様を止める術など存在しないのだ。 気を取り直して紫苑に頼まれていた犬の散歩を片付けようと、相良も部屋を 出た。 *** 「あ」 「あれ」 犬飼育場の手前にあるちょっとした森に紫苑がいた。紐で繋いだ犬を多数引 き連れている。見慣れた光景であるが――。 「今日、別の仕事があるんじゃなかったっけ」 それで昨日の内に犬達の散歩を紫苑に頼まれていたんだけれど。 「あ」 もう一度紫苑は口を開いた。わずかに頬が染まる。 「……忘れてました」 「おいおい、急げよ……散歩は俺が代わるから」 「すいません、よろしくお願いします」 紫苑は義務的に頭を下げ、紐を相良に手渡した。 「急げよ」 「はい……あ、相良さん」 慌ててばたばたと屋敷に向かおうとする紫苑が、ふと思い出したように立ち 止まり、背中を振り向きかけていた相良に声をかける。 「これ」 ビニール袋に包んだ黒い塊を差し出される。 「え? ……あ、これもしかしてチョコ?」 きょとん、と紫苑は目を丸くした。 「この子たちの、うんちですけど」 ……。 ……。 ……。 どうやら今日、相良は相当にチョコレートに毒されているらしかった。 *** 相良の心配をよそに、朝のドタバタ騒ぎを除けばこの日もおおむね平穏に過 ぎて行った。 まあ、何人かのメイドにもチョコを渡されたがどれも大本命でもなければ、 義理でもない、言うなれば対抗馬的チョコだったのは不幸中の幸いと言うべき か、それとも単なる不幸なのか。 紗英香のこと、そして十羽子のことも頭にちらりと思い浮かんだがそれも忙 しく仕事に駆け回っているうちに、次第に薄れていった。 そして夜。 全ての仕事が終わり、あとは部屋に戻ってのんびり、という時に。 「あ、相良さん」 十羽子に呼び止められた。う、と呻き声をあげそうになるがギリギリで咽喉 に飲み込む。 「悪いんだけど、紗英香さんにココア持って行ってくれないかしら?」 「え、俺が?」 「うん、そうっ」 にっこり笑ってお盆を差し出される。カップが二つ置いてある。 「……?」 「あ、七海ちゃんと飲むかも……って言ってたから、念の為二つね」 「分かりました」 「サエちゃんはバルコニーにいるからね」 この寒いのに……と思いつつ、相良はお盆を神妙に受け取った。 この寒い空の下、紗英香はぼんやりと相良崇について考えていた。 「結局……買っちゃったよ」 あのショップで悩みに悩み抜いて、決して義理には見えず、そうかと言って ガチンコに愛する恋人に贈るような超直球チョコにも見えない、大好きな弟と か……あるいは、兄とかに贈るような、そんな感じのチョコだ。 ベタにハート形というわけでもなく、チョコにLOVEという文字が書かれ ている訳でもなく。あくまでシンプルなデザインで、華美ではない。 買って、何となくホッとしてしまった。 七海がそういうタイプだった、試験前日、参考書やら何やらを持ってきて机 の上に並べ、気付けば何にもしてないのに何となく勉強をした気分になってし まっているような。 自分はそうではない、と思っていたが結局のところ自分もそのタイプだった ようだ。チョコレートを買って、何となく終わってしまった。 渡すタイミングがさっぱり掴めなかったのだ、朝はナナだのマリアだのとド タバタいちゃついていたし(ムカ)、昼から夜にかけては仕事であちこち走り 回る彼をとてもではないが呼び止めて渡せそうな雰囲気ではなかった。 夕食が終わって落ち着いた頃に渡そうかと思えば、なぜか十羽子がやってき て、使用人に日頃の感謝を篭めてチョコをプレゼントしてやってはどうかなど と彼女の心臓を握り潰してしまいそうな提案をしてくるし。 あと十分もしないうちに、この本当にばかみたいなバレンタインデーは終わ る。明日からはただの日常が戻ってくるはずだ。 バルコニーの手すりにもたれかかって、 「ばっかみたい」 と呟いた。 「あの」 はぁ、とため息をついて部屋に戻ろうと振り向いたその時、 「紗英香お嬢様、ココアを――」 目の前に今の今まで紗英香の頭の中を占めていた男が突然現れた、……とり あえず悲鳴をあげてみた。 「きゃああああああああ!」 「わ、私です! 相良です!」 片手でお盆を支えながら、相良は慌てて手を振った。 「と、突然間近で声を掛けないでよ、バカ!」 ほとんど逆切れである。 「はあ」 間の抜けた返答をする。 「一度お掛けしたのですが、お聞きになってなかったようなので――」 そう言いながら、相良はバルコニーのテーブルにお盆を置いた。 「あの……ココアは、バルコニーでお飲みに? それとも自室でしょうか?」 「へ?」 ――別にココアを注文した覚えはないのだけど。 「私……ココアなんて頼んでな……」 あ。 あ、あ、あ……あ! 分かった、分かったぞ。 「相良」 う、と相良は呷いた。どうしてか知らないが、自分は酷く紗英香の機嫌を損 ねてしまったようだ。 「このココア、お義母様に返してきてちょうだい」 「え、でも――」 「いいから、そうね、こう言付けておいて。『ホットチョコレートが醒めます わよ、お義母様』ってね」 「あ」 なるほど、と相良は思わず手を叩きたくなった。 ――そういうことだったのね。 「全く……っ」 「畏まりました」 相良は頭を下げ、バルコニーから出て行った。何というか、ホッとした反面、 やはり寂しくもある。 お盆に載せたココアを二つ返すと、十羽子は「ああ、やっぱりダメだったか」 という表情を浮かべた。 「ごめんね〜、大口叩いてやれることがこれくらいしかなくて」 「いえ、お気持ちだけで結構です。本日はもう休ませていただきます」 「……はい、ご苦労様」 「はい、お疲れ様です」 別に肩を落とすでなく、普通に歩いて行く相良の背中を見て、 「やっぱり違ってたのかしらねぇ〜」 などと十羽子は呟いていた。 「……」 ドアの外に、それはそっと立てかけられてあった。メッセージカードを添え て、真っ白な包装に赤いリボンをつけて。 「チョコ……だよなぁ、やっぱ」 時計を見ると、既に時刻は二十三時五十八分を指していた。滑りこみセーフ、 というところだろうか。 部屋の中に誰もいないことを確認し――今日の事があったので念の為――ド アを閉じる、それからメッセージカードを開いた。 『貴方に日頃の感謝を篭めて ――S・K』 S・K……。 一人一人当てはめるまでもなかった、ただ一人、彼女のイメージが相良の頭 にブチ込まれた。 あ――。 想像する、自分がバルコニーから去った後、逡巡しながらこそこそと自分の 部屋の前まで辿り着いた彼女を。そして彼女は二、三回この部屋の前をうろう ろと往復したに違いない。突然の物音にビクつき、足音に焦り、そして部屋の ノブに手を掛けることもできず、マリアのように好奇心旺盛なメイドが既に眠 っていることを心から祈って、扉の前にチョコを置いて走り去る彼女の姿を。 「うわ……ばか」 ばか、と相良は確かに呟いた。俺はばかだ、大バカだ、くそ、何て光景を想 像してやがる、ああちくしょう、もうダメだ、完全に惚れた、完全に葛城紗英 香に惚れてしまった。 「参った」 相良崇は頭を抱えた。 明日からどうやって紗英香と話せば良いのか、明日他の四人にどう返事をす るべきなのか、色々な悩みが頭の上に降り積もる。延長は恐らく認められない。 何はともあれ、差し当たって最初に片付けるべき問題は。 「……どのチョコから食べればいいのやら」 相良崇はそう呟いて、笑った。 <了>
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