Do not wait for the last judgment.
 It takes place everyday.
(最後の審判を待つな。それは毎日起こっている)
                   アルベルト・カミュ


















 真昼の殺戮劇が終わりを告げようとしていた。抵抗していた人間は次第にそ
の数を減らしていき、ゆっくりと太陽が沈んでいくにつれて吸血鬼のざわめき
が止んでいく。
 沈黙。
 太陽の光の最後の一片が地上から消え去り、
「夜が来た!」
 誰かが叫んだ。
「夜が来た!」
 応じて誰かも叫ぶ。
「夜だ」
 誰かは我知らず呟く。
「夜!」
「夜夜夜!」
「夜が来た! 夜が来た! 夜が来た! 夜が来た!」
 拳が突き上げられる、イノヴェルチもミレニアムも全員が陶然としながら空
を見上げる。
 コールタールで塗り潰したような真っ黒い空。沈みかけていたときから既に
彼等の力は次第に強まっていたが、太陽の光の最後の一片が沈むと頂点に達し
た。同時に彼等の興奮も頂点に達した。
 空には黄金の月。吸血鬼が享受できる本来の光。冷たく凍えて寒々しい光。
 空気は彼等の興奮で淀み、そこら中に撒き散らされた人間の屍体が発する芳
しい血の香りが脳内麻薬を高速で分泌させる。

「そう、その通り。夜なのさ、今宵からは昼も夜も我々のものだ」
 政府宮殿地下から地上に戻ったナハツェーラーは、宮殿付近に集まった部下
達をゆっくりと見渡し、それから天を見上げて言った。
 芝居がかった仕草で両手を天に差し出す。つられて全員が空を見上げる。
「さあ諸君! 我等が神が降臨なさるぞ、儀式の用意だ!」
 集まっていた吸血鬼達が大歓声を挙げて拳を突き上げた。その場にいて突き
上げなかった吸血鬼はただ二人、ジグムンド・ウピエルとネロ・カオスだ。彼
等は建物の端の石の欄干に持たれかかって何をするでもなく、その熱狂的な様
子を醒め切った目で見ていた。
 ウピエルがナハツェーラーの宣言に唾を吐いた。
「我々のもの、ね――けっ、全く芝居がかってやる、しかも下手糞だ」
「だが彼等には効果があるようだな……カリスマというやつか」
「カリスマなんて言葉が似合うようなタマじゃねぇと思うんだがな、あの狒々
ジジイは」
「ああしておだてておいて『自分達がこの世を支配する』という甘い誘惑を囁
かれれば、それに刃向かえる吸血鬼などそうそういまい、あれもまあ一種の精
神操作か」
「だろうな、見ろよ学者。あいつらの目を」
「ああ」
 ウピエルが指を差した吸血鬼の群れは全員がどこかぼんやりとした目をして
いた、にも関わらず熱狂的に拳を突き上げ、天に向かって叫んでいる。
「どいつもこいつもバカみたいにはしゃぎやがって」
「我々には関係無いことだ。それより……自身の身の安全を考慮した方がいい。
 恐らく、人間達はもう一度来るぞ」
「何!?」
 ウピエルはネロの方に思わず向き直る。
「天使の塵と、弓が来ておらぬ。あれほどの実力者がこんな連中にむざむざ殺
されるとは思えん。そしてこちらの情報がもし漏れているならば儀式が終わる
までにここを襲撃に来るのは間違いなかろう」
「そうか……そうだな……そうだ! クソッ、最高だ、あんな糞みたいな連中
じゃなくて、もっとちゃんとした殺し合いができるってことだよな」
 両の手をパン、と叩いたウピエルの表情は狂喜に染まっていた。
「そんなに殺し合いが好きかね?」
「それ以外に何がこの糞つまらない人生にあるって言うんだ?」
「君は人ではあるまい」
「例えだよ、例え」
 そう嘯いて、ウピエルは自分の武器の手入れを始めた。来るのだ、最高のラ
イブを聞くに相応しい化物達が来るのだ、ならばこちらも最上の演奏を奏でる
必要がある。
「そうそう、弐号機(こいつ)にも活躍してもらわなきゃな」
 ウピエルは輸送機から持ち出した自分のバイクを手で軽く叩いた。
 かつてリァノーンの継嗣に盗み出されたデスモドゥスの後継機種だ。結局あ
れを取り戻すことはできなかった、装甲車と激突した際の残骸が発見されたそ
うだが、壊れた以上はそんなものタダのガラクタに過ぎない。
 新しいバイクを一から作り直すしかなかった。実戦に投入するのはこれが最
初だったが、デスモドゥスは期待以上の働きを見せてくれた。お陰でタイヤに
は血と臓物がこびりついている。口笛を吹きながら、ウピエルはバイクの整備
に取りかかり始めた。
「理解できん」
 ネロはそう言ったが、言われたウピエルは必ず来るであろう敵のことを考え
ていて彼の視線などこれっぽっちも気にならなかった。ウピエルが嬉々として
武器の手入れを行うのを見ながら、ネロはふと月を見て、思考に全身を委ねた。
「……あれも来るか? 連中にとっても敵地だが今はそんな状況ではあるまい、
となるとやはり連中――王立国教騎士団(ヘルシング)も、あの真祖も動くか」
 呟き。
 ネロは空から地上へ視線を移した。熱狂的な雰囲気の中で吸血鬼が忙しく労
働に勤しんでいる。あの真祖にかかれば、彼等など一山いくらの雑魚にしか過
ぎないだろう、アレを相手にできるレベルの吸血鬼はこちらでも極わずかだ。
「ふむ……まだまだ死人は足りそうにないな」

 吸血鬼――イノヴェルチの下っ端達は自分達の勝利を確信していたし、実際
の話、ほとんどそれは正しいといっても良かったろう。儀式が開始され、神が
復活したのならば――イノヴェルチの吸血鬼ですらまだ何割かが半信半疑だっ
たが――自分達の勝利が確定する。
 逆に言うと夜が来ても、儀式の準備を行っている吸血鬼を除くと、ほとんど
の連中が暇を持て余していた。暇を持て余さない方法はただ一つ。残った獲物
を狩り立てて、鼠をいたぶるように弄ぶしかあるまい、即ちやることは一つ。
 人間狩りだ。


               ***


 そろそろと走ろうが全力で走ろうが車の音を吸血鬼が聞き付けないはずはな
い、だからエレンは全力で走ることを選んだ。今のところまだ自分達だけが生
き残ったという訳ではないらしい、あちこちで車の音や、銃声が聞こえるのを
考えると、ローマに住む市民が全滅したという訳ではなさそうだ。
 だが一方でそれは時間の問題でもある、何しろ夜だ、昼間からの襲撃という
のも意表を突いた作戦で、随分と被害を受けたが、間違いなく夜はそれ以上に
酷くなるはずだ、酷い惨劇があちこちで起こるはずだ。
 グレネードランチャーや火炎放射器で爆発炎上した建物を尻目にエレンが操
る車は道路を全力で駆け抜ける。
「人間だ」
「人間だぞ」
「人間だ」
「血だ」
「ごちそう」
「タクサンノゴチソウ」
「ご馳走だ」
 建物の影からそうささやき声が漏れる。もちろんエレン達には聞こえるはず
もない。だが、バックミラーに映った化物の姿を目に捉えることはできた。
「ケイティ、席に伏せて耳を塞いでいなさい」
 少女は大人しく言われた通りにした。エレンが窓を開ける、風が彼女の躰に
叩きつけられ、髪が揺れる。だが、風圧に負けないように目だけはしっかりと
開いていた。
 前方の安全を一瞬確認した後、バックミラーで彼等を補足。躰を捻りながら
窓から乗り出し、左手のVz61を掃射。
 車に追いつこうと全力で走っていた吸血鬼達は弾丸を避けきれず、何人かが
ここで脱落した。
「くそ!」
「おのれ!」
 偶然弾丸が当たらなかった吸血鬼達は憤怒に燃えて、さらにスピードを上げ
た。アサルトライフルを車に向けて撃つ、だが弾丸は車の後部に火花を散らせ
るだけだ。
「防弾だ! グレネードランチャーを使え!」
 一人がその声に呼応して肩に吊り下げいたランチャーにグレネードを装填し
た、だがそんな作業を行っている間にエレンはさらにスピードを上げ、彼等を
突き放す。距離が開きすぎて、グレネードが届かない。
「くそ! 追いつけ!」
 慌てて吸血鬼達も加速する。一人が叫んだ。
「よし、曲がり角だ!」
 エレンの車はT字路に差しかかっていた、どんな名ドライバーでも曲がり角
を曲がるときは直進より遥かにスピードが鈍る。そして彼等の期待通り、車は
速度を落として角を左に曲がった。
「おねぇちゃ――」
「舌を噛むからしゃべっちゃダメ!」
 ケイティの泣き声混じりの呼びかけを遮って、エレンは車のブレーキを勢い
よく踏んだ。
 ガクン、という衝撃。ケイティは前方の席に頭を打ちつけて悲鳴をあげた。
 構わずエレンはギアをバックに切り替えて、ブレーキから足を離してアクセ
ルを思いきり踏みつける、一瞬タイヤが空回りするがすぐに道路に吸いついて
車を後方へ加速させる。
 最高のタイミングで吸血鬼がT字路から飛び出した。
 げ、と彼等が呻いた瞬間、飛び出してきた全員の躰は一トンを軽く越える鋼
鉄の塊に吹き飛ばされた。タイヤに絡まってぐしゃりと潰される。
 素早くギアを切り替える。タイヤで彼等を押し潰しながらエレンは再び前へ
と車を走らせ始めた。

 息をつく暇もなく、新手がやってくる。
 あちこちの建物の窓からガラスを破って次々と吸血鬼が飛び出し、道路に合
流する。騒ぎを聞きつけたのだ。
 ケイティは恐る恐る後ろを見て、悲鳴をあげた。無数の吸血鬼が舌なめずり
をしながらこの車に真っ直ぐ突撃してくる。
「おねぇちゃん!」
「舌を噛むって言ったわよ!」
 自身も舌を噛みそうになりながらエレンは叫んだ。前方からも吸血鬼が襲い
かかってきた。エレンはアクセルを踏み込んで、彼等を跳ね飛ばす、だが一匹
だけ車のボンネットに上手く乗った。
 嗤った。
 それと目が合った瞬間、エレンは窓から左手を突き出してコルトパイソンを
放った。一発で顔面に孔が開いた。吸血鬼はずるずるとボンネットからずり落
ち、タイヤで踏んだ瞬間に灰燼と化していた。
「おねぇちゃん、前!」
 ケイティが悲鳴をあげる。
「くっ……」
 エレンは前方を見て絶望的な気分になった。通りにはあちこちで大破した車
が炎上している、だが問題は前方に横たわっている大型バスだった。
 道路を遮るように横たわっていて、とても隙間を突っ切ることはできそうに
ない。
 バスまであと十秒。
 ――降りるか? 降りて逃げる?
 バスまであと九秒。
 ――無理だ、あれだけの吸血鬼相手に足だけで逃げきれるものじゃない。
 バスまであと八秒。
 ――第一ケイティがいる、自分一人なら何とでもなるかもしれないが、ケイ
ティだけはそうはいかない。
 バスまであと七秒。
 エレンはもう一度前方を注意深く観察する、バイクなら楽に通りぬけられそ
うな隙間が左に空いていた。
 バスまであと六秒。
 道路の真ん中に小型の車がさかさまになって炎上している。恐らくはバスに
激突したのだろう、車はぐしゃぐしゃだった。
 バスまであと五秒。
 バイクなら楽に通れそうな隙間と、真ん中の車。
 随分とまあ突拍子もないことを思いついた、はっきり言って絶望的な賭けだ。
 上手くいくかどうかはエレンの腕は関係なく、どれほど幸運かによるだろう。
 バスまであと四秒。
 ――やるしかない。
「ケイティ! 目を閉じて頭を抱えて!」
 エレンはハンドルを少し切って左に車体をずらした後、通りの真ん中に向け
て加速した。右のタイヤが大破した車を上手く踏み台にして車体を斜めにする、
そしてそのままさらに走る。
 コンクリートの壁に右のタイヤが叩きつけられた。斜めになったまま、車は
バスと壁の隙間に強引に乱入する。ケィティはドアに頭を打ちつけそうになっ
たが、包まっていた防弾チョッキがショックを和らげた。
 唖然とする吸血鬼達を尻目に、エレンの車はバスと壁の隙間を通り抜けた。
 ハンドルを左に切る。
 壁から離れる。タイヤが地面を踏んで、バウンドする。だがエレンはまだ息
をつくことはできない、次々と吸血鬼達がバスを跳び越してなおもこちらを追
いかけてくる。
 エレンは前方の安全を確認すると、窓から顔を出してVz61を狙いもつけ
ずにフルオートで撃ち捲くった。何人かが倒れ、その内の一人は銀の弾丸で肉
体への命令が混乱し、破裂する寸前に後ろにいた吸血鬼達に自分のアサルトラ
イフルの鉛玉を浴びせた。
 幸運が続いた。
 その内の一人のガンベルト――グレネードが挿さっている――に鉛玉が一発
食い込んだ。グレネードの雷管に火花が散り、爆発。彼の躰が吹っ飛んだ、そ
してさらにバスのガソリンにその爆発の炎が引火した。
 ガソリンについた火は勢いよく燃え盛り、たちまち漏れ出していた燃料タン
クへと雪崩れ込んだ。
 バスの車体は一旦宙に浮くほどに吹き飛び、周りに居た吸血鬼達はそれに巻
き込まれて爆発炎上した。夜だろうが昼だろうが、吸血鬼が炎に巻かれて生き
残るのは難しい。
 十数体以上がこの爆発の余波に巻き込まれた。さらに燃え続けるバスは追い
かけようとしていた吸血鬼の前に立ち塞がった。
「くそ!」
 だが、どう罵詈雑言を加えようと彼等がこのバスを跳び越す術はない。しか
も今の混乱は相当なタイムロスだった。その間にエレンの車は遥か遠くへと行
ってしまっていた。
 ――深追いしても仕方ない。
 もし、車の中にいるのが二人組の少女だと知れば、しかも処女だと分かって
いればどんな事をしてでも追跡しただろう、しかし彼等は二人の姿を目で捉え
ることも、硝煙の匂いに紛れた血の匂いを嗅ぐこともできなかった。ただ、車
に乗っているのは凄腕の人間だということが分かっただけだ。
「なあに、この街から脱出できるはずはないさ」
 誰かがそう呟いた。この都市から脱出する、つまり夜の吸血鬼の目から逃れ
るということはまず不可能だ。それは傲慢な考えであると同時に紛れもない真
実でもある。
 そう、この都市から脱出する術は存在しない。

「……もう喋ってもいいわよ」
 ケイティが身を伏せつつ、しっかりと口を手で抑えているのを見て、エレン
は口を開くことを許した、まだ油断はできないがどうやら一段落ついたようだ。
「怖かった……」
「そうね」
 本当に怖かった、大袈裟でなく死を実感した。しかも、負ければ自分が死ぬ
というだけではない、間違いなく目の前の少女も死ぬのだ。これほどのプレッ
シャーはついぞ感じたことがない。
 車を走らせながら、外の景色を見る。美しかった建物は残らず打ち壊されて
いて、あちこちで上がった火の手が空を染め上げる。どこからともなく漂う腐
臭、魚の腐ったような臭い、一度嗅いだことがあるもの、吸血鬼の臭いだ。
 車の窓を閉じて、とりあえず臭いを遮断する。待ち合わせた地下墓地までは
もう少しかかるだろう、それにしても――今更ながら何とも不吉な場所を選ん
でしまった。
 とは言え選んだのは玲二一人だけではない、エレンも賛同したのだ。
 予定を立てよう、重要なのはこれからどうするべきかだ。
「ママに逢いたい」
 エレンの心を見透かすかのように、ケイティが呟いた。
「パパにも逢いたい」
 エレンは思わずミラー越しにケイティの濡れそぼった瞳を見た。どうやら何
かを思う暇もなく彼女に襲いかかってきた災害が一段落したことで、ようやく
自分の両親について思考する余地ができてきたらしい。
 だが。
「ごめんね、まだ逢えないわ……結構遠くまで来ちゃったし」
「もどりたい」
「駄目」
 彼女を二人に逢わせる訳には断じていかない。だから嘘を付き続けるしかな
い、しかしケイティの澄んだ目は自分の心臓を射抜くようで気分が落ち着かな
かった。
 さらにケイティもうっすらとだが彼女の嘘を見透かしているようだ。子供特
有の我侭さ――自分の優しい両親は絶対に死なないという幻想――が無ければ
エレンの拙い嘘などたちどころに看破していただろう。
 いや、もしかしたらケイティは既に自分の両親が死んでいることを知ってい
るのかもしれない、とエレンは思う。
 ただ、それを信じたくないためにエレンの嘘を信じ続けているだけなのかも
しれない。
 あれだけの乱暴な運転にも関わらず、エンジンにトラブルが起きることもな
く、彼女の操る車はローマを走り続ける。紅い空が次第に黒く染まっていくに
つれて、銃声も悲鳴も遠のいていく。
 どうやら吸血鬼達はローマの中心、あるいはヴァチカンを蹂躙するのに忙し
いようで、中心から離れたところにはあまり兵力を裂いてないようだ。
 それも当然のことか、吸血鬼達は何万と押し寄せてきた訳ではない、数量的
には一万も越えていないだろう。逃げ延びる人間も何千人といるはずだ。たと
え今は既に夜だということを考慮に入れても。エレンは車を走らせながら、周
囲の索敵を怠ったりもせず、思考を別の疑問解消へと費やすことにした。
 そもそも、なぜ彼等はヴァチカンとローマを襲おうとしたのだろう。ヴァチ
カンとローマ、果たしてどちらが彼等の目的か。
 ――ヴァチカンだ。
 これは恐らく正しい、ローマに用があってついでにヴァチカンを襲ったので
はなく、ヴァチカンを襲い、ローマからの攻撃を防ぐためにローマも襲ったと
信じる方が妥当だ。なにしろキリスト教徒を除けば吸血鬼ほどヴァチカンと係
わり合いになる化物はいないだろう。
 だが、その理由はヴァチカンが吸血鬼の天敵であり、吸血鬼を屠るものだか
らだ……ならばなぜヴァチカンを襲撃する? シエルの話では少なくとも一千
年以上、ヴァチカンは吸血鬼と戦い続けてきたが、ヴァチカンを襲った吸血鬼
などこれまで一匹たりともいなかった、はずだ。
 それが何故?
 理由は――。
 思考を打ち切った、それは考えても仕方ないことだろう。それよりもう一つ、
厭でも考えなければならないことがある。
 サイス・マスターのことだ。
 ……いや、もうマスターではない。彼は自分の上に立つ人間ではないのだ。
 それにしてもあの男は何故吸血鬼に? あの場から生き延びた? ……いや、
成り立ちなどどうでもいいのだ、重要なのは彼が吸血鬼となっていること、そ
して困ったことにどうやら自分達を標的に選んだということ。
 彼は吸血鬼だ、恐らく走る速度は車よりやや遅いだろう、しかし彼は追跡者
(チェイサー)だ。音を立てながら逃げる者を追跡するのはスピードで引き離
されない限り、余りにも容易すぎる。
 つまり、いついかなる時でも襲いかかって来る可能性がある。何しろ向こう
は走るだけで車のような騒音を立てなくてもいいのだから。
 ポケットから取り出した携帯を覗く、予想通り液晶の画面には圏外が表示さ
れ続けており、玲二と連絡など取れそうにもない。つまり待ち合わせた場所に
向かうしかない。それ以外に玲二と合流できる可能性はない。
 必ず合流する。
 そして何としてでも脱出する、その後は――まあ、ヴァチカンならば何とか
するだろう。最悪の場合、ヴァチカンへの核攻撃も予想の範囲内だ。今はまだ
大丈夫だろうが、この状態をいつまでも続ける訳にはいくまい、例えローマを
丸ごと灰にしてでも吸血鬼を根絶しようとするだろう。
 逆にいうとその前に、この場から脱出しなくてはならない。
 エレンはバックミラー越しに後部座席のケイティを見た、彼女は疲れが押し
寄せてきたらしく、目を瞑ってこくりこくりと平和な眠りを享受している。
 ――彼女のことを考えるのはその後でいい。
 もしかしたら考えたくなかったのかもしれないが、エレンは強引に思考を打
ち切って、バックミラーから前方へ目を移そうとし――。
 もう一度ミラーを覗き込んだ。
 白の塊が高速でこちらに接近している。ほとんど直感に等しいものがあった、
どうやら先ほどまで思考していた件の吸血鬼が追って来たらしい。
「ケイティ、起きなさい」
「うな……」
 意味不明の言語を発してケイティが起き上がった、寝ぼけ眼でエレンを見る。
「なに――」
 ケイティがくぐもった声で言うと、返答のように車体後部に一発の弾丸が叩
きつけられた、耳をつんざくほどの轟音、少女は悲鳴をあげて再び座席に伏せ
る。エレンは追いつかれることを防ぐために、車を真っ直ぐ全力で走らせる、
だが追う吸血鬼――サイスにとってはこれほど狙いやすい標的はない。
 一発目の弾丸から三秒ほどの間を置いて再び轟音。二発目もヒットした。
「間が大きすぎる……?」
 エレンの疑問はサイスの武器を見れば雲散霧消したことだろう。
 サイスは弾丸を装填できるのはただ一発のみという偏屈な銃、トンプソン・
コンテンダーを装備していた。奇妙で美しい形状、吸血鬼となったせいか、そ
れとも元々こういう性質なのか、身体能力に磨きがかかったことで武器に無骨
な能力優先の銃を持つ必要がなくなった今、彼は自分のコレクションの中でも
美しさ――そして畸形さに置いて優れた銃を使うことにしていた。
 トンプソン・コンテンダーの威力自体は申し分がないが、さすがに防弾の車
体を破壊するのは無理があるようだ、だが夜になったせいで神経が極限まで研
ぎ澄まされている自分ならば、あの車の致命的な弱点を狙うことができるはず。
 サイスはニンマリと嗤って弾丸を再装填した。
 狙いはただ一点、車と地面を結合しさめているあの柔らかいタイヤ。

 サイスの狙いはエレンに完全に読まれていた。しかし、それを読み切ってい
てもエレンに為すべき方法はない、ただ車体を左右に振りながら――しかもで
きるだけスピードを落とさずに――当たらないことを祈るだけだ。
 ――この車の持ち主め、予算をケチらずにタイヤも防弾にするべきだったの
よ、まったく……!
 心の中で乱暴に毒づいてみても始まらない。
 幸いなことにこちらには手がかりがある、サイスは今のところ弾丸を再装填
するリズムが完全に決まっている、撃つ、間が空く、撃つ、二発撃って今のと
ころ三秒間隔だ。恐らく以前エレンがやったようにオートマグを使って弾詰ま
りを防ぐように撃っているか、あるいはトンプソン・コンテンダーのように弾
丸を一発しか装填できないタイプ。
 三発目が発射される寸前、エレンは車体を右に傾けた。一拍遅れて車体左に
弾丸が跳ねる、予想通り、タイヤを狙ってきているらしい。
 一、二、三、心の中でそうデジタルに数えて今度は左に車を傾ける。今度は
弾丸は地面に跳ねた。さらに三秒間隔で右へ左へ車をジグザグに走らせる。
 さらに二発を撃ったところで、サイスもエレンの考えを読み切った。再装填
してから一拍置く。予想通りエレンはハンドルを切った。
 ――浅薄な奴め。
 薄ら笑いを浮かべて、サイスは引金を引いた。狙い違わず彼の弾丸は後部右
タイヤを引き裂いた。
 エレンはタイヤの破裂音で自分の試みが読まれたことを知り、咄嗟にスピー
ドを落としたが間に合わず、車体は自分勝手にスピンする。ケイティの悲鳴が
一層大きくなった、エレンは必死に車の体勢を立て直そうとしたが、タイヤが
一つ無いだけでスピードは愕然とするほど鈍り、コントロールが困難になる。
 エレンは覚悟を決めて窓を開き、Vz61を握り締めた。
 ケイティが不安気にエレンの瞳を覗き込む、エレンは極力表情を殺して、彼
女に心配しないで、と言った。
 Vz61を掃射する、が、どうやら先ほどまで仕留めていた吸血鬼とサイス
とではレベルがあまりにも違うらしい。彼は這うように走って弾丸をくぐり抜
けた。残念なことに走る速度はいささかも落ちてはいない。
 片手でぐらぐらと右に左に揺れるハンドルを押さえつけながら、さらにVz
61を撃ち続ける。だが、今や狙いをつけることもままならない彼女の弾丸は
サイスの周りに弾丸をばらまいたに過ぎなかった。
 覚悟を決めよう。ハンドルを握りながらVz61の弾倉を再装填してエレン
は思う。車を止めて、何としてでもサイスを仕留めなければ。
 車の速度が急激に落ちたのを見て、サイスはせせら笑う。遅かれ早かれこう
なることは予測していた、彼女は合理的に判断している。ここで自分を殺し、
タイヤを交換してからまた逃げる。
 ――モタモタしていると残りのタイヤも撃ち抜かれかねないからな。
 さて、エレンはどうするか――例えば自分の配下だったツェーレンシュタイ
ンならば、後部座席の少女を囮にしてこちらの気を引こうとするだろう。
 だがあの欠陥品は恐らくそんなことはすまい、まあ製品というのは改良を繰
り返しながら完成に近づけるもので、最初から完璧な製品などない。
 あの稀代の名銃であるベレッタM92とてそうだ――戦闘の洗礼で次第に完
成に近づけていったのだ。
 ――ともかく欠陥品には完成品を多数破壊した償いをしてもらおう。
 車が停まる。
 エレンはケイティに「ここから出ないでね」と囁いてから車を降りた。
 エレンとサイスが向かい合う。
 エレンは無言でVz61を構える、サイスは肩を竦めて口を開い――。
「相変わらず寒気がするんだ、そのニヤケ面はな」
 顔面を12.7mmの特大の弾丸で吹き飛ばされた。

 さすがにエレンも唖然として、背後を見る。そこには、馴染み深い少年の顔
があった。
「エレン」
 声。
「まだ、まだ待ち合わせ場所じゃないのに、どうして――」
「車が走る音と銃声が聞こえたから」
 そう言いながら、吾妻玲二はバーレットM82A1を両手で抱えてエレンに
歩み寄る。
「助かったわ」
 エレンは胸を撫で下ろして、大きく息を吐いた。緊張が弛緩する。が、玲二
の冷静な言葉で気が引き締まった。
「まだ終わった訳じゃない、すぐ復活するぞ」
 彼の言う通り、サイスは何事もなかったかのように立ち上がった、エレンも
玲二も今更驚きはしないが、顔面の大穴が次第に修復されていく様は大変気色
が悪い代物だった。
「なるほど」
 まだ目や鼻が修復されていない状態で、サイスはそう呟いた。
「不良因子がまだ混じっていたか。全く貴様には生きている時からも、吸血鬼
となってからも邪魔させられるよ」
「あれは――やはりサイスか」
 玲二の叫びにはどことなく「やはり」という思いが混じっていた、ライフル
で狙いをつけていたときから、既に馴染みのある顔が映っていたのだ。
「そう」
「……おねぇちゃ」
「ケイティ、車に入ってなさい!」
 車のドアを開いてケイティが出てこようとしたのを激しく叱責して押し留め
た。玲二は目の前のサイスよりも、少女の存在に驚かされた。
「今の女の子は?」
「――その」
 エレンが説明に窮して声を詰まらせるのを見て、玲二は手を振った。
 少なくとも少女はヴァンパイアではないらしいし、モーラのようなダンピィ
ルという訳でもない。
「後でゆっくり説明してくれ、今はいい。
 ここは俺に任せて、君は車でできるだけ遠くに行くんだ」
「……ちょっと待って、どういうこと?」
 エレンの怪訝な声に、玲二はケイティを指差す。
「あの子を巻き込む訳にはいかない。安全なところまで連れて行ってあげるん
だ。……俺は後から追いつく」
 至極まともな考えに思える。ただし、それにはたった一つ、そして最大のハ
ードルを乗り越えなければならないということを除けば。
「サイスを……あれを一人で相手にするって言うの!? 冗談じゃないわ、私
も戦う」
「エレン」
 玲二の声には何処となく強制的な響きがあった。
「あの子はこの戦いに関係ないだろう? どちらかが彼女を安全なところまで
送ってあげなきゃいけないんだ、分かるよな?」
 エレンは首を横に振った。
「駄目よ。絶対に――」
 しかし、その声は玲二と違って微妙に弱々しい。心の底で、ケイティは巻き
込むべきではないと何かが訴えている。
「大丈夫だよ。吸血鬼と戦うのはもう大分慣れた」
 今や傷をほとんど修復しつつあるサイスに聞こえるように玲二は言った。
 エレンは考える、自分は玲二を選ぶべきなのか、ケイティを選ぶべきなのか。
 許されることなら一日ゆっくりと考えたい問いだ、しかし今は残り数秒しか
時間の猶予がない。
「エレン、俺は君の相棒だ。俺を信用してくれ」
 その言葉が決定打となった、エレンは頷いて再び車に乗り込んだ。
「トランクを開けてくれ、余計な武器を入れておきたい」
 重たいアンチマテリアルライフルをトランクに放り込む、一対一の戦いなら
ば、これはただの邪魔物にしかならない。
「玲二」
 エレンが窓を開けて声をかける。
「後で落ち合いましょう」
「ああ、約束するよ」
 玲二は微笑んだ。力強い微笑みだった。諦観の念はどこにもない。エレンは
わずかながら安心して車をスタートさせた。
 ガタガタと車体を揺らしながら、ゆっくりと自分から遠ざかっていくのを見
て、玲二は満足感を覚えた。エレンはもう無機物の殺戮機械などではない、そ
して彼女は二度と殺戮機械には戻るまい。
「お別れは済んだかね?」
 すっかり顔を修復したサイスが玲二に声を掛ける。
「いや、まだだ」
 玲二はデザートイーグルの安全装置を外し、遊底を引いた。弾丸が薬室に送
り込まれる。
「俺はまだエレンに何にも伝えちゃいないし、エレンにしてやることも山ほど
ある」
「贅沢な……今の感動的なお別れを見逃してやっただけではまだ足りないのか
ね?」
 サイスが生きている時と同じように肩を竦めた。
「足りない、全然足りないね――そういう訳でサイス。俺はアンタを殺して彼
女を追うことにするよ」
「できると思っているのか?」
 玲二はエレンの前では絶対に見せることのないだろう笑みを見せた。酷薄で、
無情な笑い。サイスが見た事のない玲二の笑みだった。
「できるとも。できないとでも思っているのか?」
 彼の笑いは無性にサイスの癪に障った。
「できないとも! 私は今ここで宣言しよう、お前の脊髄を引きずり出してア
インに――」
 玲二はデザートイーグルの引金を引いた、間一髪でサイスは躱したが弾丸が
掠った頬から血が浄化されながら地に落ちる。
「貴様――」
「能書きはいい、さあ……今度こそ決着をつけようじゃないか、サイス!」
 デザートイーグルの照準をピタリと彼に合わせ、玲二は吼えた。















                           to be continued






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