たくさんの男たちが、兵士としてやってきた 
 たくさんの男たちが、海峡を渡ってきた 
 たくさんの男たちが、そのときを待った、 
 それは彼らが、歴史の中で一番長い日を生きたから 
                    「史上最大の作戦」

















 観光客がポカンと口を開けて空を見上げる中を、エレンは足早に通りすぎる。
「痛いよお姉ちゃん……」
 右手には少女を引っ張りながら歩く、本来は彼女の両親を見つけなければな
らないのだろうが、今はそんなことを言っている場合ではない。
 とにかく一刻も早くここから逃げ出したい。少なくともこの広場からは離れ
るべきだ。空の様子を見る限りでは猶予はあまりないらしい。だが、エレンの
右腕を引っ張る力は次第に強まり、とうとう彼女の力に一歩も退かぬ、という
程になってしまった。
 エレンは振りかえり、不貞腐れる少女を見る。
「パパとママ、さがしてくんなきゃ動かない」
 困る。
 しかし、一方で彼女の言うことも道理なのだ。探してあげる、と約束してお
いて引っ張りまわしているのだから、少女としては不貞腐れもするだろう。
 逡巡する暇もない。
「分かったわ、じゃあがんばって早く探しましょう」
 再び少女の手を引っ張って、ゆっくりと広場を一周する。少女は必死になっ
て大人たちの顔を観察し、エレンも心の中の焦燥を必死に抑え込みながら子供
を探していそうな大人を探した。
「ケイティ!」
 向けられた声に少女が反応する。エレンが振り返ると、いかにも温厚そうな
夫婦が目に涙を溜めてこちらに近付いている。
 エレンが手を離すと、少女が彼等に駆け寄った。
「パパ! ママ!」
 エレンは安堵を覚えた。だが、彼女は次にどう行動するべきかで悩む。
 少女を助けたいと思う、だが周りにも救わなければならない人間が大勢いる
ではないか、少女だけを助けたいと思うのはエゴではないのか、神に仕えるべ
き身――エレンはそう思っている――でありながら。
 全てを助けなければならないのか。
 しかし、エレンは同時に全ての人間を救うことが不可能であることも分かっ
ている、そんなことをしようとすれば自分が命を落とすだろうということも。
 ――それはできない。
 自分の命は、いや魂と言い換えてもいい、それは吾妻玲二が救ってくれたの
だ、損得を考えずに彼自身の命を賭けて。普通の人間の思考ができるようにな
った今なら分かる、それは並大抵のことではない。
 だから、死ぬ訳にもいかない。救われた命を無駄に捨てる訳にはいかない。
 少女――ケイティが転ぶ。
 苦笑しながら夫婦がゆっくりと歩み寄り――。
 観光地ならどこにでもある、牧歌的な光景。
 そしてその時エレンは、夫婦の背後に過去の悪夢、冷たい薄ら笑いを浮かべ
た死神を見た。

 ――あれは、そんな、まさか。

「マスター……」
 呟いた。
 あっという間に一ダース以上の疑問が弾き出される。なぜ生きているのか?
 なぜここにいるのか? なぜ嗤ったのか? 混乱、そして精神が硬直し、肉
体もそれを追う。金縛りだ。
 サイスは薄ら笑いを浮かべながら、組んでいた手を解く。その手には白銀の
兇器。オートマグ44。息を呑む。狙いをつけられる。
 けれどしかし、その相手は、
「やめて」
 エレンは呟いた。
 少女が起き上がり、痛みで溢れそうな涙を堪えて母親に抱き着いた。安心し
て目を閉じる、轟音、放たれた弾丸はケイティと呼ばれた少女の父親と母親の
頭蓋骨を粉微塵にし、脳味噌を広場に撒き散らした。
 その音で金縛りが吹き飛んだ、エレンは疾る。ぐらり、と母親の躰が揺れる。
 不思議に思ったケイティが母親の顔を見ようとした瞬間、間一髪エレンの手
が目を塞いだ。
「駄目!」
 ケイティの母親の眉間に巨大な孔が開き、そこから赤黒い血とピンク色の脳
味噌がずるずると吐き出される。
 周りの観光客がようやく悲鳴を上げ始めた。
「ママ? ……ママ! パパ!」
「駄目! 見ちゃ駄目よ!」
 だがエレンの手を振り解き、ケイティが父親と母親に駆け寄った。そして、
倒れた二人を、脳味噌を撒き散らして醜く変形した彼等の顔を見てしまった。
 ケイティは悲鳴をあげることなく、卒倒した。エレンが駆け寄って抱き起こ
すが、彼女はぐったりと動かない。
 周りの観光客が次第に散っていく。一人だけ、こちらに近づく者がいた。石
床に足音が跳ねる、ああ、なんて――忌々しい。
「お前は」
 サイスが声をかける。エレンが見上げる、逆光でサイスがどんな表情をして
いるかまでは見えない、だが彼女にはどんな表情をしているか確実に分かった。
 恐らく、いや、絶対に間違いなく彼は嗤っている。
「なんで」
 何故殺したのか、叫びたいが声が出てこない。咽喉に重たい鉛が詰まってい
る。サイスは肩を竦めた。
「ああ、気まぐれさ。強いて言えば、お前の近くにいたからかな?」
 エレンは絶句した。
 サイス・マスターは間違いなく悪の範疇に属する人間だったが愚かではない。
 こんな、衆目の中で堂々と銃を撃つような人間ではなかった。
 人間ではなかった。
 ――まさか。
「まさか、まさか……マス、ター」
 目を細めて彼の顔を観察する、青紫色の唇が歪む、二本の牙が一瞬覗いた。
 分かりやすい事実にエレンは全てを悟った。
 ケイティをしっかりとその胸に抱き、ゆっくりと立ち上がり、ゆっくりと後
ろに退がる。今ではサイスの顔がはっきりと窺えた。自分とケイティの首筋に
視線を這わせて残酷な笑みを浮かべる顔を。
 服の中に差し込んでいたコルトパイソンを後ろ手に握り締める。
「どこへ行こうと言うのだね?」
 ――あなたのいないところへ。
 エレンは無言で答えない。
「残念だが、君達はここから逃げられない……がっかりだな、アイン、君なら
既に解かっていると思ったが」
 失望したよ、と言いながら肩を竦める。今やエレンは彼の全ての仕草が癪に
障っていた。凍りついた表情で応じる。
「ええ、解かってます。……でも、それでも」
 コルトパイソンを突きつける。サイスはわずかに眉をひそめた。
「私は貴方から逃げます」
 ――できなければ、貴方を打ち倒す。
 乾いた銃声が鳴り響いた、狙い違わず弾丸は眉間に放たれる。しかし、サイ
スは右手を軽く頭のところで握った。
 観光客が再び悲鳴を上げて地に伏せる。
 サイスは倒れもしなかったし、痛みに震えたりもしなかった、ただ、ふむ、
と頷いて無造作に手を広げて、弾丸を地面に落とした。
 それから、ぱちぱちと手を何度か叩いた。
「やはり君は最良の殺し屋だな」
 そう褒め称える。エレンは表情を崩さない。片腕でしっかりとケイティを抱
き締めながら、コルトパイソンをしっかりサイスに突きつけている。
「だが最高ではない、最高の殺し屋は、人間などではないのだよ、アイン」
 彼が指を鳴らす、観光客に紛れていた吸血鬼がニヤつきながらサブマシンガ
ンや拳銃を取り出し始めた。
 ゆっくりと後退していたエレンが硬直する。
「最高の殺し屋は、吸血鬼だ」
 突然立ち上がった彼等をぽかんと観光客が見つめている。エレンの硬直が解
けた、血を吐くような絶叫。
「逃げて! みんな逃げて!」
 その声に反応できた人間は極わずかだった。
 手近な人間に向けて吸血鬼は片っ端から撃ち始めた。老人若者男女子供赤ん
坊犬や猫、誰彼構わず、目についた生物に向けて片っ端から引金を引いた。
 エレンは無我夢中でサイスに背を向けて走り出す。
 背中越しに絶叫、悲鳴、苦悶の声がたちまち溢れ返った。エレンには見る暇
など無かったが、それとほとんど時を同じくして、空から黒いパラシュートが
次々と舞い降り始めていた。
 エレンを追いかけようとした吸血鬼達が、サイスに襟首を掴まれる。
「あの二人を追うのはこの私だ」
 サイスがそう宣言すると、彼等は萎縮して従った。
 サイスはエレンのことを思い、そして勃起する。
 十年以上もの月日を彼女と過ごしてどうして気づかなかったのか、とサイス
は自分を責め立てる。
 あんな素晴らしい血を持つ少女はそうそう有るものではない。


 エレンは逃げながら空を見上げた、次々とパラシュートが舞い降りる。観光
客は口々に「テロリストだ」と叫びながら逃げ惑う。突然、観光客の一団から
爆発が起きた。
 ――グレネードランチャー!
 エレンはケイティをしっかり抱きかかえながら、逃げ惑う彼等に紛れないよ
う気をつけた。恐らく彼等は人間が集まっているところを集中して狙うだろう。
 さらに言うなら建物の中も危険だ、C4爆弾をセットされていれば、それで
一巻の終わり。
 ――裏道を行こう。
 建物と建物のほっそりとした道を抜ける。ケイティが失神しているのは彼女
が暴れたりパニックに陥ったりしない、という点で有利だが、脱力した彼女の
重みがエレンの走る速度を若干鈍らせているのも事実だった。
 しかし、彼女の頭にケイティを置いていく考えはない。意図的にその要素を
排除している。
「――!」
 気配に振り返る、サイスがいる、脇目も振らず逃げ出す。しかし呆気なく肩
を掴まれる。強制的に振り向かされる、視線の交錯、魔眼、魅了、そして彼女
の魂が抜け落ちる。
「おいで」
 とても温かみのある声、少なくともエレンにとっては。
 一歩近づいた。
 二歩近づいた。
 三歩近づいた。
 しかし、片腕で抱き締めるケイティの温もりがエレンにそれ以上のことを許
さなかった。背中に隠れたナイフを取り出す。
「!?」
 絶対の確信を持って噛み付こうとしていたサイスは硬直した。エレンの刃は
首筋を狙う。もし彼が人間だったなら、彼女の刃が頚動脈を断ち切るのを避け
ることはできなかったろう。しかし、彼も今や吸血鬼だ。
 硬直して動作が一瞬遅れたにも関わらず、彼女の刃は彼の頬を傷付けるだけ
に留まった。しかし、彼女の持つナイフはシエルから祝福を受けた銀のナイフ
だ、簡易とはいえども吸血鬼を打ち倒す概念武装だ。
 彼の傷痕が猛烈に痛み出した。
「ごっ! ぐぅ……あぁぁぁぁぁあ!」
 白煙が上がる頬を抑え、殺意の篭った視線でエレンを睨みつける。
「アイン! 貴様……貴様ッ!」
 エレンの顔は冷たい、どこまでも冷たく、凍り付いている。しかし、玲二な
らば多分彼女のその顔から何を感じているか理解できただろう。
 エレンはサイスの怒りを無関心で受け流せるほど、本気で怒っていた。
「くそ……下僕にしてやろうかと思ったが気が変わった! そのガキと貴様も
ろとも『殺してください』と懇願するまで痛めつけてやる!」
 口汚い罵り方。
 無様だ、そして醜い――姿形ではなく心そのものが、とエレンは思う。
 怒りで唇を噛んだ。
「やれるものなら……やってみなさい! サイス!」
 サイスは怒り狂っていたが、落ち着いていたら絶対に驚いたはずだ。あのア
インが「やれるものならやってみなさい」と絶叫したのだから。
 しかしサイスは気付かない。エレンと過ごした数年で彼女にありとあらゆる
暗殺術を叩きこんだが、玲二がエレンと過ごした数年は、彼女にもっと劇的な
変化を及ぼしていたと。
 この後、サイスはそれに気付くべきだったと後悔したかもしれない。あるい
は後悔に至るまでの思考を持たなかったかもしれないが。
 ともあれエレンはケイティを傍に寝かせると片手にナイフ、片手にコルトパ
イソンを持って構える。
 サイスが抑えた頬から手を離す、が、すぐにまた頬に手を当てた。切りつけ
られたところから露出した皮膚がじくじくと痛む。陽光だ。エレンの目を見る、
彼女はすぐに自分の様子が変だと考え、その理由を看破したらしい。
 後退する。
 逆にエレンが一歩前に出る。が、サイスの背後からウージーを持った二人の
男が近づいてくるのを見て、すぐにケイティを抱きかかえ、再び走り出す。
「ふん」
 サイスは追わなかった。
 たった半日でヴァチカンから、ローマから脱出できるとは思えない。夜にな
ればこちらのものだ。
 ――エレンと少女の血の匂いは覚えた、儀式が始まる前に発見して二人の血
を吸い尽くしてやる。
 サイスは頬を手で覆いながら、赤黒い瞳でエレンと少女が消えた方を睨み続
けた。

 ――息をつく暇もない。
 まだぐったりしているケイティを抱えて、エレンは大混乱の広場を走り抜け
る。逃げようとする男に突き飛ばされそうになるのをするりと避け、空からグ
レネードを落とされそうな密集を避け、ヴァチカンを抜けてローマの街並みを
疾走する。
 混乱の中、どこかで散発的な銃声が聞こえる。数人の警官が恐怖の表情を浮
かべながらも、自分の為すべき職務を果たしているのだ。
 しかしそれは、あまりにも脆弱。
 AK−74の独特な発射音がエレンの耳に届くとほぼ同時に散発的な抵抗は
消え失せてしまった。
 路地裏に回る。人の気配がない、エレンはほっと息をつきながら、コルトパ
イソンに弾丸を再装填した。今度は鉛ではない、銀の弾丸だ。高価な代物だが、
今はそんなことを言っている場合ではないだろう。
「ん……」
 ケイティが目をしばたかせた。
 エレンが優しく抱き起こす。
「大丈夫?」
 声にひぃ、とくぐもった悲鳴をあげた。
「い、いやぁ!」
 手足をばたつかせる、悲鳴をあげる。エレンは無理矢理彼女を抱きかかえ、
騒がしい口を抑え込んだ。
「落ち着いて! 大丈夫……大丈夫だから……」
「パパ……ママ……」
「大丈夫、パパもママも…………病院に、運ばれた、から」
「ほんと!?」
 暴れるのを止めて、ケイティがエレンの瞳を覗き込む。心苦しい、大嘘だ。
 彼女の父親も母親も自分のかつての上司に脳天を撃ち抜かれ、死んでいる、
それが現実だ。だがしかし、そんな事を伝えればケイティがパニックになるの
は間違いない、それは自分達が一層の危険に陥ることを意味する。
 だから、エレンは嘘をつかねばならなかった。
 心の中でそう論理を組み立てるが、ケイティが純朴に自分を信じているのは
胸が痛んだ。その疼きを振り払うかのように、笑顔を見せる。
「本当よ、だから安心しなさい」
「うん! ……でも、けが、大丈夫かな?」
「大丈夫、それでね私はケイティのパパとママにあなたのことを任されたの。
 今、ここは悪い人たちがたくさんいて危ないの? 分かるわね?」
 ケイティは頷いた。
「落ち着いたら、パパとママに逢いに行きましょう。それまで私についてきて。
 いいわね?」
 ケイティは再度頷いた。パニックは収まったようだ。エレンはポケットを探
ってティッシュを取り出し、細かく千切った後に丸めてケイティの耳に詰めた。
「ちょっとうるさくなるから、耳栓をしておくわ。大丈夫、しっかり私の手を
握りなさい」
 耳元で囁く、聴き取れたという風にケイティは「うん」と快活な返事をした。
「じゃあ、行くわよ」
 目標は、エレンと玲二が住むアパートだ。彼が購入してきた武器があそこに
あるはず。もしかしたら玲二もまだ残っているかもしれない。しかし、それは
可能性が低そうだった、いざという時に落ち合う場所は既に決めてある。
 ケイティが深呼吸をした、エレンもそれに習って深呼吸をする。ゆっくりと
吐きながら、エレンは路地裏からそっと大通りの様子を見た。
 あちこちで行われる白昼の虐殺。ケイティには目を瞑っていて欲しいが、さ
すがにそうもいくまい。
 ケイティがこちらの手を握り返すのを見計らい、エレンは大通りへ飛び出し
た。あちこちに死体がうずたかく積まれている。ケイティは死体をちらりと見
たがすぐに地面に視線を落とした、これでいい、死体を見てショックを受ける
よりは。
 吸血鬼が一人、自分達二人の血を嗅ぎつけたのか、こちらに近寄ってくる。
 コルトパイソンを躰の陰に隠しているせいで油断しきっていて、ライフルは
だらりと下げている。
 ゆっくり近づいて、誰にも気付かれないように腹に一発。それで終わりだ。
 彼女は苦悶して灰になる彼を無視して、アサルトライフルを取り上げた。A
K−74、予備弾倉、手榴弾、武器は必要だ、ありがたく使わせてもらおう。
 エレンは重いライフルを抱えながらも、さらに走る速度を上げた。ケイティ
は周りを一切見ないで地面の自分の足だけに注意を払っている。
「たすけて」という掠れた声にエレンは横を向く、上半身と下半身が引き千切
られた男性が自分の胴体の断面を手で抑えながら、こちらに呼びかけている。
 エレンは目を逸らして走り抜けた、背後で絶望と苦悶の呻き声がした。
 今度は甲高い悲鳴。
 女性の首に男が食いついていた。頚動脈を断ち切られたらしく、悲鳴をあげ
る傍から血が溢れてくる。これは見逃せない、こちらに背を向けている吸血鬼
の頭をコルトパイソンで吹き飛ばした。
 だが、女性を助けることまではできない。
 正面からタクシーが逃げ行く人々を跳ね飛ばしながら、こちらに突撃してく
る、エレンはケイティを抱き寄せて避けた。タクシーは花屋の店先に突っ込ん
で、クラクションを鳴らしたまま動きを止めた。
 一瞬、車を奪おうか迷ったが逃げ惑う人々がタクシーに殺到するのを見て、
すぐに諦める。背を向けて再び走り出したその時、タクシーに群がっていた人
間は降下した吸血鬼のグレネードランチャーによって爆裂四散した。
「……」
 まだ生きている人間もいるにはいるが、長くは持つまい。
 自分の無力さを噛み締めながら、エレンはひたすら前に、自分と玲二の住む
アパートに突き進んだ。
 ここまで来ると、さすがにケイティも息が荒くなり、次第に走る速度が鈍り
始めた、仕方ないことだろう。ケイティにとっては全力で走り通しだから。
 だが、アパートまではまだもう少し距離がある。仕方なしに、エレンはライ
フルを背中に回してケイティを抱きかかえると、全力で走り出した。
「すごぉい」
 ケイティは目を丸くした。
 いかに少女とはいえ、三十キログラム以上はある。エレンはその重みを感じ
ながらも、平気な顔で走り続けた。
 ――後ろから……二人、違う、三人。
 がちゃがちゃという耳障りなライフルの音、にも関わらず速度が落ちない足
音、そしてその速さ、全てにおいてその三人が吸血鬼であることを示している。
 コルトパイソンの弾丸の数は四発。三人なら一人につき一発で一発余る計算
だ。エレンは抱きかかえたケイティの目をそっと塞ぎながら振りかえり、片手
でこちらに迫る吸血鬼に、実に機械じみた精密さで弾丸を放った。
 弾丸は吸血鬼達の眉間を貫通。
 悲鳴をあげる暇もなく、三人は灰になって消失する。ケイティは何が起きて
いるのやら、さっぱり分からない様子だった。
 銀の弾丸は残り一発。
 アパートまでは、後数十メートル。
 さらに速度を上げる。
 アパートはグレネードの直撃を受けたらしく、屋上に当たる部分が破壊され
ていたが、自分達の部屋にまでは被害が及んでいないらしい。
 男が二人、立ち塞がった。エレンは舌打ちする。赤黒い瞳は間違いなく吸血
鬼だ。背中のライフルに気付いたらしく、動きを止める。
 エレンが抱えているケイティが彼等を見た、くぐもった悲鳴。彼等の舐める
ような視線、寒気。エレンにしがみつく。
 エレンは、恐れることなく真っ向から立ち向かった。
 ……勝負は一瞬で決着がついた。
 彼等がライフルを構えようとする、それよりエレンがコルトパイソンを構え
て撃つ方がずっと早く、撃たれた方は灰になって滅消し、生き残った方は驚き
のあまり、横を向く。
 再びエレンの方を向き直った時には、銀のナイフが心臓に深々と突き刺さっ
ていた。
 歩み寄ってナイフを抜く。抜き取るとほとんど同時に吸血鬼は灰と化してい
た。
 ――動きが鈍い。
 そう思う。やはり昼間だからだろうか? 灰になった後に肌色の皮膚が残っ
た、怖がるケイティを尻目に興味を持ったエレンはそれを摘み上げる。
 ゴムのように柔らかい。それに少しひんやりしている。
「ねぇ、怖いよ……」
 エレンはそうね、とケイティに同意して皮膚を放り捨てた。
 誰にも見られてはいないことを確認しながら、ゆっくりとアパートに忍び込
む、くつろいでコーヒーの一杯も飲みたいところだろうが、そうはいくまい。
 玄関の戸棚から武器を引っ張り出す。グレネードランチャー、アサルトライ
フル、サブマシンガン。
 本来なら全部を持って行きたいところだが、ケイティがいる今はできるだけ
己の身を軽くした方がいいだろう。そう思ってまずアサルトライフルを捨てた。
 サブマシンガンはCz61、スコーピオンと呼ばれる優れたコントロール能
力を持つ小型のものだ。これならケイティを抱き上げても片手で射撃ができ、
しかもコントロールしやすい。
 丸型の水筒にミネラルウォーターを詰めて、耳栓を抜いたケイティに放り投
げる。
「ごめんなさい、これを持っていてくれないかしら」
 ケイティは頷いた。
 水筒には紐がくくりつけてある、ケイティは自分の首に紐をかけた。
 スコーピオンの弾倉には銀と鉛の弾丸が交互に詰められている。購入した銀
の弾丸をできるだけたくさんの弾倉に詰め込むための水増しみたいなものだ。
 服を着替える暇はない、が、元々いざという時に活動しやすく、足の動きを
妨げない服装を選んだつもりだ、問題はないだろう。
 彼女は防弾ベストを手にとって、ケイティを手招きし、彼女にほとんど無理
矢理にベストを着せた。これで流れ弾に当たってもわずかながら安心だ。頭さ
え撃たれなければ、の話だが。
 ケイティはその重たさに顔をしかめた。エレンが優しく諭す。
「ケイティ、これはあなたの身を護ってくれる大事な服なの。
 ちょっと重たいけど、我慢してくれない?」
「……うん、でも」
「でも?」
「お姉ちゃんは、だいじょうぶ?」
「……」
 エレンは無言で、限りなく優しい目で――本人は無意識に――ケイティを見
て首を横に振った。
「お姉ちゃんは大丈夫よ。さ、もうここは危ないわ。早く行かなきゃ」
 エレンはケイティが差し出した手をしっかりと握り、もう片方の手にスコー
ピオンを構える。ドアのノブを握る、が、そこで動きを止める。
 一階下の廊下を歩く音が聞こえる。逃げているのではない、どすどすとやけ
に自信を持った歩き方だ。こんな状況で自信を持って歩く人間は存在しないだ
ろう。
 彼等がここに辿り着くまで後一分もない。
「……」
 無言でケイティを浴室の扉に隠れさせ、自分は扉から外に出る。隣の部屋の
ドアを開いて中に入った。先ほど手に入れた手榴弾のレバーにワイヤーを結び
つけ、それをガムテープでドアを開いてすぐの足場に張りつける。
 再び自室に戻り、ドアを閉めて彼等の足音に耳を澄ます。
 だんだんと乱暴に階段を登る音がする。このアパートは三階建てで一階ごと
に部屋が五室ずつ、そして彼女達の部屋は階段の近くから数えて三番目だ。
 一番目のドアを蹴破る音。続いてアサルトライフルの掃射音、薬莢がカラン
カランと音を立てて床に転がり、同時に露骨な舌打ちと残念がる声。
 このアパートの住人は死んだか逃げたかした、と彼は思っているだろう。
 二番目のドアの前に立つ気配、例によって蹴破る音、アサルトライフルの掃
射音、パターンに染まりきっている。
 エレンはケイティの両耳をしっかり塞いだ。
 そして足音、それから唐突に爆発音。苦悶の呻き声、アサルトライフルを手
当たり次第に乱射する音。
 銃声が収まると同時にエレンはドアから飛び出した。躰の右半分が見るも無
残に吹き飛んでアサルトライフルの引金を引き続けている吸血鬼がこちらを向
いた。
「ああ」
 呷く。
 廊下の窓から差し込む光が彼の断面に襲いかかった。エレンが撃つまでもな
く、その吸血鬼は灰燼と化して吹き飛ぶ。
「ケイティ」
 声に応じてとことことケイティがドアから出てくる。再度手を握り締め、彼
女達は階段を下り始めた。
 再び大通りに出なければならない。大通りはすっかり静まり返っている。だ
が遠くからクラクションの音が途切れずに聞こえる。恐らく鳴らしているとう
の本人は生きてはいまい。
 ぶ格好な防弾チョッキを着込んで首から水筒をぶら下げたケイティは、すっ
かり戦場の跡地に変わり果てた街を哀しそうに見回した。
「あのアイスクリーム屋さん」
 ケイティが指差す。そこには車輪が破壊されて捨て置かれたらしいアイスク
リームの屋台があった。
「あのアイスクリーム屋さん、買った時におまけしてくれたの」
 バニラのアイスが地面に零れ、その上から赤い液体がイチゴのように滴って
いる、エレンは吐き気を覚えた。
「おまけしてくれたのに」
 ケイティは泣きそうだった、きっと彼女の世界では自分に親切にしてくれた
人間が死んだということはありえないはずなのだろう。そして周りの人間は、
きっとみんなが彼女を愛していたのだ。今はいないアイスクリーム屋の主人も、
彼女の父親も、母親も、誰も彼もが。
 エレンは何も言えずに、足早にその屋台を通り過ぎた。

 玲二との待ち合わせはローマの地下墓地、観光ルートから外れたひっそりと
した場所に決めていた。ただ、観光ルートから外れている分、やや遠い。
 それでもエレン一人ならなんとか走っていけるだろうが、今はケイティがい
る。その点において彼女は確実に足手まといだった。
 車、バイク、そういう何かしらの乗り物を奪って地下墓地の近場で乗り捨て
るしか方法はあるまい。
 空を見上げる、まだ輸送機らしいものが山ほど空を覆っているが、ヴァチカ
ンの方から次々と火花と共に何かが空に打ち上げられる。
 地対空ミサイル? それともスティンガーのような簡易ミサイルだろうか。
 いずれにせよ、ヴァチカンも必死の抵抗を続けているらしい。彼等の神経が
ヴァチカンに集中することを願い――罰当たりなことだとは思ったけど――自
分達が、いや、自分のことは自分でするからケイティだけは無事に帰れせるこ
とができますように、と願った。
 エレンはあちこちで大破した、あるいは止めっぱなしの車に目を走らせて、
逃げるのに最適な車を探す。
 柱や壁にぶつけて前方、あるいは側面が捻じ曲がった車は論外として、逃げ
るのに精一杯で車を走らそうとする余裕がなく、尚且つガソリンに余裕があっ
て速度を出せる車が望ましい。
 ――そんな車はそうそうあるものではないが。
 クラクションが銃声の後、唐突に止んだ。音にイラついた吸血鬼が車を破壊
したらしい。
「ケイティ」
「うん」
「一緒に車を探してくれない?」
「どんなの……?」
 エレンはしばし考える。彼女に分かりやすく伝えるにはどうしたらいいもの
か、まさか彼女に車種が分かるはずもない。
「きれいな車」
「わかった」
 ケイティは頷いた。彼女の美的感覚が通常のものならば、少なくとも破壊さ
れた車は選ぶまい。
 エレンは思考の半分を車を探すことに、もう半分を索敵に回した。
 大通りの端を歩くが、人影も、死体も、吸血鬼もまるで見当たらない。とこ
ろどころが酷く崩壊したローマの街並みを二人して歩く、遠くから悲鳴と銃声、
それに時折起こる爆発音、まるで夢の世界のようだ、とエレンは思った。それ
もとびきりの悪夢。
 ケイティがエレンの服の袖を引っ張った。
「あれは?」
 黒塗りのキャデラック。いかにも富豪が乗っていそうな代物で、実際に富豪
が乗っていた。エレンにも、そしてケイティにも当然分からないことだが、こ
の車はフランチェスコ・ベッタリーニが銀行に用があって一時停止しておいた
車であり、彼を待っていた運転手は主人を見捨てていち早く逃げだしており、
騒ぎに気付いて慌てて銀行から飛び出したベッタリーニは吸血鬼に噛み殺され
た、その挙句に彼は喰屍鬼となったが、なった瞬間に日光によって灰燼と化し
ていた。
 もちろん、彼女達には全く無関係の出来事だ。
 だが、そのさなか取り残されたこの車は無関係ではない。富豪で敵が多かっ
た彼らしく、車は窓ガラスやタイヤに至るまで防弾仕様、ガソリンは常に満タ
ンに近い状態で、ブレーキオイル、エンジンオイル、バッテリーも良好。カー
ナビゲーションやシャンペンもおまけについている。
 そしてさらに幸運なことに、運転手はキーを差しっぱなしで逃げ出していた。
 それは神がくれたちょっとした奇跡なのかもしれない。エレンは素直に神に
感謝した。もっとも神は、こんなことでしか役に立たないのだが。
 周りを窺ってから乗り込む、ケイティは後部座席に乗せ、シートベルトをき
ちんと締めさせた。
「行くわよ」
 気付けば、ゆっくりと、だが確実に太陽が西に下りつつある。今でこそ陽光
が街を覆っているが、すぐにこの光はオレンジに変わるだろう、そして最後に
は真っ暗闇、すなわち夜が来る。
 それまでには、何としても安全地帯に辿り着かねばならない。しかし、それ
は――。とてつもなく困難な道に思えてならない。いや、きっとそうだろう。
 ローマの中央から外れまで、この車を走らせる。恐らく無数の吸血鬼に見つ
かることを承知の上で、だ。
 エレンは本日最初のため息をついた。


 ――どうやら今日は長い一日になるわね。














                           to be continued






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