今、この世界は、一つの傷口と見まがうばかりだ。蒸気に覆
われ、水分という水分は空気に曝され、血のように凝固してか
さぶたを作っている。
            「記憶なき嘘」ロバート・クラーク
















 壁には染みついたきつい煙草の匂い、床には滴った血の匂い。どちらも人間
である彼にはいささか鼻を刺激しすぎるものだった。胃がその匂いに刺激され
て酸を分泌する、だがその胃は空っぽでこのままだと胃壁に穴が空いてしまう
のは避けられそうにない。
 ただ、日頃から胃潰瘍に悩まされがちな彼にとって、唯一救いだったのは今
はそんな事を考えている場合ではないということだ――。
 床に組み敷かれ、後頭部にシュマイザーを突きつけられている以上、彼にと
っては胃のことなど、当面些細な問題だろう。
 ごり、と冷たい銃口が後頭部を抉るたび悲鳴をあげてもがいた。だが両手両
足は二人の吸血鬼によってがっちり固められている。瞼を開くと、隣で脳漿を
撒き散らし、眼が飛び出そうなくらい恐怖に満ちた表情を浮かべた自分の友人
であり、上司であった男が毛穴も見えそうなくらいの距離にいた。
「や、やめてくれっ! 頼む! 助けてくれ!」
 返答は嘲笑。
 彼は心の底から絶望する。
 こちらに近付いてくる靴が見えた、上を仰ぎ見る。喉がカラカラに渇いてい
て、唾を飲み込むのも一苦労だった。
「後生だ……少佐!」
「何をおっしゃいます、大佐。貴方だってこういう状況を何度もあのユダヤど
もを相手に経験したでしょう。
 こういう状況は、こういう立場に置かれたのだから、理解するべきです。
 自分は絶対に助からないと」
 駄々っ子のように暴れるが、上に乗った吸血鬼が煙草を吸う余裕があるほど
それはか弱い抵抗だった。
「た、頼む……頼むよ……イノヴェルチの一件については謝罪しよう。
 もう、吸血鬼にしてくれなどと言わない! 何もしない! 大人しく引っ込
んでいるから、頼む、助けてくれ!」
 ここで男の置かれた状況を説明しよう。
 男の名はオーギュスト・ベルガー。元ドイツ第三帝国――つまり、ナチスの
誇る武装親衛隊の大佐まで上り詰めた男である。だが、決して彼は歴戦の勇士
という訳ではない、前面で戦ったことはほとんどなく、主に後方の物資の輸送
担当で、たまたま前線で指揮を取った時、勢いに乗っていたナチスドイツが大
勝したに過ぎない。しかも彼自身はほとんど作戦らしい作戦は立てなかった。
 ただ、部下に死ぬ気で働けと命じただけである。敗戦後は整形して南米へ逃
亡し、ユダヤ人から奪い取った財産で安穏と暮らしていた。
 だが、ある日彼の元を訪れた男に唆される、永遠の命が欲しいかと、永遠に
この世で栄華を極めたくはないかと。
 彼はほとんど躊躇せずにその話に乗った。
 節々が痛む衰えた躰、日々食い潰されていく財産、何より産まれ故郷である
ドイツに戻ることができる、という誘惑は彼を捉えて離さなかったからだ。
 彼は口車に乗って財産を一切合財処分し、南米で交流のあった資産家を半ば
騙すようにして資金を掻き集めた。
 だが、金を出し終えるとベルガーは何もできなくなった。自分にできること
はモニターで吸血鬼達の活躍を見ることと、指揮を取っている少佐に文句をつ
けることだけだ。
 歯が抜け落ちる、髪も抜ける、腰は曲がり、杖無しでは出歩けない。そうな
ると、吸血鬼への憧れがますます強くなる。何度も何度も懇願する。だが、少
佐の答えはいつも決まっていた。
「まだその時ではありませんよ、大佐」
 彼は殊更大佐という呼び方を強調する、彼への殺意がますます募る。
 同じく吸血鬼になるのを待たされているミハエル・シュライヒャー中将や、
ホルスト・シュルツ少将と愚痴を零し合う――主に少佐の悪口――のが、せい
ぜいのお楽しみだ。
 そんな風に不遇を囲っていた彼等に、別の組織がコンタクトを取った。
 ドイツ第三帝国敗因の一部を担っているとも言える裏切り者、そして吸血鬼
の最大勢力、イノヴェルチである。
 遣いの男は言う。
「我々イノヴェルチとコンタクトを取る意志有りや否や?
 有りの場合、こちらの取引材料はあなた方が待たされている吸血鬼化につい
て、です」
 彼等は一も二もなく賛同した。
 少佐にプレッシャーをかけ、イノヴェルチとのコンタクトを取りつける。
 恐らくこの時に、前々から決定していた彼等の処刑の時が定められたに違い
ない。緊急作戦会議を開く、と言われてのこのこ出てきた途端、待ち構えてい
た彼等に一斉に組み敷かれた。
 一人一人、命乞いをさせられてからシュマイザーとワルサーの弾丸を脳天に
食らって行く。そして、ベルガーはその最後の人間だった。
 少佐はいつものようにニヤニヤ薄ら笑いを浮かべながら答える。後ろには大
尉がいつものように無言で佇んでいた。
「さあさあ、もっとしゃんとしなさい大佐。
 そんな事では我々が何千何万と撃ち殺し斬り殺し縊り殺したユダヤの豚ども
のようですよ、日本のサムライは腹をナイフで裂いても声一つあげなかったそ
うです、せめてそれを見習ったらどうですかね」
 瞳が潤む。
 涙が出てきた。極限の恐怖で膀胱が緩む、ちょろちょろと股間から小水が漏
れ出した。
 少佐は背中を向ける。
「ま、待ってくれ、待ってくれ少佐! いや、代行! 総統代行!
 後生だ!」
 ぴたり、と少佐の足が止まる。希望の光。
「……仕方あるまい。君達、シュマイザーは止めたまえ。
 代わりに大佐をお前達の糧にしてさしあげろ」
「ひっ!」
 こちらを紅く染まった四つの瞳がじっと見つめている。シュマイザーは床に
放り捨てられた。剥き出しの牙から涎がぽたぽたとベルガーの頬に滴り落ちる。
絶望で頭がくらくらする、世界が遠くなる、死ぬほどの後悔をする。
 一人が大きく口を開き、喉に被りついた。
「おごぁ!」
 剄動脈を断ち切られ、血が噴き出す。その時点で激痛によるショックと大量
の失血のため、ベルガーは死亡していた。
 後に残るのは肉体に残った痙攣のみだ。
「君君、そこから少し左に退いてくれないか。
 上手く彼の躰が撮影できない」
 少佐に常に付き従う最古参の部下の一人、通称“博士”がソニー製のビデ
オカメラを片手に、ベルガーを貪る吸血鬼たちに注文を付けていた。


「お疲れ様でーす」
 シュレディンガー准尉がけらけら笑いながら少佐の左横に歩み寄る。ちな
みに大尉はいつものように逆側を歩いているので、本来なら博士が居る位置
にシュレディンガーが居ることになる。
「准尉、見つからなかっただろうね?」
 シュレディンガーは胸を張った。
「バッチリですよー、何しろ皆で会議やってるテーブルの下でじーっとして
ましたから。だーれも気付きませんでした」
「うむ、なかなか賢いぞ准尉」
 褒められて、彼の頭部にある耳がふにゃふにゃと反応する。
「いやー、イノヴェルチの連中の作戦はばっちり露呈していたみたいですね。
 ただ、僕達のことはちーっとも話題に出ませんでしたけど」
「ヘルシングの連中もかね? 我々のことを話題に出さなかった?」
「そうですよー、あったまくるなぁ、もう!」
 シュレディンガーが地団太を踏む。
「仕方あるまい。観客はより派手な方を好むというものだ。
 今回の我々は脇役に過ぎない」
「むー、それはちょっと悔しいですよね」
「まあな。だが我々は楽しむことができれば、撃ち壊し燃やし犯し蹂躙し陵
辱することができればそれでいい。柔軟な思考を持たなくては、な」
「じゃ、今回は前哨戦ってことですよね」
「そうだな、前哨戦だ。五十年以上を耐えに耐えてここまで来たのだ。軽く
前菜(オードブル)を味わうというのも悪くない」
「これが前菜?」
 ドアが開く。少佐の姿に気付いた部下達が一斉に整列する。
 シュレディンガーが少佐の背中に向かって言った。
「やっぱりダイエットした方がいいと思いますよー、少佐」


「傾注(アハトウォング)!!」
「偉大なるドイツ第三帝国、『最後の大隊』大隊指揮官殿に全員敬礼!
 ジークハイル(祖国万歳)!」
 ラインボード・フォルトナー曹長が踵をかつんと鳴らし、右腕を掲げた。
 続けて整列した一千人余りの部下達も同じく、一斉に少佐に向かって右腕
を掲げる、一糸乱れぬ吸血鬼達の群れ。そして口々に叫ぶ。
「ジークハイル!」
「ジークハイル!」
「ジークハイル!」
「ジークハイル!」
「ジークハイル!」
 満足気な笑みを浮かべると、少佐も右腕を掲げた。
「ジークハイル」

「諸君。諸君らの中には何故あの国なのか、何故あの場所なのか。
 そう疑問に思う者もいるかもしれない。
 だが、今回我々は元協力組織、イノヴェルチがあそこで大戦争を起こすこ
とを知った、そしてヴァチカンばかりではなく、あの英国王立国教騎士団も
この愉快極まりないゲームの盤上に参加することが確定している」
 一千人が一斉にざわついた。
 少佐は拳を振り上げ力説する。
「ならば我々も参加せずにはいられまい。元同盟国を攻撃するというのはい
ささか心苦しいが――」
 ふるふると哀しそうに首を振り、胸の痛みを抑えるように手を当てる。
 今度は一斉に兵士達から笑いが起きた。全員が少佐のジョークだと理解して
いる。イタリアを、あの腰抜けどもの国を攻撃するのにあの少佐が心苦しい訳
がない。
「これも運命だ。恨むのならば真っ先に降伏した根性のなさを恨んでもらおう。
 もっともとうのイタ公どもは綺麗さっぱり忘れているだろうが、ね。
 さて諸君、諸君らの中に来るべき第二次ゼーレヴェー作戦のこの前哨戦とも
言える作戦に参加したくないという者はいるかね?」
 一斉の沈黙。
 それが解答だ。
 全員が唇の端を歪ませ――鉄面皮の大尉は例外で――心の底から嬉しそうな
表情を浮かべた。それを見て少佐も嗤った。
「それでは諸君、我等の力であのヴァチカンに地獄を出現させよう!
 そして神様をお出迎えといこうじゃないか」
 少佐は彼等に背中を向けた、大尉と博士がそっと脇に立つ。
 一千人が少佐の背中一つに注目する、口笛もざわつきも止み、静まり返る。
 彼等全員が少佐の指示を待っていた。
 やがて少佐が右腕を――上げた。
「征くぞ、諸君」
 一拍置いて、一千人の歓声が大爆発した。
 歴戦の勇士、吸血鬼の戦闘部隊が次々と飛行船に乗り込んで行く。
 この日、南米ジャブロー、豹の巣からヴァチカン公国に向けて一千人の吸血鬼
が飛び立った。
 

                ***


 燦月製薬の支社はヨーロッパにおいても各地に存在するが、実質イノヴェル
チの本拠地とも言えるのはフランスのプロヴァンス地方にある薬品工場である。
 厳重な柵が二重三重と張り巡らせ、ドーピング改造を施された猟犬がうろつ
き回り、工場の内部は人間外の吸血鬼たちが厳重に見張り続けている。
 勿論ここでは薬品の生産など行っていないので――実質、社員と呼ばれるも
のは全員がイノヴェルチの構成員で、その内四人に三人は吸血鬼だった。
 さらに財政難に喘ぐロシアから買い取った装甲車十台、武装ヘリ四機、挙句
に核弾頭ミサイルまで備えているとあっては、まさに難攻不落の要塞の呼び名
が相応しい。

 さて、その工場の地下深くで、イノヴェルチの中でもトップクラスの権力を
誇る吸血鬼達が一同に会していた。
 イノヴェルチの権力は創設者三人と、彼等が全員一致で認められ、この円卓
に加えられた死徒に集中している。
 その数十二人。
 ただし、先のチェルノボグでの戦闘によってモーガン卿は死亡しているので、
今回は十一人が集まったことになる。
 中東を支配する吸血鬼、マヌス・ニグリム。
 スペインで吸血鬼劇団を主催し、舞台で堂々と血を吸うことが趣味という男、
アーマンド。
 イノヴェルチをナハツェーラーと共に作り上げた最古参の死徒クローヴ。
 ロシアからは吸血鬼でありながら治癒技術に優れた温和な男、ヴァイランス
が神経質そうに眼鏡を拭いている。
 モーガン卿の友人であり、ナハツェーラーに次ぐ権力を誇るバイロン卿はナ
ハツェーラーの真向かいに座り、憎悪を露わにして彼を見つめていた。
 ルートヴィヒ・フォン・カルデンシュタイン伯爵はワイングラスに注がれた
血がどの人種のものであるか、隣の席に座ったペネロピ・チャーチウォード―
―相変わらず、若い娘の血を吸って美貌を保っている――とあてっこをしてい
た。
 そしてナハツェーラー、クローヴらと共にイノヴェルチという組織を作り上
げた“魔鬼”バレック。
 それからイノヴェルチのトップであるナハツェーラー、戦闘狂のギタリスト、
ジグムンド・ウピエル、そしてもう一人、ギーラッハに代わってイノヴェルチ
に加わって間もないがその実力は誰もが知るであろう“混沌”ネロ・カオス。
 恐らくこんなことは滅多にあるものではない、アフリカ・中東・ロシアなど
といった各地に散らばっている幹部達が集まったのは百年ぶりというレベルで
はないだろうか。
 キメラヴァンプの披露会とて、わずか二、三人が集まったに過ぎなかった。
 だが、今回はいささかそれとは趣を異なる集まりだ。三人を除いた全員の視
線が険しい、彼等の視線はただ一人に集中している。
「さて……緊急の集まりとはどういうことだね?」
 その一人がにこやかに全員へ疑問を投げかける。だが、そんな彼の微笑みも
険しい視線を和らがせるには至らない。
「それは我々の台詞だ、ナハツェーラー!」
 応じたバイロン卿がだん、とテーブルに拳を叩き付けた。呼吸が荒い、いさ
さかアドレナリンを分泌しすぎだな、とナハツェーラーは思った。
「まあまあ、落ち着きたまえ。まずは私の話を聞いてくれないか?」
「聞けると思うのか、貴様の与太話など!」
 カルデンシュタイン伯爵が叫ぶ。ワイングラスが揺れて血が零れた。
「下らぬ預言の書などに惑わされるとは、貴様らしくもない」
 バレックが言う、さらにバイロン卿はナハツェーラーを糾弾する。
「死んだフロストの甘言に乗ったか? 愚か者め!」
「我々は人の血液なしでは生きていけん。その人間を絶滅させてどうしようと
いうのだ、座して死を待つだけではないか……」
 クローヴが淡々と意見を述べる。
 次々とナハツェーラーに向かって言葉が放たれる、彼は困ったように笑いな
がら、両隣の男に救いを求めた。
 ナハツェーラーの右隣に座っているネロ・カオスは無関心に書物を読んでお
り、左隣に座ったウピエルはナハツェーラーの窮地をニヤニヤ笑って観察して
いた。
 ――さてさて、こいつはどうやってこのジジイどもを説得するのかね。
 援軍は期待できないと分かると、ナハツェーラーはため息をついた。
 ナハツェーラーはしばらく黙って彼等の批難に耳を傾けた。やがて彼等の罵
詈雑言が尽きたのを見計らって疑問を投げかけた。
「ふむ。君達の意見はよく理解した。では――これからどうするね?
 既に準備は整えてしまった。あのミレニアムとも連絡済で、後は私の号令を
待つだけとなっている。
 今更引き返すことはできんよ」
 ミレニアム、という言葉が彼等の怒りの火に油を注いだ。
「それだ! 我々が許せんのはあのミレニアムの戦闘狂どもと手を組んだこと
だ!」
「彼奴等は救い難い愚か者、あれが表に出れば、我々の存在すら危険に晒され
ることになる!」
「五十年前の事を忘れたか!? もう少しで我々は――」
「ヨーロッパに帝国を築き上げることができたかもしれんな」
 ナハツェーラーが言葉尻を奪い取った。
「なッ……」
 絶句する。
 幹部達は薄々気付いていたことに疑惑を、恐怖を覚え始めた。
「ナハツェーラー……あなた、一体どうしたというのよ……」
 ペネロピが呆然と呟く。
 元々自分達イノヴェルチ幹部の中で、もっとも慎重派だったのがナハツェー
ラーである。人間の国家と結びつくことが危険と見るや、多国籍企業に目をつ
けたのも彼だし、あのナチスドイツからの撤退をいち早く決断したのも彼だ。
 石橋を叩いても渡らないような慎重さ――臆病さと言い換えてもいい――が、
彼をイノヴェルチの長に満場一致で推した理由とも言える。
 それが日本からヨーロッパへ戻ってくるなり、この始末だ。
「何がお前を変えた?」
 吸血鬼が自分の持って産まれた性格を変えるのは難しい、道徳や倫理観とい
った性格を変える一因となるものが吸血鬼には通用しないからだ。
 ウピエルは滅びるその時までサディストであり続けるだろう。吸血鬼の性格
は即ち本質そのものであるゆえに、吸血鬼がある日人間愛に目覚めることは、
絶対にない。
 それと同じく、ある日臆病者だった吸血鬼が急に無謀極まりない作戦に率先
して動き出すなどまず有り得ないのだ。
「否。貴様、まさか――」
 精神操作、という言葉が彼等の頭に思い浮かぶ。ナハツェーラーは誰かに操
られているのだろうか? 精神操作を得意とするはずの彼が?
 だが、有り得ない話ではない。
 少なくともナハツェーラーがある日突然臆病者であることを捨てるよりは、
ずっと可能性が高い。
 だが、ここで問題は「誰が彼の精神を操作し得るか」ということだ。
 ナハツェーラーの脇にいる吸血鬼のどちらかだろうか。
「ウピエル! ネロ・カオス! まさか貴様等――」
 ウピエルは目をつむり、ギターを一度だけかき鳴らした。
「……まさか、何だよ?」
「……まさか、何かね?」
 う、と幹部達は呻いた。ウピエルは冷酷な瞳で全員を、ネロ・カオスは徹底
した無関心な瞳でぼんやりと彼等を見回す。
 彼等が本気になれば、まず自分達に勝ち目はあるまい。吸血鬼にも関わらず、
幹部の彼等は久しく戦闘というものに縁がなかった。ただただ、目の前に新鮮
な血液がうやうやしく運ばれるのを待つだけだった。
 だが、幹部達が言葉に詰まるのを見てネロ・カオスは再び書物に没頭し始め、
ウピエルも舌打ちして嘲笑うような笑みを見せると、ギターのチューニングに
関心を戻した。
 ナハツェーラーが言う。
「二人を糾弾しても無駄だ、私は精神操作など受けておらんよ。
 ……で、先の質問に戻るが。
 これから、どうするね?」
 誰もがその疑問に解答を見出せなかった。今更、止まることができるのだろ
うか。爆弾は既に点火しているのだ。
「無ければ、我々は行くぞ。時間の無駄のいい見本だな」
 まずナハツェーラーが立ち上がる。
「やーれやれ、ちったぁ口以外に何か動かせねぇのかね、このジジイども……
と、ババアは」
「……」
 ウピエルは吐き捨てるように会議の感想を述べて立ち上がり、ネロ・カオス
は無言でナハツェーラーの後を追った。
 自動扉が開かれる、そこから先はぼんやりとした灯りがついた真っ直ぐの廊
下しかない、廊下の終端には地上への直通エレベーターがある。
「ハン、クソつまらねぇ会議だったぜ」
「言うな、この会議にはそれなりに意味があった」
 尚も罵詈を続けるウピエルをナハツェーラーがたしなめる。
「意味ィ? 意味なんてあったのかよ。今の清く正しい話し合いってやつによ」
「ああ、ほら、あそこに意味がある」
 ナハツェーラーが廊下の先を指差した。
 そこに“意味”が立っていた。
「――?」
「……ふむ、彼……いや、彼女か、彼女は誰かね?」
 薄明かりだが、ウピエルとネロ・カオスの目は確実に彼女の姿を把握してい
た。
 ネロ・カオスが一瞬「彼」と間違えたのも無理はない。ほっそりとした肢体
に黒いスーツを着こなした彼女の首から下には女らしさが全く窺えない。
 だが、首から上には長く美しい黒髪と愛嬌のある顔立ち――特に素朴なそば
かす――が、彼女のあどけない少女のような雰囲気を強調している。
 けれど、彼女でもっとも目を惹くのは両肩に立てかけている武器だろう、古
臭いが意匠を凝らしたマスケット銃。
 ウピエルは新たに吸血鬼となったサイスという男の自宅で散々銃器類のコレ
クションを見せつけられた時、骨董品の類として彼女が持っているような猟銃
があったのを思い出した。
 廊下を塞ぐように立ちはだかる彼女と、ナハツェーラーが対面する。
「君が、ミレニアムの遣いだね?」
「左様で」
「名前は確か……リップバーン……」
「ウィンクル。リップバーン・ウィンクル中尉です。
 よろしくお願い致しますわ」
 
「ふむ、ではリップバーン中尉。後はよろしく頼むよ。
 先ほどは君達への罵詈を止められず、すまなかったね」
「いいえ、いいえ! 彼等のおっしゃることももっともですわ!
 私達は戦闘狂そのもの。少佐がいらっしゃればむしろ褒め言葉と受け取るで
しょうし、もちろん私もそうですわ」
 目を細めて、リップバーンは微笑んだ。
「後で部下に休憩室に案内させよう。
 謝罪として処女の血をごちそうしたいが、人種に好みはあるかね?」
「ユダヤ人以外なら、誰でも構いません」
「そうか、なら甘いワインの味がするフランス人にしておこう、極上の蜜のよ
うだぞ」
「ありがとうございます、喜んでご相伴に預らせて戴きますわ」
「では、リップバーン。後はよろしく頼むぞ。……ああ、そうそう。
 ついでに何だが彼等に伝言を頼まれてくれないか」
 ナハツェーラーは伝えるべき言葉を口にした。リップバーンは頷く。
「確かに覚えました、ではお任せを」
 鼻歌を歌いながら、リップバーンは彼等三人と逆方向に歩いていく。その先
には会議室しか存在しない。正確には会議室と、居残った吸血鬼達だが。
 ウピエルが言う。
「おいおい、あのアマはどこへ行くんだよ」
「どこへか? 決まってるじゃないか、彼女は彼女が所属する組織の名誉を回
復しに行くのさ」
 ウピエルの問いにナハツェーラーが笑って答えた。
 その言葉に、ウピエルはああ、と納得する。
「そうかいそうかい……俺もいっちょ手伝いに行きてぇなァ」
 愛用のギター、スクリーミングバンシーを見つめながらウピエルが言った。
「止めておけ、時間の無駄だ」
「無駄? あいつの得物見たかよ、あんなんじゃ全員撃ち殺すのに一日がかり
だぜ、いや、返り討ちにあっちまうかもな」
 マスケット銃は現代のスナイパーライフルの主流であるボルトアクションす
らしない、一発の弾を銃口の先に込めて撃つ、撃ち終わればまた一発弾を込め
る、その繰り返しだ。
「ではウピエル、お前なら何発であの場に残った連中を仕留められるかね?」
 ナハツェーラーは歩きながら彼に訊いた。
「……一匹一発、合計八発だな。予備の弾倉を使うまでもねぇ」
「ほぅ、そうか。だったらウピエル、お前の方が弾の無駄遣いをしているぞ」
「……何だと?」
 ウピエルが驚きと怒りで目を剥いた。ナハツェーラーは無視してエレベータ
ーに入り、二人も後へ続く。
 扉が閉まり、エレベーターが上昇を始めた。
「彼女の使う弾丸は常に一発だそうだよ」

 会議室は三人が去った後も重苦しい空気に包まれていた。
 どうすればいいのか、具体策を見出せない。
「……ともかく、私は同志を連れてヨーロッパから離れる。
 中東か、日本ならばまだ安全だろう」
 アーマンドが言う。
「私もアフリカに逃げよう、巻き込まれてはたまらん」
「それぞれの眷属を集めておこう」
「財産もね」
「私はよりによって拠点がスイスだ! すまんが一緒にヨーロッパ以外のとこ
ろへ匿わせてもらいたい」
 それぞれが自分の行き先を決め、ようやく彼等の会議も終了した。
「では、我等も解散しよう。ここに長居していると、ウピエルやネロ・カオス
が事を起こさないとも限らない」
「うむ」
 一人が立ち上がり、自動扉のボタンを押す。
 廊下を歩き出そうとした全員がぎょっとして立ち止まる。
「何者だ!」
 そう、扉を開いた彼等が目にしたのは、廊下に立ちはだかる死神だった。
「はじめまして! 私、ミレニアム“最後の大隊”中尉を務めさせていただい
ております、リップバーン・ウィンクルと申します」
 ミレニアム、という言葉に彼等は凍りついた。
「なっ……貴様……どうやってここに入り込んだ!?」
「どうやって? 普通に入り口からですけど?」
 きょとんとした表情で、あっさりとリップバーンは答えた。
「まさか……ナハツェーラーか!」
「そうそう、そのナハツェーラーさんからご伝言がありますわ。
 ええと、確か、えー……そうそう、思い出しました。
『こんな別れをするのは私にとって決して本意ではない。
 せめて君達が苦しまずに済むことを祈る』……と」
「別れ?」
「苦しまずに、だと?」
 その言葉を口にして、彼等は慄然とした。こんな伝言を彼女が伝えるという
理由は一つしかない。
「あら、さすが長く生きているだけあって英国野郎(ライミー)と違って勘が
よろしいですわ」
 にっこりとリップバーンは牙を剥き出して嗤った。
 恐怖にかられた彼等は会議室へ一歩、二歩と後退する。威嚇をすることもで
きずにおろおろ逃げ惑う。
 ――ああ、なんて情けないことかしら。何もやってないのに、これからする
ところなのに。
「ま、待て――」
 リップバーンが無造作にマスケット銃を彼等に向けた。
「待ちません。それじゃあ、ちゃっちゃとおっ死ね豚共」
 轟音が廊下に木霊した、マスケット銃から飛び出した弾丸は一番間近にいた
ヴァイランスの眼球に飛び込んで脳を破壊すると、直角に折れ曲がり、次に近
くにいたアーマンドの口から後頭部を貫通した。
「な、なんだ!?」
「弾丸が!」
 背中を向けて逃げ出したクローヴの心臓を破壊した弾丸は、無謀にもその弾
丸を掴もうとしたバレックの手を打ち砕いた後、Uターンして脊髄を破壊。さ
らに後頭部から入り込んだ弾丸を取り出そうと頭を滅茶苦茶に掻き毟るマヌス
・二グリムの食道を通り抜けて、胃袋に到達すると内臓器官を完全に破壊した。
「ひぃ!」
 驚愕の表情を浮かべたペネロピがカルデンシュタイン伯爵の両肩を掴む、口
を開くとそこから弾丸が飛び出し、彼の口から後頭部へ貫通した、死のキス。
 最後にリップバーンに飛びかかったバイロン卿の脳天から腸まで破壊して、
ようやく弾丸は動きを止めた。弾丸は時間でも止まったかのように、宙空に浮
かんだままだ。
「さて、食事にさせてもらおうかしら」
 リップバーンは見るも無残な惨状となった会議室に、背中を向けて歩き出す。
 最後に飛びかかろうとしたバイロン卿の指がピクリと動いた。
「お、のれぇ!」
 立ち上がる、銀の弾丸を食らった訳でもないのに傷の修復が追いつかない。
 だが、今の彼はそんなことを考えている場合ではないし、余裕もない。まず
彼は何よりも先にあの弾丸の、あのマスケット銃の操手を倒さなくてはならな
い。
 足がもつれて、無様に倒れ込む。
 叫びに反応したリップバーンがのんびりと振り向いた。
 彼の姿を見て、つまらなそうに鼻で笑う。
「お馬鹿なじいさんね。有象無象の区別なく、私の弾丸は容赦しないわ」
 宙空に留まっていた弾丸が再び動き出した。
「なっ……!」
 恐怖を感じる暇もあればこそ。
 今度こそ、弾丸は彼の顔面を粉々に粉砕した。
 リップバーンは改めて背中を向けると、深呼吸を一つ。会議室の彼等のこと
を綺麗さっぱり忘却した。
 今彼女の頭を占めているのはこれから味わう予定のフランス人の処女の血だ
けだ。


               ***


 ざあん、と緩やかな波の飛沫がようやく再生しかかってきた顔にかかった。
 不快な感触に唸りをあげるが、今の彼を恐れる者は誰もいない。
 唯一彼を見ている存在である魚は、彼を恐れない。
 カイン。
 神。
 いや、神の紛い者か。
 彼は今、死にかけている。記憶も感情も吹っ飛び、自分が今なぜここにいる
のかすら最早彼には定かではなかった。
 ヘリコプターからソーニャ・ブルーと共に落下した口から下の部分は既に死
んでいた。
 今の彼はダークマンのミニガンで吹き飛ばされたとき、脳味噌を撒き散らし
ながら海に落ちた頭の部分である。
 論理的な思考は破壊されかかった脳では不可能なので、カインは本能に身を
委ねていた、ただ生きたいと強く願う。
 彼の頭をぐるぐる巡るのは三つの思考だった。
 即ち彼の欲望であるところの「生きたい」。
 彼の欲望を充足させるための目的である「躰を手に入れる」。
 そして彼の「躰を手に入れる」という目的達成のための手段が「ヴァチカン
に行く」。
 カインが考えるのは、この三つだ。
 カインは、プロトタイプだ。

 かつて肉体に神の一端を降臨させたフロストはブレイドに破裂させられた。
 だが壁や床に付着したフロストの血液は、イノヴェルチが回収した。
 それを元に、神の肉体の遺伝情報を取得。フロストがかつて神を降ろして得
た力は銀・陽光・ニンニクといった吸血鬼の弱点全てを打ち破るという、正に
圧倒的なものだった。
 さらに、イノヴェルチはブレイドの同志である吸血鬼ハンター、ウィスラー
に爆破された暗黒図書の一部を回収。そこから神の魂を降臨させる儀式や蘇生
のための儀式の方法を発見した。
 現代のコンピュータの情報処理能力は「予言書を解読できるものか」と嘯い
ていたドラゴネッティの想像を遥かに越えていたのだ。
 もっともそれも、ナハツェーラーの言語の基礎知識がなければ、とても今世
紀中に解読を終えることは不可能だっただろうが。
 ともあれ、吸血鬼は自分達の歴史を――ネロ・カオスやアルクェイド・ブリ
ュンスタッドすら産まれてないその時代に触れることができたのだ。
 もっとも当の吸血鬼達には、自分達の歴史など無関心だっただろうが。
 そして日本においてリァノーン脱走事件、彼の直系のヴェドゴニアによる燦
月製薬襲撃事件が立て続けに起こり、ナハツェーラー・ウピエルといった実動
部隊を率いていた吸血鬼達が多数失われた。
 苦慮した幹部達は、半信半疑で蘇生の儀式を行い(幸い条件の一つである屍
体の灰は陽光に照らされることもなく無事だった)、かくしてナハツェーラー
とウピエルは復活した。
 思えばこの時既にナハツェーラーの挙動はかつての臆病者のそれとは、まる
で違うものだった。常に自分の地位を脅かされないか、とおどおどしていた男
は既に存在していなかった。
 気付いていれば、もしかして魔弾の一撃を脳天に喰らうことはなかったかも
しれない。
 ともあれナハツェーラーは動き出した。

 神の肉体の遺伝情報から、神の魂を降臨させるに足る肉体を再構成。
 幾度かの失敗の末、プロトタイプが誕生した。だが、ナハツェーラーは彼を
見世物にするために産み出したのではない。
 彼に課せられた任務は破壊などではないのだ。
 彼が果たすべき目的は“真の肉体の追跡”と復活の儀式に使用される“生贄
の可否”。
 プロトタイプに降臨した神の魂は、肉体の器の小ささのあまり歪み、いびつ
で、やはり神とは呼べない化物だ。だが、それでも彼は神の記憶、神の精神を
有していることは間違いない。
 だから彼には、神を復活させるに相応しい力を見極めることができた。
 そしてダンピィルのモーラ、真祖のアルクェイド・ブリュンスタッド、死徒
であるリァノーンはそのカイン復活の為の鍵として、彼に選ばれたのだ。

 それが果たされた今、プロトタイプの目的は“真の肉体の追跡”のみ。
 神の真の肉体、カインの真の肉体の居場所を訊いた時、ナハツェーラーは笑
ったものだ。
「なんたる皮肉!」
 そう、カインの真の肉体が眠る場所はあの“予言の丘”、キリスト教徒の聖
地、ヴァチカン市国である。
 そして今、プロトタイプの右腕は本能のみでもって自分の真の肉体を追跡し、
ヴァチカンの何処にあるかを付きとめるだろう。
 カインの真の魂と真の肉体が復活するならば、カインを現世へ案内するため
に巨大な門が開くと預言書は伝える。そしてその門が開けばカインの躰の間を
縫って滅消させられた無数の吸血鬼達も蘇る、と。
 彼等が闇に紛れてひっそりと暮らしていた時代は終わりを告げる。
 そう、聖地ヴァチカンに吸血鬼の千年王国が誕生するのだ。


 さて。いびつな魂が残留するプロトタイプの頭、彼もまた生き残りに必死だ
った。彼の頭部から溢れる血の匂いを嗅ぎつけて、鮫が襲いかかる。
 しかし、その鮫は彼の生き残るという執念に敗北するだろう、鮫の血を吸い、
肉体を同化させてまでも、彼はヴァチカンに辿り着こうとする。
 そしてその執念は間違いなく実る。










                           to be continued




次へ


前へ

indexに戻る