私は、私の体のなかにひとりの姉を住まわせている。
 私が舞踊作品を作るべく熱中するとき、私の体のなかの闇暗
をむしって、彼女はそれを必要以上に食べてしまうのだ。

              「犬の静脈に嫉妬することから」













 闇の塊と、光の塊がモザイクのように彼女の視界に飛びこんでくる。
 闇の塊は光のそれと違い、微妙に姿形が崩れていた、かつてそこに住んでい
た人間が存在しないという証だろう。
「呆気ないものね」
 これが世界有数の大都市の成れの果てだ。力ある者の剥き出しの欲望と戦闘
本能の前では、人間の倫理など何の意味も持たない。人間であった頃から抱い
ていた考えは既に確信へと移り変わっていた。
 ――そうなんですよ、ペイトン・ウェストレイク教授。
 彼女は恩師との再会を心より願い、微かに頬を歪ませて笑った。
 しばらくして、ヘリ本来の揺れとはまた別のわずかな振動を感じ、顔を顰め
る。ヘリのパイロットは怯えた顔でチラリと彼女を窺った。
「安心なさい。あれはご就寝中よ。ただの“寝返り”ね」
「はぁ……」
「いざとなったら切り離しなさい、こんな宙にぶら下げた状態じゃ私達の手に
は負えないシロモノよ」
 諦観したように呟いた。
 吸血鬼になってからも、いや、吸血鬼になったからこそ、下のあれが核弾頭
より厄介な存在だということが認識できる。動くたびに、掌に汗が滲んだ。
 だが今は安心だ、少なくとも完全冷却されたタンクの中で眠り続けている間
は――殺されることはない。
「ドラムのリズムに微睡む大神ね、まるで」
 大神もアレもいつか目覚める。そして目覚めたならば彼がやることは一つ。
 単純で、愚直なまでの破壊行為と殺戮行為。
 今回“彼”が召喚されたのは、実にどうしようもない理由だった。


 ――精神的疲労の解消。


 有り体に言ってしまえば、このバケモノのストレス解消の為だ。
「馬鹿馬鹿しすぎるわね」
 動物心理学とやらは、彼女の専門外だった。そもそも下のソレを「動物」の
範疇に入れていいものかどうか。
 しかし万が一、いざという時に手際良く、コントロールを失われることなく、
迅速に動けなければ、作戦が水泡に帰す恐れがある。
 多少遊ばせておいて、そういう危険性が失われるのならば、それに越したこ
とはなかった。それに、このバケモノ――通称“プロトタイプ”の戦闘データ
も最初の戦闘だけではまるで不充分だ。
 このキメラヴァンプの詳細な戦闘力を知っておくことは、後々絶対に必要で、
戦闘の機会を彼女としては逃したくなかった。
 そういう点に置いて吸血鬼の勢力が大きく、人間が多数生き残っており、な
おかつ第十三課や王立国教騎士団といった厄介な連中ではなく、有象無象の吸
血鬼ハンターどもしか居ないニューヨークは絶好のテスト地点といえた。
 彼女は胎内に流れを感じていた、世界の流れ、運命の流れを。
 その流れは最短距離で彼等の最終目的へと向かっている。興奮のあまり、躰
がむず痒くなるほど、血の渇きを覚えた。
 最終目的を知るのはイノヴェルチの中でもわずかな人間しかおらず――彼女
はその内の一人だった。誇らしさと恐ろしさがないまぜになった気分の彼女を
乗せて、ヘリは静かにニューヨークの摩天楼を潜り抜けて、目的地へと――イ
ンフェルノの元へと向かった。


                ***


 理性を取り戻したダークマンが廊下を駆けて行く。破壊された扉が否が応に
も彼の焦燥を掻き立てる。が、彼の悪い予感は無事に裏切られた。
「――何があった?」
 ドライが沈痛な表情で、彼に先程までの出来事を語り出す。モーラは顔を伏
せたまま何も語らなかった、けれどその悲しみに暮れる表情が雄弁に何があっ
たのかを物語っていた。
「――そうか」
 とだけダークマンは言った。ふう、と感嘆のため息をついた。
 吸血衝動に打ち勝った人間(今は既に死んでいるが)などという存在は極わ
ずかでしか知られていない。吸血鬼への進行がまだ軽度だったのだろうか? 
 ダークマンはフリッツのことを思い返した、とてもではないがそうは思えな
かった、あれは最早完全な吸血鬼――どちらかというと喰屍鬼に近い――あそ
こまで堕ちていて、尚踏み留まることができたのか。
 ――いいな。
 素晴らしき兄妹愛、素晴らしき意志の強さ、素晴らしき人間としての誇り。
 ――死んでしまえば何の意味も持たないが。
 心の奥底でダークマンが囁いた、心の内のペイトンはそれを躍起になって否
定していた。


 モーラが言った。
「私、フリッツを迎えに行くわ」
「駄目だ」
 間髪入れずにダークマンが否定する。続いてドライがモーラに喋りかける。
「そうだよ、モーラ。アンタのお兄ちゃんは命を賭けてアンタを逃がそうとし
たんだ。そこへアンタがしゃしゃり出たら、アイツの命の意味が……ないよ」
 突然走り出すのを防ぐかのように――ドライは無意識だったのだが――彼女
はモーラの服をしっかり掴んで離さない。
「心配するな」
 ダークマンが子供をあやすように、ぽんぽんとモーラの頭を叩いた。
 きょとんとした表情で、モーラがダークマンを見上げた。その表情は歳相応
の愛くるしさに満ちていた。
「私が行こう」
「――本気?」
 ドライが眉をひそめた。
「まだやるべきことが私には残っている、そのついでだ」
「やるべきこと?」
「ここを跡形もなく吹き飛ばす、お前は」
「アタシは――」
「お前はモーラを責任持って送り届けろ、できるな?」
 ドライの反駁を許さず、畳みかけるようにダークマンは言った。不承不承、
彼女はその提案を受け入れる。
「聞いた様子だと、もしかすると治療が間に合うかもしれない」
 彼にしては心もとない言葉だった、内心では諦観の念が混じっている。半ば
諦めている。無論、モーラもそのことには気付いている。
 だけど。
「お願い……」
 彼女には選択の余地など残されてはいなかった。
 ダークマンはハンマーを――モーラは自分のハンマーが何故ここに有るのか
一瞬訝しんだが、そのことを問い質す暇もなく――担いで部屋から飛び出し、
フリッツの後を追い始めた。
「……アタシ達は行こう」
 ドライはモーラの手を握ると、彼女を引っ張るように走り出した。


                ***


 躰がこれっぽっちも動かなかった。
 感覚の遮断、虚ろな夢に浮かぶ自我――今の自分が出来損ないの木偶である
と痛感させられる。恐らく目の前の男がわざと“解放”してあるに違いない口
のみが達者に動いた。
「くそったれ」
 憎々しげにそう吐き棄てた。しかし、そんな呪詛は返ってマグワイアを悦ば
せるだけに過ぎなかった。
「気分はどうだ?」
 くい、と人差し指を動かして、マグワイアはフリッツの躰を解放した。
 瞬間――。
 フリッツが勢いよく腕を振り下ろした。マグワイアの左肩から右脇腹までの
切断を狙う、今の彼が全力で行ったのならば鉄の扉ですら易々と切り裂くこと
ができるだろう。
「フン」
 パチン、とマグワイアが指を鳴らした。それが彼の最高にシンプルな防御法
だった。鳴らした瞬間、フリッツの腕はまた呪縛された。
 彼の手刀は、狙った左肩3センチのところで止まっていた。
「ヤロ……ウ」
 フリッツのたまらなく悔しそうな表情が、マグワイアの嗜虐心を更に駆り立
てる、どの道ただ殺しただけでは飽きたらない。
「おい」
 彼の後から駆けつけてきた部下に呼びかける。
「こいつの腕をもぎ取れ」
「はっ」
 部下は嬉しそうにフリッツの腕に手をかける、彼の瞳が恐怖に染まるのを見
て、マグワイアは心の底から愉しそうに笑った。
「……あァァァッァァァァァァッァ!!!」
 苦痛の絶叫が廊下に響き渡った、フリッツの耳に自分の腕が引き千切られる
不快なメロディが叩き付けられた。
 血液が壊れた消火栓のように噴き出す、血の渇望が彼の体内をぐるんぐるん
と巡回し続ける。もぎ取った部下が腕を放り投げる。
 千切れた腕から、折れた上腕骨が食い終わったチキンのような滑稽さでその
姿を覗かせていた。
 嘲笑。
 冷笑。
「もう一本」
「ぐっ……」
 肉と皮の弾ける耳障りな音、脳に直接電流を叩き込まれたような夥しい苦痛、
もう一度フリッツが悲鳴をあげた。
「お次は……なあ、君。どこがいいと思う?」
 マグワイアが部下達に尋ねると、彼等は目を輝かせてこう答えた。
「首」
 胴体をゆっくりゆっくりと吸血鬼の強靭な力が引っ張っていく。叫ぼうと口
を開いた瞬間、マグワイアは二本の指で彼の歯をぐいと押し上げた。
 耳障りな口笛のようにシュウシュウと喉から空気が漏れた。
 フリッツは確かに音を聞いた。
 自分の胴体が千切れるその音を。
「――――――――――――――――」
 目尻から涙が溢れて止まらない、
 苦痛、
 苦痛、
 苦痛、
 苦痛、
 苦痛、
 苦痛、
 苦痛、
 苦痛、
 マグワイアが指を離した。
「   」
 声も出ない、彼の声はとうに失われてしまったらしい、マグワイアは同情す
るように肩を叩いた。
「チャンスをやろう」
「  …… …… ?」
「私に付き従うか?」
 顔をフリッツの肢体の切断部分から溢れた血で染めながら、マグワイアは忠
誠を誓った下僕に対する君主のような労わる笑みを見せた。
 首をもがれたフリッツは、マグワイアの腕が掴んだ髪の毛だけで宙空に吊り
上げられている、
「ノーなら、私はこの手を離す。死ぬまで地べたに這いつくばっていろ。
 だが、イエスなら――」
 フリッツの耳にそっと囁いた。
「私の血をやろう、お前はまた前の通りに動くことができる」


 ぜぇ、ぜぇ、自分の吐く息が血生臭い。
 その癖、四肢をもがれた躰は新鮮な血液を求めてやまない。目の前の男の靴
を舐めたくてたまらない、彼の言うことに従いたくてたまらなかった。
 だが、


「ァ……」


 パクパクと口を酸欠の金魚のように開いた、彼の言葉を聞き逃すまいと、ワ
イズメルが耳を傾ける。
「答えは?」
 フリッツは大きく息を吸った。

 ――コタエハ。


「ノーだ!」


 掠れた声でそう怒鳴りつけると同時に、無防備に晒していたマグワイアの
喉笛に噛み突いた。彼の牙は動脈を切り裂いて、血液を壁に撒き散らした、ワ
イズメルは絶叫しながら、首を振り回す。
 慌てて部下達がフリッツを引き剥がそうとする、既に物体に過ぎなくなった
胴体を放り投げフリッツの首を掴み、無理矢理引っ張ろうとするが、ワイズメ
ルが苦痛のあまり暴れるので、彼の首を掴むのもままならなかった。
「アァァァァアアアァアァアァァ!」
 マグワイアが自身の躰を振り回すたびにフリッツの首から血が派手に飛び散
る、フリッツが飲み込んだ血液は切断された気管から噴き出していた。
「引き剥がせ!」
 慌てて部下がマグワイアを抑えつけようとした。
 突然の銃声。
 彼等の躰は次々と吹き飛んで行く。混乱した彼等の前に、黒衣の男の突きつ
けたショットガンの銃口が突きつけられた。
 それでようやく何が起きたのか、何が起こるのか、どうすればいいのかを理
解する。しかし。


 もう遅い。


 銀製の散弾が彼等の頭と躰を次々に貫き、灰に変えていった。
「……」
 弾丸を再装填しながら、彼は床に蹲った一人と、一人の残骸を見た。刹那、
助けようと思ったが、その凄惨な様子を見て首を振った。とても、助けること
はできそうにない。
「すまんな」
 首だけになって、マグワイアに食いついているフリッツにそう言うと、彼は
目だけをぎょろりと動かした。
 ――どうやら、「俺に構わずにさっさと行け」ということらしい。
 ダークマンはそう判断し、二人を置いて立ち去ろうとしたが、何かを思いつ
いたように彼等の元へ引き返してきた。
「……念の為だ」
 ダークマンが握り締めているソレを見ると、マグワイアは俄かに青ざめて、
「やめてくれ」と掠れた声で懇願した。
 首だけのフリッツは二ヤリと笑い、ダークマンは笑わずに無言で首を横に振
った。手加減無用。
 ぶおん、と風を切る音。
 マグワイアが恐怖で目を見開き――。


 ダークマンが床をハンマーで四度叩いた時、マグワイアの両腕と両脚は機能
を完全に停止していた。


 今やマグワイアは力なくフリッツの首を引っ張る死に掛けの亡者(おかしな
表現だ)に過ぎなくなっていた。
 力なくじたばたするマグワイアを無視して、ダークマンは帽子を脱いで片膝
を突いた。
「君の勇気と行動に敬意を表する」
 最後まで人を棄てず、妹の為に首だけになっても闘い続けたこの吸血鬼ハン
ターに、ダークマンは心からの言葉を贈った。
 フリッツは沈黙を守った、聞こえていないのかもしれない。恐らく自分の牙
に全精神を集中させているのだろう。
「私は行かねばならない」
 その言葉に、フリッツは目をぎょろりとダークマンの方へ向けた。
 ――意識の混濁がかなり激しいようだ、最早私が誰で、何であるのかすら解
らないのかもしれない。
 しかし、フリッツの目は訴えていた、血を赤黒く濁った眼球から涙のように
溢れさせながら、ダークマンに向かって訴えていた。


 モーラヲタノム


 彼が言いたいのはそれだけだったし、ダークマンが彼の表情から受け止めた
メッセージもそれだけだった。
 ダークマンは頷いた。
「分かってる」
 立ち上がって、ダークマンは歩き出した。突然携帯電話が振動を始めた。
 ポケットから取り出し、耳に当てる。
「脱出した、指定の場所で待ってる」
 囁くようなドライの声がしたかと思うと、すぐに切れた。
 了解、という暇もない。
 ――やれやれ。
 頭を振って走り出――そうと思って、両開きの扉の前で立ち止まった。
 地図を頭に思い描く。
「……マグワイアの部屋、か?」
 何の気なしにノブを回して押した、油を大量に塗りたくっているのか扉は音
一つ立てずに滑らかに開く。
 暗い。窓には緞帳のように分厚いカーテンがかかっている、手探りで電灯の
スイッチを探した。この館はマグワイアが人間だった頃に建てられたものだ。
 使われていようがいまいが、電灯をわざわざ破壊はしないだろう。
 わずかな突起を手が見つけた、それを押す。
 どんぴしゃり。
 しかし、ダークマンの期待はすぐに失望と変わった。マホガニー製のいかに
も金がかかってそうな机の上には書類一つすら置いておらず、他に目につくも
のといえば、羽根ペンと、クラシックなつくりの電話。
 客を出迎える為のソファーは押し潰すと際限なく腕が沈み込んだ。
「まったく」
 英国も米国も貧富の差が激しいったらありゃしない。
 ダークマンはソファーを蹴り飛ばしてから部屋を出ると、背後から突然ベル
が鳴り響いた。
 ぎょっとして振り返る。
 電話がわずかにその身を震わせている。近づいて受話器を取った。
「――」
 沈黙。
 受話器の奥から声が流れ出す。
「マグワイア? ナハツェーラー様から聞いてるわね。
 ディスクと試験体は準備した?
 私が今からそちらに――」
 馴染み深い、耳に染み渡る声だった。それと同時にあの夜から何度も何度も
頭にリフレインしたシーンが脳内で上映を開始する。


 下卑た嗤いを浮かべる屈強な男達。
 背後で行われている陵辱にはまるで無関心そうに、パソコンからデータを集
め続ける女。
 血を吸われて成り立ての喰屍鬼に堕ちた彼女。
 それを囲む男達、一人一人順番に躰を重ねていく。時に気まぐれで目を抉り、
指を引き千切り、腹を裂いて彼女の内臓を掻き出しながら。
 苦痛の悲鳴と、快楽の嬌声がごちゃ混ぜになった奇妙な音が彼女の喉から吐
き出される。
 自分はといえば何もできなかった、何もしなかった。眼前の凄まじいまでの
暴力を前に精神が現実から遊離しかかっていた。
 気付いた男に無造作に頬を張られる、軽く張られたはずの頬の激痛が自分を
現実に引き戻した。
 余りにも理不尽すぎる暴力、自分はとても悲しかった。
 それから。
 怒りがゆっくりと膨張して――。


「……聞いてるの? ワイズメ――」
 何も言わずに電話を叩き付けた、叩き付けた後で何か言うべきではなかった
かとわずかに後悔する、そしてそれ以上の怒りをぶちまけようと机を引っ繰り
返した。
 それから吼えて電話を窓に放り投げた、緞帳にぶち当たったそれは中途半端
な音を立てて床に転がり、それが怒りに拍車をかける。
 電話にハンマーを叩き付けて粉々に破壊した、机を拳で殴る。ギシギシと机
が悲鳴をあげて、マホガニー製の高級机にひびが入った。
 机の引き出しを掴んで一気に引っ張り出す、中身が入ったままのそれを机の
角に叩き付けた。
 そしてその引き出しもろとも机が完全に破壊しようとして、ぶちまけられた
引き出しの中身から複数のMOディスクを見つけた。


 ――「ディスク」と、「試験体」


「……」
 怒りが潮のように引いていく、とりあえずハンマーを勢いよく扉に投げつけ
ることで発散させた。それから、MOディスクを掴んでポケットに捻じ込む。
 怒りは既になく、代わりにディスクへの好奇心と彼女への復讐心が滾った。
「キリエ――」
 彼は諸井霧江という女にとっての、手錠であり、拳銃であり、法典であり、
警察官であり、刑事であり、判事であり、陪審員であり、死刑執行者であった。
 弁護士は要らない。
 検事も要らない。
「復讐刑を執行するのは私だ」
 ダークマンはほくそえんだ。


                ***


 ダークマンが走り去って随分経った。マグワイアの両腕はようやく肘の部分
が再生し始めた腕を使って力なくフリッツの頭部を殴る。
「外れろ! 外れろ! 外れろ!」
 だがフリッツの牙は今やマグワイアの首と一体化しつつあった、おまけに今
もなおその力は緩まるどころかますます強まり、深く深く食い込んでいく。
 マグワイアはようやく弱々しい抵抗を止めた。
「なぜ……なぜ、離してくれない? なぜだ、なぜだ、なぜだ……」
 断続的に起こる篭った爆発音一つ一つが、館の確実な破滅を刻んでいく。
 ――いやだ、おれは、こんなところで、しにたく、
 そうしてようやくマグワイアは気付いた、フリッツの瞳からはとうに光が失
われていることに。にも関わらず、彼の顎は未だに彼の首を捕らえて離さない。
「しんで……る?」
 館が震動する。
 崩壊の刻だ。
 しかし、マグワイアにとっては何もかもがどうでもよくなった、それより目
の前の不可解な現象を解明したかった。
「なぜ……? なぜ貴様は灰にならないんだ!」
 光を失った瞳は、今もなおマグワイアを睨み付けたままだ。しかしフリッツ
は死んでいるはずだった、なりたての吸血鬼が首を切断されて無事であるはず
がない。
 やがて、怒鳴る気力すら失せてマグワイアは躰を横たえた。顔色は透き通る
ような蒼白。血液が大量に流出した証だ。
「わたしは、しぬ」
 厳然たる事実と無限の疑問を胸に抱きながら、マグワイアは自分の城の崩壊
をぼんやりと眺め続けていた。


                ***


 ドライにとっては、ダークマンがきちんと電話に出ることができた、という
だけで充分だった。最小限の報告だけを済ませて電話をさっさと切る。もっと
もいつ戦闘状態になるかどうか分からない相手に長話をする気も起こらなかっ
たが。
 彼女は今、不運にもインフェルノの近くにあったというだけで廃墟と化した
カフェテリアに身を潜めていた。無論、手に手を取り合って脱出したモーラと、
それからカレンも共にいる。埃が渦巻くその店内で、ドライは所在なげに辺り
をぼんやりと見ていた。
 カレンはモーラと向かい合い、難しい顔を突き合わせて何やら難しい会話を
繰り広げている、専門用語だらけの会話を断片的に分析すると、何やら吸血鬼
についての会話をしているようだ――。
 ――やめやめ、盗み聞きなんてアタシの趣味じゃないや。
「周りを見てくる」
 そう二人に言って、壊れかけのドアをそっと開いた。人の気配も怪物の気配
もなし、異常もなし。
 ちょっとした散歩気分で、ドライは店の周りを歩き出した。
 耳を澄ます、大地が震えて咆哮した。
 きっと、あのクソ忌々しい館が崩壊した音なのだろう。
 ドライのその予測は正しかった。ダークマンの時計仕掛けのオレンジは、館
のあちこちを一斉に吹き飛ばし、ビルの爆破のように芸術的な崩壊を起こして
いた。


 モーラは目の前の元血液学者であるカレンに自分の事を告白した。
 カレンは驚きもせずに受け入れ、逆にモーラに質問を返す。
 どういう状況下で貴女はダンピィルになったのか。
 何年に産まれ、どちらが人でどちらが吸血鬼なのか。
 回復力はどれくらいか? 身体的強さを具体的数値で表すことはできるか?
 モーラはその医者みたいな(実際彼女は医者のようなものだ)質問に立て続
けに答えた。過去を話したり思い出したりするのは常に辛さがあったが、彼女
の機械的な質問の仕方のせいで、かえって落ち着いて答えることができた。
 話し終わってしばらくして、カレンが言った。
「治せるかもしれない」
 久しく味わうことのなかった希望という果実は思ったより味気ないものだっ
た。理由は一番に喜んでくれるべき人間が存在しないからだろう。
 カレンは以前から交流のあるヴァンパイアハンターであるブレイドを例に挙
げ、彼の治療薬の事を話した。
「貴女は彼とはその……産まれ方に微妙に差異があるから、ブレイドの治療薬
をそのまま使うという訳ではないけど――大丈夫、何とかしてみせるわ」
「うん……」
 モーラは沈んだ表情のまま、その提案を受け入れた。カレンが同情した仕草
でモーラの手を握る。
「キャル――ドライから大体のあらましは聞いてるわ、辛かったでしょう。
 けど、もう貴女はこういう世界に居るべきではないのよ」
「……にを」
 呟きにカレンは耳を澄ませる。
「分からない……私は、いったい、何をすればいいのか――」
 モーラは今にも涙を零しそうな瞳でカレンを見た。
「私の力がなくなったら、誰が私を必要としてくれるの?」
 沈黙。
 カレンはその問いにとうとう明瞭な解答を見出すことができなかった。


                ***


 ヘリコプターが崩壊した館の上を飛び回っている。
「やれやれ」
 何という有様だろう。一夜だ、たった一夜経つか経たないかの内に、この館
は完全に破壊し尽くされたらしい。
「私が先に降りるわ……貴方はゆっくりと下のデカブツを降ろしなさい」
「了解しました!」
 パイロットはわざわざ振り返って敬礼の仕草を見せた。
「……あれ?」
 白衣と黒いミニスカートの彼女――諸井霧江はポケットに無造作に手を突っ
込んだまま、ぶらりと開いたドアから飛び降りた。
 パイロットは驚きのあまり目を剥いた。
 人間ならば、体勢を崩さずに飛び降りることも、瓦礫の上にバランスを保っ
て着地することも、そもそも地上五十メートルから飛び降りて無事でいられる
はずもないのだが、その全てを彼女はやってのけた。
 人間ではなく吸血鬼だから、という単純な理由によって。
 周りを見渡す、勿論破壊した者はとうにこの場に残ってはいまい。もっとも
彼女にとっては誰がこの館を破壊したのか、などという事はあまり大したこと
ではない問題だった。
 それよりも、重要な事が一つあった。
「うぇ……」
 呷き声。
 聞き覚えのある声だった。
 凸凹で今にも崩れ落ちそうな瓦礫の山の上をしばらく歩いて探す。
 ――見つけた。
 その吸血鬼は体の大部分――要するに顔の一部分を残して、軒並み瓦礫の山
に押し潰されていた。顔面は蝋のように白く、相当量の血を失ったことは素人
でも推測できる事だった。
「あら、生きてたの?」
 驚くこともなく、平然と彼女は話しかけた。
「ちょうど……よかった……ち、ちが……」
 欲しいとは言えなかった、その前に彼の顔面に恐ろしい位鋭く尖ったピンヒ
ールの踵が突き刺さった。轢き潰された蛙のような情けない呷き声。
「その前に私の質問に答えなさい。“ディスク”と“彼女”はどこ?」
「ちを」
「答えなさい」
 突き刺さった踵の部分で、マグワイアの眼窩を抉った。
 激痛のあまり、マグワイアが躰全体を動かして暴れた――瓦礫が震動し、細
かい欠片がぱらぱらと落ちただけに留まったが。
「でぃすく、しらない……あ、いつは……つれていかれた……よう…で…」
「連れ去られた? ……ふうん、なら、まだ生きてるのね」
「は、い……つれていった……ぶろんどの女……元、ふぁんとむ……もう一人
は……なまえ、しらないけど――」
 言葉を切った。
 霧江は耳を澄ます。
「ほうたい、の、おとこ――だ、だぁくまん」
「ダークマン――そう、ペイトン、彼ね」
「なまえ、しらな……」
「ありがとう、ゆっくりお休み、マフィアさん」
 彼女は突き刺したピンヒールを引きぬき、抉った瞳にキスをした。
 そして歩き出した。
「ち、を――」
「心配しないで」
 振り返って微笑んだ、唇の片側だけを歪ませた醜悪な微笑み。
「もうまもなく朝が来るわ、能無しらしくおっ死になさい」
「そ、んな」
 マグワイアの悲痛な訴えを無視して、彼女は思考に取りかかった。
「やれやれね、まずは」
 “プロトタイプ”の試験テストと、駒集めからか――。









                           to be continued



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