お前が俺から奪った物は、もう元に戻らない。
                 ――「フェイス/オフ」










 玲二はただ見ていることしかできなかった。
 法服の少女は飛び掛かるクロウディアを落ち着き払った様子で受け流す。
 体を引き裂こうとした彼女の爪を手に持った黒鍵で叩きのめす。

 玲二が驚くのはその動き。
 まさに神速という言葉に相応しい身のこなし、攻撃に対する神懸り的な反射
神経。
 クロウディアは一方的に追い詰められていた。
 それでも彼女は片手に抱いたエレンを放そうとしない。
 クロウディアが後ろに跳んで間合いを取った。
 法服の少女は剣を突きつけ、言い放つ。
「いい加減、その女の子を解放したらどうです? まさか、彼女を抱いたまま
勝てると思っているのですか?」
 正論だ。
 玲二にはこれ以上ないくらい正しい考えに思われた。
 だがしかし、クロウディアはエレンを放そうとしない。
 彼女は、躊躇していた。
 少女の提案は正しい、だが何故当たり前の事実を声高に言い放つ必要がある
だろう。
 それが脳に引っ掛かった。
 戦闘本能はアインを解放して全力で逃げろと警鐘を鳴らす。
 クロウディアの勘は彼女を決して離すなと命令する。

 彼女は自身の戦闘本能を信じるには、あまりに吸血鬼として未熟。
「――解ったわ、放すわよ」
「!?」
 それは結果的に幸運だった。
 クロウディアは思いきりエレンを放り投げた、法服の少女は少し驚いた表情
で放り投げつけられたエレンを抱き止める。
 法服の少女はほんの少し後方にずれて、投げつけられた威力を軽減しようと
した、しっかりと受け止めれば、その反動で投げられたエレンの骨がバラバラ
に砕けてしまう。
 だがしかし、
 それは彼女の思うツボと言えた。
 少女はクロウディアに対する集中がほんの一瞬途切れた、その隙を狙ってエ
レンもろとも串刺しにしようと、クロウディアは腕を伸ばす。
 抱き止めたエレンを庇うように、少女がくるりと背を向けた。
 ずぶずぶと背中の皮と筋肉とそれから体の中の脊椎が切断され、か細い神経
がぷちぷちと寸断され、やがて乳房の真中を貫いた。
「あはははははははははははははははっ!!」
 クロウディアが歓喜の叫びをあげる。
 その様はもはや人間でもなんでもなく、ただの獣だった。
 完成された獣のように美しく、餓えた獣のように残酷で、玲二はあまりの痛
々しさに眼を逸らしそうになった。
 クロウディアは高々と勝利の証である、少女の肉体を貫いた腕で抱え上げる。
 それからその死体を振り回して放り投げようと、腕に力を篭めた。

 だが次の瞬間、ぐったりしていた少女は目を見開いたかと思うと、
両手の黒鍵で自分の体を貫いているクロウディアの腕をそれこそず
たずたに切り刻んだ。
 クロウディアの悲鳴。
 玲二は、もう驚かなかった。
 今更驚くようなものなど存在するだろうか。
 その人外の少女は宙に浮かんだ瞬間、クロウディアを思い切り蹴り出した。
 吹き飛ぶクロウディア、
 バランスを取って着地する少女。
 クロウディアは立ちあがろうとして、脚がもつれた。
 少女は、近くに突き刺さった黒鍵を無造作に五本引き抜いた。

 最早形勢は一気に逆転の様子を呈していた。
 じり、と間合いが詰まった。
 詰めたのは少女の方だ――。
 クロウディアが残った足で動こうとした次の瞬間、槍投げのよう
なフォームで投げられた黒鍵が彼女の足を凝固させた。
 石葬式典、少女の投げた黒鍵に刻まれた呪刻はクロウディアの足
を完全に石に変化させていた。
 ずるり、という音と共に少女の胸からクロウディアの腕が引っこ
抜かれ、腹立たしげに少女はそれを投げ捨てた。
「逃げられません、絶対に」
 この女は解りきったことを口にする、とクロウディアは思った。
 だけど、否、だからこそ、チャンスなのかもしれない。
 少女の眼は決して油断をしていない、落ち着いている、非常に落
ち着いて自分を捌こうとしている、一刀でトドメを刺そうとして、
ゆっくりこちらに歩いてくる。
 そこが狙い目だ。

             ***

 玲二は、屋根にぐったりと横たわるエレンに眼をやった。
 今ならクロウディアも彼女に構っている暇はあるまい、よろよろ
と立ち上がった、先ほどまでアドレナリンの噴出で全く感じられな
かった疲労が急に彼の体を襲う。
 とうとう、クロウディアとエレンのどちらが大事か答えは出せな
かった、そしてクロウディアが死のうとしている今、多分永遠に答
えは出ない。
「レイジ……」
 クロウディアの呼び掛けに玲二は振り向き、そして見てしまった。
 彼女の濡れた瞳を。

 俺はなんて愚者だ。
 クロウディアが、助けを求めているって言うのに、それを見過ご
そうとしている。

「助けて」
 彼女がそう言った、クロウディアに一歩一歩近づく少女はそれを
嘲るように笑った、少なくとも玲二にはそういう笑い方にしか聞こ
えなかった。
「無駄。足掻くのは止めなさい、灰は灰に過ぎず、塵は塵に過ぎま
せん、吸血鬼は――塵に還るべきもの」
 それを聞いた時、玲二はもはや何も考えることができなかった。

「お願い、レイジ」
 繰り返すクロウディア、濡れた瞳が玲二の心を侵食する。
 少女はようやく気が付いた、彼女の妖しく輝く瞳に。
 咄嗟に振り返る、しかし時は既に遅く、
 玲二は拳銃を引き抜いていて、
 カチリと撃鉄を起こしていて、
 真っ直ぐ彼女の眉間を狙って、
「そう、それでいいのよ」
 撃った。

 少女の脳味噌がポップコーンのように弾けて撒き散らされた。
 眼は、ちょっとびっくりしたように見開いて玲二を見つめている。

 やった、やったぞ。
 クロウディアを助けることができた。
 誰も死なせなかった、誰も死ななかった。
 全員が(クロウディアしか見えないけど)ホッとするような顔をして、微笑
みかけてくれる。
 映画なら、なんて素敵なハッピーエンドなのだろう。
 だって、誰も死ななかった、そりゃあ、一人いるけど。
 けど、あの女の子は仕方がない、敵だったんだから。
 ……。
 ……。
 ……おかしい。
 どうしたんだろう、と玲二は靄のかかった頭で考えた。
 クロウディアを助けたのに、
 敵を殺したというのに、
 どうして、自分は、泣き叫んでいるのだろう――。

「うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」
 クロウディアは石化した足を切り落とすと、露出した切断部分で強引に歩き
始めた。
 玲二に優しく微笑んでから、真っ直ぐ彼女の元へ向かう。
「ま、待ち……なさい……」
 拳銃で破裂した頭を手で押さえながら、少女が起き出した。
 しかし、間に合わない。
「クロウディア……?」
「アイン、ちょっと早いけど吸わせてもらうわね」
 ずぶり、とエレンの首に牙が食い込んだ。
 少女より遥かに速いスピードで、切断された部分が、傷つけられた箇所が、
流された血が塞がっていく。

「このっ……」
 黒鍵を投げつけた、クロウディアは易々とそれを受け止める。
 既に体力は回復し――むしろ、先ほどよりも上回っていた。
 だが。
 少女の回復とて段違いに速い――そのことを理解しているクロウディアは再
生した足で、一足飛びに屋根を跳んだ。
 最後に後ろを振り返り、にこやかに笑いながら玲二に手を振った。
「またね、レイジ。今度はあなたよ」
 玲二はそんな声など、聞いていない。

 よろよろと歩き出し、呆然と冷たいエレンの体を抱き寄せていた。
「う……あ……あぁ……」
 玲二は泣いていた、このエレンの冷たさ、前にも感じたことがあるこの冷た
さ。
 それは、死の冷たさだ。
 標的・敵・無関係な誰か・あるいは味方、どんな人間にも等しく訪れる冷た
さ、永遠に無縁でいたかったこの冷たさ。
 かつてエレン――その時はアインと呼ばれていた――が銃弾を食らい、よろ
よろと現れたところを抱き締めた時、感じた絶望的な冷たさ。
 でも、今はその時感じたわずかな温かみさえ残っていなかった。
 玲二は抱き締めた、少しでも温かくなってくれるのではないか、そう願って
抱き締め続けた。

「どきなさい」
 ひどく、落ち着いた声だった。
 後ろを振り返ると、法服の少女――不思議なことに、既に頭の傷は治癒しか
かっていた――が剣を構えて、こちらを睨んでいた。
「もう、その娘は駄目です」
「……」
「もたもたしていると、グールになって、あなたも襲われます。
 だから、今の内に――」
 玲二は最後まで聞かずに、彼女に背を向けた。
「いやだ」
「どきなさい」
「いやだ、もう、離すものか」
「なら、力づくでも……ッ!?」

 ひゅん、と玲二と少女の間の空間に矢が突き刺さった。
「……銀矢?」
 少女が矢を放たれた方向へ振り向くと、黒い塊が突進して、玲二と彼女の前
に立ちはだかった。
「……モーラ!? あなた、どうして……」
 さすがに少女も驚いていた、見知った顔の彼女が何故自分に矢を放ったのか、
全く理解できなかった。
「シエル……お願い、引いて」
 モーラは油断なくスレッジハンマーを構えて、シエルと呼んだ法服の少女を
見た。
 シエルは少し悲しそうに首を横に振った。
「モーラ、解ってるでしょ。彼女は手遅れよ」
「まだ、手遅れじゃないわ……結界を張れば、あと少しくらいは時間を稼げる
はず」
「時間を稼いでどうしようって言うんです? あの女吸血鬼は既に逃げ去りま
した、どこに潜伏したのか見つけるだけで一苦労です」
「解ってる!」
 落ち着いたシエルの声がモーラを余計苛立たせた。
「でも、やるだけのことはやりたいの!」
 激昂したモーラを見るのは初めてだ――シエルは、たちまちそのことに興味
が沸いた。
「どうしたんです、モーラ。その娘が、そんなに大事なんですか?」
「ええ、大事よ。私の大事な……友達なの」
「友達」と呼んだことがまるで気恥ずかいことであるかのように、モーラは頬
を赤く染めた。
「……」
「それに」
 モーラは必死に言葉を続ける、彼女――シエルが本気になれば、自分とフリ
ッツではとても歯が立たない、軽くあしらわれるだけだ。
「吸血鬼の魅了の魔眼に気付かなかったのは、シエル、あなたのミスよ、自分
のせいで死人が出たことをあなたの上司さんに提言してもいいのかしら?」
 うっ、とシエルは呻いた。
「そっ、それは反則ですっ、恩を仇で返すなんてひどいじゃないですかっ」
 モーラは平然と言った。
「友達のためなら、仕方ないわ」

「……」
「……」
「……」
 はあ、とシエルはため息をついた。
 つまりは説得された、ということである。
「解りました、やむを得ませんね……二時間、それ以上は待ちませんよ」
「ありがとう、シエル」
「礼なんて言わないでください……まったく……」
 玲二はモーラを見上げた、モーラが微笑み、それで玲二は安堵した。
「聖餅は持ってます? それを体に貼り付けておけば、少しは時間稼ぎになり
ます」
「ええ、解ってる」
「それから、そこのあなた」
 シエルに呼びかけられた玲二は、彼女に向き直り――頭の部分から目を逸ら
した。
 気付いたシエルが
「ああ、気にしないで下さい、私、これでも立ち直りが速い方です
から」
「……すまなかった、自分でも何でやったのか……」
「何でって理由は簡単です、あなたがあの吸血鬼に同情したからですよ、だか
らあんな初期の魅了の魔眼なんかに引っ掛かるんです」
 まあ、とシエルは話を続ける。
「まさか吸血鬼になって三日目の者が、魅了の魔眼を使えるなんて全く読めま
せんでした、だから彼女が死にかかった責の半分は私に
もあります」
「違う、俺のせいなんだ……何もかもが」
 シエルは苦笑した。
「責任を負いあったってどうしようもないですね、だから、私たちがやるべき
ことは一つしかありません」
「ああ、それは解っている」
「下でフリッツが車を用意しているわ、後ろの座席に乗せてあげて」
 玲二は頷いて、エレンを抱え上げた。
 今なら、やれる。
 躊躇も無く、
 悲哀も無く、
 同情も無く、
 驚嘆も無く、
 恐怖も無く、
 余分な感情を棄てきって、ただ一つ心を縛り付ける感情を篭めて、クロウデ
ィアを殺すことができる。

               ***

「全くひどいですね、以前助けてあげた恩を仇で返すなんて……おまけに銀の
矢を投げるわハンマーを構えるわ……」
 まだ、ぶつぶつとシエルは呟いている。余程モーラに敵対されたのがショッ
クだったらしい。
 モーラは苦笑した。
「ごめんなさいね、あの娘は、もう一人の私のようなものだから」
「あの女の子が?」
「そう、詳しく言っている暇はないけど。だから放っておけないの。
 だからね、ついでに頼みたいのだけど」
 さらに大きくシエルはため息をついた。
「もう、この際です。何でも聞いてあげます」
「まあこの頼みは……何もかもが終わってからの話だけど」
 モーラは、その頼みを述べた。

               ***

「ちょ、ちょっと待って下さい。それじゃあなたは私に、犯罪者になれって言
うんですか!?」
「お願い、シエル。今、何でも聞いてあげますって言ったじゃない」
 うめき、苦悩、沈黙、そして自棄。
「……もーーーーっ! 解りました、解りました!」
「感謝するわ」
「ただし、それもこれもあの女吸血鬼を見つけて倒さないことには何にもなり
ませんから、その辺は解ってますね」
 シエルは厳しい表情に戻った。
「ええ……」
 モーラは悪戦苦闘しながら、エレンを下ろす玲二を見た。
「理解、しているわ……」

               ***

「この超弩級の大馬鹿ヤロウ!」
 エレンを降ろして、後部座席に乗せたとたん、フリッツが玲二の服の襟を掴
んで壁に叩きつけた。
 玲二は、ぼんやりとした様子――フリッツには少なくともそう思えた――で
彼のされるがままだ。
「お前、あんな糞女吸血鬼の色香に引っ掛かりやがって! おまけに危うくヴ
ァチカンを敵に回すところだったんだぞ!」
 玲二は、呟いた。
「殴れ」
「ああ?」
「だから、俺を殴れ、力一杯」
「……」
 フリッツは、大きく腕を振りかぶった。
「いいぜ、殴ってやるよ、日本人」
 拳が頬にめり込み、玲二の体は地面に叩き付けられる。
 だが玲二はすぐにゆらりと幽霊のように立ち上がった。
「もう一回殴れ」
 フリッツは少し躊躇った、が――。
「いいぜ、何度でも殴ってやらぁ」
 三度殴り、三度地面に叩きつけた。
「フリッツ!」
 シエルと話し終えたモーラがフリッツの振り掛かる腕を掴んだ。
「無意味なことは止めて!」
「ちぇっ、殴れって言ったのはあいつの方だぜ」
「レイジ、貴方も自暴自棄になるのは止めなさい! エレンを、助けないと…
…」
「ああ」
 くぐもったような声の返事を聞いた途端、フリッツは思わず懐のハンドガン
を握り締め、モーラは後ずさりした。
「レイジ……?」
 そこに居るのは「玲二」であって「玲二」でない。
 そしてファントム・ツヴァイと呼ばれた暗殺者ですらない。
 隠そうともしない、ひどく純粋な殺意。
 どこまでも追いすがり、必ず殺そうという断固たる意志。
 それはただの復讐者だった。
「クロウディアは、俺が殺す」

 一旦エレンをベッドに寝かせる為に、三人はモーテルに戻ることにした。
 車中で三人はそれぞれ考える。
 玲二はクロウディアをどこまでも追いすがって殺すことを考え、
 
 モーラはエレンがどこまで頑張れるかを考え、
 フリッツは、やってきたヴァチカンのハンターがあの化物神父ではなくて本
当によかったと考えていた。
 このモーテルの主人である世話好きそうな老人がにこにこと笑顔を浮かべて
出迎えた。
「これはこれは。何があったか知りませんがお疲れのようですな。
 当店のベーコンで精をおつけになるのはいかがですか?」
「また今度にするよ」
 主人は残念、と顔をしかめた。
 じりりん、と電話が鳴った。
 台所でテレビを見ながらげらげら笑っていた太った中年女(どうやら共同経
営者らしい)がそれを取り、しばらく会話した後、
「兄ちゃん、これ……」
 そう呼びかけて黙って受話器を指差した。
 フリッツと他愛のない会話をしていた老人は残念そうにそれを打ち切ってそ
れを取った。
 ふん、ふんと頷いてそれから玲二の方を見る。
「ジャパンのヒデユキ・キクチさんに電話です、キクチさん」
 老人はそう言いながら彼に受話器を手渡した。
 少し戸惑いながら玲二が受話器を取ると、
「ツヴァイ、ファントムの時の偽名はバレてるよ」
 懐かしい、友の声がした。

「リズィ!? どうして……!」
「時間がない、聞いてくれ。アタシは、クロウディアがどこに潜んでいるか知
っている」
 今、何て言った?
 彼女は、知っていると言ったのだ。
 玲二は思わず受話器を握り潰しそうになった。
「どこだ! クロウディアはどこに居る!」
「……もう、廃墟になっている町外れのそのまた外れにある教会」
 モーラはその情報を耳ざとく聞きつけ、フリッツにこっそりと耳打ちした。
「リズィ、どうして……」
「理由を聞いている暇は無いだろう。 信じる? それとも信じない?」
 玲二は、確かにそうだと思った。今、自分達には時間がない。
 二秒考えて、答えを出す。
「解った、アンタを信じるよ、リズィ」
「気をつけなよ、歩く死体だけじゃなくて、不気味な化物みたいな奴もうろう
ろしていたからさ」
「化物?」
「鳥と人間が合体したような化物が」

「キメラ、ヴァンプ?」
 モーラは眉をひそめた、それはおかしい、裏切り者であるクロウディアの周
りに、どうしてイノヴェルチの生体兵器が存在するのか。
 裏切った、というのは誤情報でやはりクロウディアはウピエルに忠誠を誓っ
ているのだろうか。
 しばし、モーラは考えて気にしないことにした。
 ただの偶然かもしれない。今ごろ同士討ちを繰り広げている可能性だってあ
る。
 どちらにせよ、装備品は洗いざらい持っていった方が良さそうだ。
「フリッツ、装備を準備して。……それから玲二にも、何か武器を。
当たり前だけど対吸血鬼用のタイプね」
「ああ」
 フリッツは珍しく何も言わず、車に装備を積み込みに行った。

             ***

 ふう、と一息ついてリズィは車内電話の受話器を置いた。
「話はついたのか?」
 傍らのサングラスを掛けた大柄な黒人の男が話しかける。
「信じた、と思うよ」
「そうか……辛いか?」
「辛いって、何がさ」
「仲間を裏切るってことがだ」
 大柄の黒人は、この男を知る者にとっては珍しく優しい口調で、彼女に言っ
た。
「いいや、だってアイツはアタシの知ってるアイツじゃないから。
 死んだ肉体が勝手に動いているって思っているから多分、辛くない。
 辛いのはさ、もう一つの裏切り」
「そうか……」
「アタシは、腰抜けなんだよ。できれば自分以外の手で解決してもらいたいん
だ、そうすれば解決した奴を憎めばいいだけだから……」
 ぽつり、ぽつりとリズィは呟く。
 男は頭を振った、昔馴染みが苦悩する様は耐えがたいものがある。
 しかし、彼女は自分で決めなければならない。
「いずれにしろ、俺達もあそこまで行かなければならない。
 行ってから改めてどうするか、自分で決めればいい」
 結局、男は彼女に無難なアドバイスしか与えられなかった。
「そうだね、それくらいは……しなきゃならない」
「そうさ、やらなきゃいけないことは山ほどある」
 大柄な男は勢いよくアクセルペダルを踏み出した。



                       to be continued



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