高知新聞連載   2008年2月より

高知にも家を借りて、釣りや著作に通っているので、高知新聞で“有機農業”の連載を3週に1度、始めることになりました。
統一タイトルは「次代を拡(ひら)く―有機農業への挑戦」で、第1回の登場人物は高知の山下一穂さん。
1月12日発売の週刊現代にも、菅原文太さんと共に登場させた“無農薬有機農法”の実践者です。


2008年2月4日付・朝刊

 【1】山下一穂さん(上) 畑に自然を再生する

短期集中的に自然を再生した、キャベツなど8種類の野菜畑での山下一穂さん(長岡郡本山町寺家) 一九九九年に本紙での『川に訊(き)く』という連載で書いていたのは、高知の川と山里の折々であった。

 その後、あの連載がきっかけになって旧・池川町に家を借りるようになった私は、長岡郡本山町で無農薬有機農業を展開している山下一穂さんを知るに至った。

 その就農九年目の山下さんを含めて有機農業には、三十年以上も普及に尽力されてこられた全国のさまざまなジャンルの方々がいらっしゃる。

 今回の連載ではその皆さんを三週間に一度くらいの間隔でお訪ねし、読者に紹介してゆきたい。

 【写真】短期集中的に自然を再生した、キャベツなど8種類の野菜畑での山下一穂さん(長岡郡本山町寺家)

 有機元年!

 今年を「有機元年」と呼ぼう。昨年十二月二十五日に決定した二〇〇八年度の概算要求。農林水産省では、有機農業に対する四億六千万円が財務省に認められ、「有機農業」に初めて国の予算がつけられることになった年だからだ。

 「有機農業」とはそもそも、一九七一年に「日本有機農業研究会」を農業者有志たちと立ちあげた研究者、一楽照雄さんが、アメリカの書物を邦訳する時に「オーガニック・ファーミング」をこう訳したことで生まれた言葉である(後日、詳細を書く)。

 農水省生産局農業振興課環境保全型農業対策室というところが、有機農業の担当部署である。山下一穂さんはそこを事務局に昨年十月二十五日に誕生した「全国有機農業推進委員会」の十六名の委員の一人となった。

 “新人類”

 就農してたった九年目で、「驚くほどおいしい」と全国で評判になる味となった山下さんの無農薬有機野菜。それをつくる山下さんのことを、一緒に委員会に所属されている、古くから有機農業の普及に尽くされてきた皆さんは、“新人類”と呼んでいるそうだ。

 作る野菜のおいしさはその方々から見ても満点の腕が立ち、弁も立つ。コンピューターなど近代機器も駆使して“ブログ”(日記)も展開。おまけに性格が明るくて誰からも好かれるからなのだそうだ。

 これまで長年、有機農業を続けてこられた方々は、わが高知県でも“いごっそう”がほとんど。そりゃあ、当たり前だ。「有機なんかで作物はできるか。意地を張らずに農薬を使え」といわれる毎日を、歯を食いしばって耐え、自分自身や消費者の健康と安全のために、少しずつでも収量を上げつつ、おいしさも上がってゆくように努力してこられた不屈の人々だからだ。

 しかし、山下一穂さんの著書には、「超かんたん無農薬有機野菜」とあり、山下さんが口笛を吹きながら農業をしているようなマンガがある。本当に、そんなに「かんたん」なのか。

 だまされてはいけない。山下さんという男は、「“いごっそう”の中の“いごっそう”」ともいうべき男性で、人知れずやってきた努力をさらりと公開して、「ほら、僕のような男にでもできるのだから、あなたにもできるよ」と言ってのけてしまう“男の美学”をお持ちの方なのだから。

 丸ごと堆肥化

 山下さんが笑う写真の畑は、山下さんと奥さまのみどりさんが、五月に緑肥であるソルゴーの種をまいて、背丈ほどにも成長した七月にそれをハンマーナイフモアで粉砕してからすき込んで、二カ月間も熟成させて「畑丸ごと堆肥(たいひ)化」という状態にしたもので、山下さんはこの畑を「短期集中的に 自然を再生した畑」という。

 戦後アメリカから肥料や農薬が入ってくるまでわが国では、里に近い山に広葉樹を植え、落葉を畑の肥料としていた。それが「寒肥え」となり、春にはまた連作障害もなく作物ができる循環を生んでくれていた。

 ソルゴーを使えばそんな自然循環を「超かんたん」に再生できることを考え出した山下さん。

 「恐るべし、山下一穂」という意味を込めて旧人類である有機農業の先人たちがつけた愛称が、“新人類”なのである。

 あまの・れいこ 1953年、京都市生まれ。同志社大在学中より国内外の山里を釣り歩く。京都大の「森里海連環学」を誘致するなど、近年は別宅を持つ高知県内での活動を深める。近著は「“林業再生”最後の挑戦」(農文協)。


2008年3月3日付・朝刊


【2】山下一穂さん(下) 雑草は生やしておく

山下一穂さん(長岡郡本山町)の農園で、とても美しい、そしてどこか懐かしい風景を昨年六月に見た。白い花の咲いている大根畑で、モンシロチョウが乱舞していたのだ。

 左の写真のチンゲンサイの畑のように、山下さんは畑の雑草を全部抜いてしまわずに、野菜の生育を妨げない程度に雑草を残す。野菜目当てにやってくる害虫をやっつけてくれる“天敵”をここへ呼び込むためだ。

 これも山下さんが「超かんたん無農薬有機農業」という自著で紹介している手法のひとつ。大根やチンゲンサイを食べる害虫、大きくなればモンシロチョウとなる青虫を、雑草の中を棲(す)みかとするカエルやクモが食ってくれるのだ。

 しからば、なぜモンシロチョウが大根畑で乱舞するのか。山下さんの野菜は虫食いがなく、きれいなことで知られている。青虫の被害に遭っていないということだ。カエルやクモは青虫を食い尽くしていないのか。

 私が幼いころ、京都北山の自宅近くで見たように、山下さんの畑で大根の花へモンシロチョウが蜜(みつ)を吸いにきていたのは、チョウがその辺りで生まれたからに違いない。

 それでも、大根やチンゲンサイが青虫に食われていないのは、これが「自然界のバランス」というものではないだろうか。私の文学的な頭ではそれ以上は分からないのだが、そうに違いないと思うのだ。

 【写真】チンゲンサイの間に雑草が見える。害虫をやっつけてくれる天敵を呼び込むために、野菜の生育を妨げない程度に雑草を残す=写真提供/管洋志・週刊現代(講談社)

 里山は“最適地”

 たくさんの棚田が残り、背後には広葉樹の里山もある本山町は、山下さんの祖母が残した家があるから、ここに山下農園があるのだが、山下さんは「僕が自分で選んでも、無農薬有機農業をやるのなら、ここやったやろね」とおっしゃる。

 無農薬農業の強い味方となってくれる天敵が、周囲の里山から飛んで来やすいからだろう(ということは、日本中の里山が“有機農業の最適地”ということでもある)。

 農業者にとって一番つらい作業は、草取り。田んぼでも畑でも、植物の生命力も強い夏の炎天下はことさらつらい。戦後、アメリカに教えられた農薬は、このつらい草取りと、害虫退治に役立ったのだが、農業者も含めた人間にも周りの自然界にも、“負の影響”を与えた。農林水産省は、昨夏発表した「生物多様性戦略」に、そうはっきり書き込んでいる。

 農薬は使わない。雑草も適当に生やしておく。山下さんの畑には生命(いのち)が蠢(うごめ)く。

 「日本を、田舎から変えたいんじゃ。『ふとい(大きい)ことを言うて』と、みどり(奥さま)には笑われるが、僕は本気ぞ」。

 農水省も昨秋からは「有機農業を行うことが地球温暖化防止に役立つ」という考え方を取るようになったが、山下さんは以前から、有機資材を入れることで、農薬を使っていた畑も洗浄できると言っていた。

 経済界も支援?

 経済低調の高知でも出店を続けている、大丸さん(と地元の人々は愛称している)が、外商で山下さんの野菜を各戸配達し始めるという。

 高知では「土佐経済同友会」の皆さんが昨夏には「“日本一の田舎”を目指して」というメッセージも出されている。デパートの扱う顧客といえば、おそらく経済界の皆さんの自宅だろう。

 経済人が動きだせば、社会の“システム”が動きだす。高知県出身の元気な官僚を担いで新知事にした高知経済界。何人の舌が奥さまから知らされなくても、無農薬有機野菜のおいしさに気づくか。これは見ものだ。

 山下さんを塾長とする「有機のがっこう」は三月十九日が卒業式で、新入生を募集中。山下さんは塾生に「日本を変える“突撃隊員”になれ」と、いつものように卒業式で訓示することだろう。

 「日本を田舎から変えたい」山下さん。「“日本一の田舎”を目指す」高知経済界。「ふといこというたち」、と笑わんでよ。なんしろ土佐は、池でクジラが泳ぎゆう国やき、ね。


2008年3月17日付・朝刊

【3】金子美登さん(上) 集落全体を幸せに

 水田一・五町、畑一・五町、山林一・七町。乳牛三頭、鶏二百羽、合鴨(がも)百羽。研修生つねに七、八名と金子美登(よしのり)さん(60)、友子さん夫婦。

これが、埼玉県比企郡小川町にある「霜里農場」の陣容。完熟した堆肥(たいひ)をつくり、牛たちの糞(ふん)尿や生ごみを活用したバイオガスプラントで調理用ガスもつくって“自然エネルギー”を自給していることでも知られる金子さんは、二〇〇六年十二月に成立した「有機農業推進法」を受けて結成された農林水産省の「食料・農業・農村政策審議会生産分科会」の「基本方針」づくりに、生産者を代表して参加した唯一の委員。

一九七一年に、農水省の「農業者大学校」第一期生として卒業後、同じ年に発足した「日本有機農業研究会」に参加し、“有機農業”という言葉が誕生して以来の生みの苦労を、自らも三十六年間も体験し、見てきた人物である。

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【写真】金子美登さん(左)と安藤郁夫さん。堆肥の山は、安藤さんが昨年10月から切り返してつくっているもの。麦を刈った6月にみんなで撒(ま)く

夢の実現

金子さんと同じ集落に住む安藤郁夫さんは七十六歳。金子さんとは十六歳違うが、今は金子さんと共に、写真のような堆肥づくりに取り組んでいる。

雑木林の里山風景が美しいこの“武蔵の国”で、安藤さんは、戦後は当たり前のように農薬を使ってきていた。金子さんちの長男坊、美登さんが有機農業を始めた時、安藤さんも集落のほかの農業者も心配した。「あんなことやって、食ってゆけるんかい」と。

小川町の町議も九年前から務めている美登さんの長年の夢は、集落と大地にしっかりと根を張り、「集落丸ごと有機」に取り組むことだったが、六年前まではまだ実現できていなかった。

きっかけは“椎茸(しいたけ)作りの名人”と称される安藤さんがつくってくれた。美登さんに、「有機大豆作りを教えてくれ」と言ってくれたのだ。三十年間ずっと美登さんを見ていたからだろう。

美登さんの著書「金子さんちの絵とき有機家庭菜園」(家の光協会発行)によると、土づくりはこのように書かれている。「山の木々は秋冬に落葉し、小動物や微生物がそれらを分解して、百年に一センチほどの腐葉土をつくって木々を茂らせてくれる。畑の土づくりは、これを人間の働きで十―二十年に早めてやる仕事」。

美登さんは、落ち葉、植木くず、野草、おがくず、籾(もみ)殻、稲・麦わら、生ごみ、野菜くず、家畜の糞尿を積み込んでは切り返して、堆肥をつくる。

「国の政策を受けて町から、二ヘクタール以上の集団で大豆や麦の転作に取り組まないかと話があった。定年になっても働く場所もないのがここらじゃゴロゴロしている。しかし、作ったはいいが大豆は、売り先もなくて、肥料代にもならないで困っていた。そしたら美登さんが『とうふ工房わたなべ』に自分はキロ五百円で買ってもらっていると言うんだ。よし、それなら俺(おれ)がみんなの分も堆肥をつくってやるから、やるべ、と始めたんだわ」と安藤さん。

『とうふ工房わたなべ』の渡辺一美社長は、安藤さんたちの大豆を、一年目は二百六十円だったが、それからは毎年五十円ずつ上げてくれ、今は金子さんと同じ価格で全量買い取ってくれている。

「農薬も、肥料も、機械も、農業は金ばかりかかると、長い間、農家に生まれたのが嫌だったが、今は小麦も、米も無農薬で作れば全量高く売れる。七十歳からは、金子さんのおかげで野菜作りが楽しくなって、幸せだ」

金子さんの三十六年の有機農業が、今は集落全体をこのように幸せにしている。



2008年4月7日付・朝刊

【4】金子美登さん(中) 基本は土作り

「霜里農場」。埼玉県比企郡小川町の金子美登(よしのり)さん(60)。農園主の朝は五歳の牛の乳搾りから始まる。

 金子さんの有機農業は、水田、畑、乳牛、鶏、水田用のアイガモ、山林から出る落ち葉や牛たちの糞(ふん)尿を利用して作る完熟堆肥(たいひ)、生ごみを活用するバイオガスプラントでできる自然エネルギーまでの循環が見事だ。

 金子さんは、三歳から乳牛の世話をしていた。当時の金子家は、自給のための野菜、鶏、米、裏作の麦、養蚕と機織りという複合農業で、小さな子どもの手も借りて、将来その子に農家を継がせるための英才教育もなされていたのだろう。

 金子さんは農業高校へ進み、畜産を専攻して酪農の勉強をした。お父さんが乳牛を増やして酪農を大規模にやろうと考えていたからだ。

 ところが、生まれてきた子牛に無脳症という奇形が発生した。どうやら外国から輸入した飼料の中に含まれていた大豆かすが原因のようで、大豆から油を搾る時に使う化学薬品が発生源のようだった。

 頭数増で運動が足りないためか牛がカゼをひきやすくなったり、お産の後にぽっくり死ぬこともあるようになり、金子さんは少し不安を持つようになった。

 そのころ、地元の農業改良普及所の所長が耳よりな話を持ってきてくれた。「農林水産省が、農業経験を二年以上した者を対象に大学をつくるが行ってみないか」というのだ。

 県と国の試験をパスして、一九六八年に開校した「農業者大学校」にこうして第一期生として入学することができた。

 この大学を卒業後は、化学薬品を使う農業ではなく、昔ながらの日本の農業をしっかりやろうと考えて、玉川大学の農学部長をされていた、土壌微生物の研究者・足立仁(ひとし)先生に入門。毎週一回、学部長室で土壌微生物の講義を受けるという数年を続けた。「いい作物ができる土壌は、バクテリアの数と種類が多くて、次に放線菌、次にカビ、次に原生動物という順で、微生物のバランスがとれているんだよ」。金子さんがこれまでの人生で一番大切にしてきたのは、足立先生のこの一言だ。

 だから前回のこの連載でも、紙面を飾った写真は、金子さんが年長の友人、安藤郁夫さんと一緒に切り返しを重ねてつくる完熟堆肥とした。有機農業をする人たちにとってはまさに宝の山が、完熟堆肥なのだ。

 金子農場では母屋の裏に堆肥場がある。日当たりと水の便がよく、搾り水を排水できる所に、縦二メートル、横二メートル、高さ一・五メートルの木枠をつくり、まず炭素の多い、おがくず、もみ殻、落ち葉、麦・稲わら、植木くずを入れ、その上に窒素の多い、鶏・牛糞、青草、おから、米ぬか、生ごみ、野菜くずなどを重ねてゆく。これらを交互に重ねて、五十センチくらいの高さまで積んだら、足で軽く踏み固めて水をかける。この作業を繰り返して、一・五メートルくらいにまで積み上げたら、むしろで覆い、重石をして熟成させるのだ。

 写真のトウガラシ苗は、こうしてつくられる堆肥の温床で育てて、鉢上げを待っている状態だ。

 有機農業の基本は、「土づくり」。「微生物がたくさんいる、ふかふかの土づくりがで発酵中の堆肥を温床にして、温室の中に早い春をつくることができるきれば、農薬のような心配なものを使わなくても、作物は強く丈夫に育ち、病害虫の心配もいらないのが有機農業だ」と金子さんは思っている。

 【写真】発酵中の堆肥を温床にして、温室の中に早い春をつくることができる 















2008年4月28日付・朝刊

【5】金子美登さん(下) 複合汚染その後

 埼玉県小川町、霜里農場の金子美登(よしのり)さん、友子さんの昭和五十四年三月の結婚式の主賓は、美登さん側が作家の有吉佐和子さんで、友子さん側が市川房枝さんだった。

 有吉さんは、昭和四十九年十月十四日から八カ月にわたって朝日新聞紙上で「複合汚染」を連載し、それを五十年四月から単行本化している。

 写真の「複合汚染その後」は五十二年七月に単行本として出版されたものだが、有吉さんはここへ、「複合汚染」の連載時には依頼したが登場してもらえなかった金子さんを二章に分けて登場させている。その二章どちらにも対談相手として出てくるのが司馬遼太郎さん。金子さんは司馬さんが私家本として出版した「土地と日本人」を読んで共鳴し、司馬さんと会わせてくれるのなら有吉さんの本に登場させていただくと約束したようだ。

 「複合汚染」は、有吉さんが若者グループのリーダー(後に菅直人氏として頭角を現す)に迎えにこられて、市川房枝さんの選挙応援に奔走する場面から始まる。「参議院二院クラブ」を創設した八十一歳の市川房枝さんが、自分も若者たちに担がれて出馬し、そこへ青島幸男さんも参画した時の選挙だ。

 この時代は、「人間ブルドーザー」と呼ばれ「今太閤」とも呼ばれた田中角栄元総理が日本中の土地を投機の対象とし、日本列島が公害にまみれるということが猛スピードで進行した時であった。高度成長は、日本人の資質の一つであったはずの「慎み」を忘れさせ、河川も、大地も、海面も、大気も汚し続けた。

 そんな中で、ストーリーテラーとして名を馳(は)せていた小説家の有吉さんが、農薬などの複合的な汚染をドキュメンタリーとして連載したのは、そこに「日本人の危機」が象徴されていると見たからだろう。

 「複合汚染」は危機を訴えるだけでなく、解決、すなわち「少数でもその危機に立ち向かおうとしている人々」も登場させた。有吉さんは「日本のレイチェル・カーソン」と、この連載の読者から呼ばれた。カーソンは、アメリカで「沈黙の春」を著した女性科学者だ。

 金子さんは、日本人が忘れさろうとしていた「慎み」を持っていた。だから有吉さんに「こんな若造を取り上げないで下さい」と遠慮したのだろう。しかし後に「複合汚染その後」に登場するようにしたのは、現実があまりにも深刻であり過ぎたためだろう。

 金子友子さんは、アナウンサーの仕事を持ちながら、市川さんの選挙を手伝い、金子さんの有機農業の取り組みを知り、そして自分も同志となって金子さんの霜里農場で生き抜くことを選択した女(ひと)だ。

 二人の結婚式は三月、梅の花の香る中、市川、有吉の主賓を含めた百五十人が手作りの菜の花やほうれんそう、鯛の尾頭付きを持ちよって行われた。

 それから二十九年。お二人にお子さんはいないが、その代わりに世界三十七カ国から、日本人も二百人くらいを研修生として受け入れ、金子式有機農業の伝承者として育ててこられた。

 平成十八年十二月に「有機農業推進法」が成立。長年各地で有機農業に取り組んでこられた皆さんが「全国有機農業推進協議会」の会長に選出したのが、金子美登さんであった。




 【写真】有吉佐和子さんが司馬遼太郎さんに金子さんを紹介して、この本に2人の対談が載ることになった


2008年5月19日付・朝刊

【6】本田 廣一さん(上) 良質菌利用し畜産

 ことし三月二十一日から二十三日にかけ、北海道江別市の酪農学園大学で開催された「農を変えたい!第三回全国集会in北海道」など四つの有機農業の会議には、全国からおよそ八百人が集結した。

 その大会の一日目、幕開きの「第二回有機農業技術総合研究大会」で開会挨拶(あいさつ)をしたのは、標津(しべつ)町古多糠(こたぬか)で「興農ファーム」代表を務める本田廣一(ひろかず)さん。牛を千頭、豚九百頭を有機畜産で育てている牧場主だが、有機農業界一の論客でもある。

 ことし、この北海道に集合した有機農業関係者は、格別な想(おも)いを持っていただろう。一昨年十二月には「有機農業推進法」が成立。ことしは有機農業に初めて四億六千万円の予算がついて、この時三月は、その予算に全国有志が立候補している真っ最中であった。

 大会の舞台となった酪農学園大学は、一九七一年に六十四歳で「日本有機農業研究会」を立ち上げた一楽照雄さんが、アメリカ人J・I・ロデイルの著作を訳した時に「有機農業」という言葉を思いつき、相談に行った黒澤酉蔵翁が創設した「機農学校」が前身となった農大学校だ。

 今大会は、そういった有機農業の歴史を再確認する役目も負っていたと思う。筆者も山下一穂氏と共に参加した。本田さんは、その準備を数カ月かけてやり遂げた。

本田廣一さん
【写真】一番右の人物が本田廣一さん。朝のミーティング後に牛舎の前で

 大型有機畜産に挑む

 本田さんは一九六〇年代の学園闘争時には、獣医を目指して入学していた日大で委員長を務めていた人物だが、二十八歳で帰農。ふるさと北海道の先人、アイヌ民族が集落の条件とした山と川と海のある古多糠に、東京で沖仲仕(おきなかし)などをしてためた二千五百万円で、四十五ヘクタールを購入して、乳牛四頭からスタートした。目指したのは、農作物が輸入自由化された時にもアメリカに負けない大規模な集約農業であった。

 今は乳牛はやめ、肉牛と近年は豚へも手を広げた。その双方が出す糞(ふん)尿を使って完熟堆肥(たいひ)をつくり、それをまた敷き藁(わら)に使い、畜舎を良質の微生物でいっぱいにする。「生き物」が本来持っている菌のバリアで生命を守りきるという手法だ。

 「有機農業、有機畜産とは、一楽照雄氏が、そして黒澤酉蔵氏が目指したように生物多様性を最も有効に利用する人間の知恵」だと、本田さんの牧場へ行けば体現できる。

 三日間にわたった「農を変えよう!第三回大会」は大成功のうちに終了し、打ち上げ会場では「興農ファーム」の牛肉と豚肉が提供された。

 霜降り肉にするためのホルモンを使用しない安全で柔らかくておいしい赤身牛肉。牛も豚も雪の中でも十分な運動をしているからだ。たくさんの草を食べるため口をしっかりと動かした豚は、驚くほどジューシーで、三十年以上苦労してきた人の多い全国の有機農業者の心を温かくもてなしてくれた。

 昨年七月に農林水産省が発表した「生物多様性戦略」には、「本来の農業はやればやるほど生物の多様性が高まるものであるはずだが、農薬の使用などが負の遺産をつくってしまっていた」といったことが書かれていた。

 「本来の農業に帰ろう」「安全な食は自分たちの手で守ろう」。もっと多くの日本人がそう思うまで、本田さんの忙しい日々は続く。


2008年6月9日付・朝刊

【7】本田 廣一さん(下) 草を食べる豚たち


 本田廣一(ひろかず)さんが自分の右手の付け根までを母豚の産道に突っ込み、子豚を引きずり出した。タオルにくるんだ命が、ぐったりしている。

 すると本田さんは子豚の鼻の穴に自分の口をあて、鼻の中のものを吸い出し、はきすてた。次は鼻の中に自分の息を吹き入れた。小さな子豚の左足がピクリと動いた。

 豚の誕生に初めて立ち会わせてもらった私は、この子豚が無事に動きだしてから、本田さんに尋ねた。「あれは何をしたのですか?」。「出産が始まって何時間も経(た)ってるだろう。奥の方の子は母さんの羊水が鼻に詰まっていたりするんだ」

 出産を任せていた担当者の戻りが遅いので、本田さんが夕食を中断して駆けつけた。既に母豚のお腹(なか)から出ていた八頭以外にもまだ中にいるのではないかと、考えられたのだ。結局、この母は、一日かけて十二頭を出産した。

【写真】3月24日。豚は冬は日に何度か豚舎の外の運動場へでる。本田さんが干し草をやった。雪が消え草が生えてくると、もっと広い牧草地で24時間過ごし、自分たちで草を根っこごと食べるようになる。草を噛(か)んで唾(だ)液(えき)がよく出ると、内臓が丈夫になり、肉がおいしくなる

 牛の次は豚を

 北海道標津(しべつ)町の「興農ファーム」で、牛千頭、豚九百頭を飼う本田さんが豚を飼い始めたのは、まだ五年前。子豚を五頭買ってきたところから始めたが今、ブタさんチームは大将の本田さんも含め五名。

 「北海道では子どものころのごちそうは豚だった。あの時のおいしい豚をもう一度作れば、豚は牛に比べて草が少なくて済むので、うちの九十ヘクタールの草地でもやってゆけると考えた。地域の雇用の場もつくってあげたかった。まわりの酪農家が苦しくなっているからね。北海道は」

 牛の赤身肉がおいしいことで名高い「興農ファーム」。アンガス種の肉牛を雪の中でも外で飼い、健康な内臓を維持できている牛はおいしいことを証明できている。「外国からのトウモロコシがなければ、畜産はできない」と思っている日本の酪農家が、その餌や石油の高騰で経営が苦しくなっているのを心配してあげる心優しい男(ひと)だ。

 「興農ファーム」では、豚はホタテの貝殻の粉末、デンプンかす、チーズの搾りかすなどを発酵させたものと草を食べているので、餌代がほかの畜産家より安いだけでなく、豚も牛も内臓廃棄率が30%程度と低いそうだ(日本の畜産の内臓廃棄率は70%程度)。

 本田さんは「有機畜産でも、一番大切なものは土づくり」と考えて、友人の埼玉県小川町の金子美登(よしのり)さんと同じ方式で完熟堆肥(たいひ)をつくって使っている。材料の元は、牛と豚の糞(ふん)尿。それを熟成させて畜舎の敷き藁(わら)に使うと、前回も書いたように、良質の微生物で畜舎にバリアがつくれる。その微生物は、牛や豚の腸内でも、発酵循環系を元気にするのだ。

      

 次の朝、本田さんが干し草を持って餌箱に近づくと、豚舎の中にいた豚たちが押し合いへし合い、飛び出てきた。軽やかなステップで走る豚たちを見て、彼らがワイルド・ポークすなわち猪(いのしし)が家畜化されたものであったことを実感できた。

 本田さんは「日本には日本の農業があったことを、有機農業推進法ができた今、点検しよう。有機畜産と野菜づくりの二本立てで、少量のおいしい肉を食べて健康に生きていた日本を再生しよう」と目指す。

 豚を放して牧草を食べさせた跡地に野菜を植えることを、今年から本格化させるという。大地には豚が置いていった栄養が残っているから、おいしい野菜ができるだろう。

 北海道が有機で元気になれそうだ。



2008年6月30日付・朝刊

【8】柿木村(上) 村ぐるみで28年間

島根県鹿足(かのあし)郡柿木(かきのき)村は二〇〇五年に六日市町と合併し吉賀(よしか)町となったが、今も吉賀町柿木村として名を残している。

 一九八〇年に「柿木村有機農業研究会」が立ち上がって二十八年間、村全体で有機農業に取り組んできたブランドを大切にしたいと考える村民が多かったからだろう。

 この村での有機農業は、役場に勤める福原圧史さん(59)=現・吉賀町産業課長=から始まった。福原さんは、一九七四年十月十四日から朝日新聞朝刊で開始された有吉佐和子さんの「複合汚染」の連載を読んでいた。

 その前年のオイルショックまで、96%を山林原野が占める人口二千五百人(当時)の柿木村では、田畑は自給用に使われ、換金作物としてあった椎茸(しいたけ)を干すために重油を焚(た)いていた。その重油が値上がりした時、福原さんを囲んで「農業後継者の会」を続けていた二十代のメンバーが「複合汚染」を読むことを勧められ、「これからは自給ができることをまず考え、それには安全な作物を作ることから始めよう」と決めた。

 すると、瀬戸内海がPCB(ポリ塩化ビフェニール)で汚染され困っていた山口県岩国市の消費者たちが「自給用につくられている作物を分けてください。皆さんの無農薬野菜作りを応援します」と申し入れてきた。

 「後継者の会」は十数人では都会の消費者の要求に生産が追いつかないので、農協婦人部に趣意書を送り、一緒に無農薬野菜作りをやらないかと呼び掛けた。

 写真の斉藤タケ子さんは、当時五十三歳。婦人部に以前よりあった味噌(みそ)の自給運動に参加していた。青年たちから聞いた話を家に持ち帰り、それ以来、夫も一緒に、自給プラス都会の消費者へ無農薬野菜を送る活動を二十八年間続けてきている。益田市の十五軒の消費者家庭が二人の担当で、毎週一回、一年中八品目以上を送っている。

 六月から七月に取れる野菜は、モロヘイヤ、オクラ、玉葱(たまねぎ)、じゃが芋、ほうれん草、小松菜、葱、大根、キャベツ、きゅうり、トマト、しそ、いんげん、にんじん、サニーレタス、里芋、なす、かぼちゃ、ピーマン、ししとうの二十種。

 「おじいさんは草取りが仕事。機械ではやれんからね」。「おばあさんは指示するのが仕事。うまく人を使いなさるんじゃ」と楽しそうな二人。


【写真】斉藤岳美(たけみ)さん(83)とタケ子さん(81)は1980年に「柿木村有機農業研究会」がこの村で立ち上がった時からのメンバーで、益田市の15軒の消費者を担当している

 マーケットができる

 柿木村ではそれぞれに生産をしているグループが十四団体、五百余名もあり、対象は消費者グループ、生協、スーパー、自然食品店、自然派レストラン、学校給食、青果市場、漬物加工所、道の駅、アンテナショップ、青空市、米卸業、個人商店など。

 いくら作っても、いつも足りない状況で、「マーケット」ができている。自分たちが二十八年間かけてつくってきた「市場外流通」というマーケットだ。

 日本中の小さな村から、柿木村のように有機農業に取り組んでいけば、日本の山里はみんな元気になり、自給率も上がるのではないだろうか。

 できない理由を並べる人には、一人で「山口県有機農業研究会」に参加して、朝一時間半、それから役場で働いて、また夕方にも一時間半、自らも畑で毎日作物を作ってから、山を越えて車で一時間の山口市での会合へ走っていた福原さんの三十代の毎日を想像してみてほしい。

 合併後の吉賀町であと十年かけて、七千四百人の人口に有機農業への取り組みを広めるのが福原さんの夢で、次なる後継者もたくさん育っているようだ。


2008年7月28日付・朝刊

【9】柿木村(下) 棚田と生きる


 島根県鹿足(かのあし)郡吉賀(よしか)町柿木(かきのき)村は、私の著作「日本の名河川を歩く」(二〇〇三年、講談社+α新書)では日本一と採点した高津川が流れている山間の小村だが、一九八一(昭和五十六)年から、「村ぐるみ有機農業」に取り組んできた歴史を持っている。

 六月十八日。高津川にそそぐ支流・大井谷川の入り口で夜、たくさんのホタルの乱舞を見た。水辺にせまる山の斜面全体に青緑色の発光体がきらめいている。これほどの数のホタルは日本中の川を歩いてきた私でも初めて。

 このホタル群がこの谷の入り口・井手ケ原地区で復活したのは、上流の大井谷地区の棚田が「有機栽培」に転換してからだという。

 大井谷の棚田は古くは六百年前の室町時代から築かれ、津和野藩への献上米とされるほど食味がよいことで知られていた。山々からの湧(わ)き水が使われていること、南向きの斜面で日当たりがよいこと、標高三百五十四百五十メートルで昼夜の温度差があることなどの好条件がそろっていたからだろう。

 「基盤整備をして収入を上げたい」との声が住民から上がったのが九八年。村が県の協力を得て調査してみると、田んぼの面積が半減することや事業費が一反当たり三百万円以上もかかると分かった。

【写真】大井谷の600枚の石積み棚田と、吉賀町柿木村の福原圧史産業課長

「助はんどうの会」

 八一年に「柿木村有機農業研究会」を農家の跡取りや婦人部とつくり、九一年には村の総合振興計画の中に「健康と有機農業の里づくり」を入れる原動力となった福原圧史さんら村職員は、今度は大井谷の六百枚の石積み棚田農家十四軒などと「助(たすけ)はんどうの会」を結成した。

 「はんどう」とは、大井谷の一番上の屋敷の外に据えられていた直径一・二メートル深さ三十センチの「水がめ」のこと。昔、干ばつの年にここだけにわずかに溜(た)まった水を飲んで住民たちが生き延びたという言い伝えがある。それを受け継ぎ、ことあるごとに一致団結して当たってきた三浦姓の多い集落民が、今度は平場と同様の農業基盤整備に頼らずとも棚田が永続できる方法を考えようと相談し合った。

 「棚田オーナー制度」を九九年から、翌年からは「棚田トラスト制度」もスタートさせた。

 化学肥料をやめ、牛糞(ふん)や鶏糞を中心とした完全有機堆肥(たいひ)に変えて米価を引き上げ、棚田補修費とした。その、少し高価だが身体にはよい棚田米を支持する人たちを集落に招いて、田植え、草取り、稲刈りを一緒にするのが「棚田オーナー制度」。作業には参加しないが、趣旨に賛同し、おいしく安全な米を食べたいという人には「棚田トラスト」。参加者は全国から。その九割がリピーターだ。

 柿木村では、「有機農業」への取り組み形態がさまざまにある。「柿木村有機農業研究会」は有機無農薬だが、大井谷棚田は、島根県の「エコファーマー」の基準よりは厳しい「減農薬」だ。

 夢は「完全無農薬」だというが、集落全員の意見がまとまることを重視しているのだろう。六ヘクタールに六百枚もの棚田での草取りを、兼業農家がやる苦しみがここには見える。平場では一アールの田んぼ三十枚で取り組める合鴨(あいがも)農法が、ここでは取り組めないのだ。

 ホタルの復活は、化学肥料をやめる、廃油石けんを使うなどの上流・棚田農家の努力を、下流の井手ケ原の人々が認め、ホタルの棲(す)みやすい環境を自分たちもつくろうと工夫したからだと聞いた。

 「助はんどう」とは、日本中の山里が持つべき相互扶助精神のように思える。



2008年9月1日付・朝刊

【10】高取保育園(上) ゼロ歳から無農薬食


  本日の給食当番が前に出て、行儀よく座っている友だちに声を掛ける。

 「ご飯は左にありますか。お汁は右にありますか。それではいただきますの歌を歌います」

 「よーくかめよ食べ物を。かめよかめよ、体が強くなる。そっと手を合わせましょう。百回かんで食べましょう。おいしいお食事ありがとうございます。いただきます。どうぞ召し上がれ」

 最初の一口目は、先生が数えながら百回噛(か)んで食べる。こうすると二口目以降も、三十回以上噛む習慣が身につくのだという。

 福岡市の中心街からおよそ二十分。七十八歳の西福江園長が昭和四十三年から無農薬有機栽培の農作物を取り寄せ、玄米和食にこだわってゼロ歳児からの食育を続けておられるのが、高取保育園。

 この保育園が設立された昭和四十三年といえば、わが国の農村のあちこちでお医者さまたちが身体の不調を訴える農民の出現にとまどい始めたころであった。奈良県五條市の梁瀬義亮医師(故人)は、昭和三十四年に「農薬の害」という文章を発表されている。アメリカのレイチェル・カーソン女史が「沈黙の春」を発表する一年前のことだ。

 西園長は「三歳までに決定する」と言われる食べ方を、昭和三十年代までの日本の食卓風景に戻すには三代かかると思って、今日まで続けてこられた。十五歳違いの妹さんも、歩いて五分の所で別の保育園を経営しておられる。

 子どもたちの皮膚の過敏症、中耳炎を繰り返すなどのアレルギー体質は、お母さんのお腹(なか)の中からもらってしまった体質。それをこの園では、玄米・無農薬の和食給食と、冬でも素足、半ズボンで治してゆく。

 それにしても、昆布といりこに梅(ばい)醤(しょう)番茶。これが一歳児の午前十時のおやつ、なんて信じられますか。

 給食時の残食(食べ残し)はゼロ。そして子どもたちがそんな給食を園でいただくと、お母さんたちも頑張って玄米食や和食を家でつくるようになり、お父さんもその恩恵にあずかる。おばあさんは昔の自慢話をしてくれ、一家は団欒(だんらん)の内に全員で健康を取り戻し、冬でも風邪をひかない身体に、いつの間にかなっているという。

 西園長の三代を変える理論は、このように自然に実現できている。

 「まごは優しい」が高取保育園の給食のキーワード。「ま」は豆類。「ご」はごま。「は」はわかめ(海草)。「や」は野菜。「さ」は魚。「し」はしいたけ(きのこ)。「い」は芋類。玄米と共にこれらの物を摂っていると、孫は祖父母に優しい人に育つというわけだ。

 実際、この園に一日おじゃましていただけで、私もすっかり行儀のよい言葉使いに戻った。お話をする時は、膝(ひざ)をつき、相手の目をまっすぐ見て、丁寧に尋ねる。

 「大根漬けが始まる前に、僕がお迎えに来ますから先生(私のこと)は、こちらでお待ち下さい」

 こんなことが言える年長さん。ここでは玄米・無農薬野菜で、健康になるだけでなく、心も健全な子どもが育っている。

 日本中がこんなふうに「有機無農薬の食育」を始めたら、一九六〇(昭和三十五)年の穀物自給率、82%くらいまでは取り戻せるのではないだろうか(ちなみに二〇〇三年の統計ではフランスは173%、アメリカは132%、日本は何とたった27%なのである)。

 【写真】園児たちが自らよそって配膳する。残食はゼロ。玄米ご飯を中心とした地味な和食を幼子たちが喜々として食べている。おいしいからだ



2008年9月22日付・朝刊

【11】高取保育園(下) 子どもたちがつくる


  玄米に雑穀を交ぜたごはん、味噌汁、納豆。一歳児からこんなものを毎日給食で食べている福岡市の高取保育園の子どもたちは、その食事につけてもらう、大根の沢庵(たくあん)漬け、高菜漬け、らっきょう、梅干し、味噌(みそ)を自分たちでつくっている。

 昭和四十三年から無農薬有機作物にこだわっている給食にしてこられた西福江園長が「和食の基本を食べる」だけでなく、「つくる」ことで、園児たちが身体はもちろん、心も強い優しい人に育ってほしいと願ってこられたからだ。

 高取保育園が給食に使う有機野菜は、二軒の農家から届けられる。沢庵漬けの大根と米は、平田農園から。露地野菜は三坂百菜園から。

 平田敏雄さん(82)は年に五回漬けられる沢庵漬けの大根を、去年は四百八十本、子どもたちに届けた。届けると、子どもたちが並んで迎えてくれ、「平田のおじちゃん、ありがとう」と送ってくれる。感謝の心が伝わる。

 写真の沢庵漬け作業は、三週間前に平田さんが届けた大根を使っている。「洗って、くくる。その瑞々(みずみず)しい大根が、毎日お日さまに当たって、色が変わり、においが変わる。『園長先生、甘いにおいがしてきたね。ちょっと端っこをかじってみていい? もう漬けていいころかな?』と子どもたちは私に聞いてきます」と西園長。

 さらに続けて、「自分たちで、生きることや、生かされていることや、そして死ぬことさえも、こんなふうにいろいろな食べ物をみんなで作ることで学んでゆくのです。うちの子はみんな、立派なうんちをしますよ。納豆、漬物の発酵力が身体にいいのだと、子どもたちは知らず知らずのうちに刷り込まれもしてゆくのですよ」。

 みんなで洗って干した葉付き大根を、先生方に包丁で葉と大根に切り分けてもらい、塩と糠(ぬか)を交ぜたものや昆布、鷹(たか)の爪(つめ)をまず底に敷いて、その上に大根というふうに交互に置いてゆき、最後に葉っぱを置いた上に重しを置いておく。

 何日くらいで食べられるようになるのか、新漬けと古漬けの味の違い。こんなことからも子どもたちの感性は、何かを学ぶ日々を重ねるのだろう。

 「沈黙の春」を著して農薬の恐ろしさを世界に教えたレイチェル・カーソン女史は、こんな子どもたちの感性を「センス・オブ・ワンダー」と名付けた。「驚くこと」、どんな小さなことにも驚いて、素直な心で受け入れ育っていく力も、健全な作物と、それを使って子どもたちが自分たちの共同作業でつくってゆくことで培われることを、高取保育園の先生方は、日本列島の南から発信しておられる。

 そしてその園に子どもたちを送り出すお母さんたちも、最初は自分の子どもの身体に現れたアレルギー症状がきっかけで園とのかかわりを持つが、子どもたちが園で食べる食事と同じ有機無農薬野菜を使った玄米を中心とした和食を家でも作るようになるに従って、自分たち親も健康になってゆくことに気づく。

 「センス・オブ・ワンダー」は、大人になっても忘れてはいけない心であったことが、このお母さんたちには分かるだろう。

 ましてや「食」を司(つかさど)る省庁、農林水産省ならなお更なこと、と。昨今の食の不安には驚かされる。

 小さな毎日の安心を積み重ねる高取保育園の「食育」活動を、日本中でぜひまねてみてほしい。

高知新聞11

 【写真】2つの樽に、年長組(5歳児)42人で、98本の有機大根を漬けた、ことしの1月29日

 









2008年10月13日付・朝刊

【12】高畠に生きる(上) 農民詩人として

山形県東置賜(おきたま)郡高畠町は、大正・昭和期の歌人、結城哀草果(あいそうか)が「大和は国のまほろば」になぞらえて「置賜は国のまほろば 菜種咲き若葉しげりて雪山も見ゆ」と詠んだことにちなみ、まほろばの里と称され、有機農業が盛んなことで知られている。「真秀(まほ)ろば」の「ほ」は稲の穂などを意味するように、最上川の支流が二本も置賜盆地を貫流する米どころである。

  星寛治(かんじ)さんは、ここで生まれ、農家の長男として育ち、三十五歳にして有機農業に転身し、以来三十七年間、有機農業一筋。自身も耕作を続け、全国のそして海外からも、様々(さまざま)なジャンルの人々をこの高畠に惹(ひ)きつけて育ててきたことで知られている。

 一九七四(昭和四十九)年十月十四日に、朝日新聞に有吉佐和子さんの「複合汚染」の連載が始まり、八カ月半にわたって続き、日本人を農薬の害に目醒(ざ)めさせた。レイチェル・カーソン女史がアメリカで「沈黙の春」を出版した一九六二(昭和三十七)年の十二年後のことであった。

 有吉さんは、連載が開始される直前に、テレビ局のクルーを伴って、星さんのリンゴ畑や刈り入れの終わった田んぼを取材しにこられた。星さんら高畠の農家の後継者三十八人が一年前に立ち上げたばかりの「高畠町有機農業研究会」のために、自分が十年以上も取材してきた農薬汚染やそれによる農民などの健康被害に関する膨大なデータを示しての講演もしてくれた。

 今も星さんのリンゴ畑には、真っ赤なブラウスを着た有吉さんがもぎった、真っ赤な紅玉の樹が残されている。有吉さんは紅玉が大好きで、その後も星さんのこのリンゴを毎年所望されたそうだ。「詩を書く農民」であった星さんを深く信頼し、作柄を気にしては電話をしてこられ、励ましてくれた「木戸御免の仲」であったという。

 有機栽培に切り替えて一年目、二年目の田は、四割減収だった。化学肥料、農薬、除草剤を使わず、堆肥(たいひ)など有機肥料だけを施して、土づくりで勝負する、近代化を超える「もうひとつの農法」を目指す取り組みは、嫁殺し農業と呼ばれた。連日、四つん這(ば)いになって草を手取る苦労からだ。

 三年目、空前の冷夏が東北各地を襲った。山形県内でも収穫皆無の地域もあった。そんな中で高畠では、有機農業に取り組んだ「高畠町有機農業研究会」会員の田んぼだけがポツン、ポツンと黄金色の実りを見せていた。周りの慣行農家は、その田んぼをまるで奇跡を見るような目で見ていった。

 「まさに、手作り農業の凱(がい)歌ですね」。有吉さんが、わがことのように喜んでくれた。田んぼの温度が隣りの慣行栽培田よりも三度高かった。これが勝利の原因だった。これは有吉さんの「複合汚染その後」に書かれた。


 【写真】先に杭(くい)掛けを終えたササロマンを手にした星寛治さんと妻・キヨさん。奥の田でまだ穂を垂れているのはコシヒカリ。有機農法に切り替えて30年の田んぼだ


 京都大学の土壌微生物学者である小林達治教授が解説してくれた。「星さん、当たり前ですよ。よく肥えた土の一握りには、ミミズとか目に見える小さな生き物たちだけでなしに、酵素とか土壌菌など、顕微鏡の世界の微生物が、数億から数十億の単位で生息し、土中の小宇宙をつくり出しているんです。その生命活動のエネルギーが、温かい土の体温を生成するパワーなんですよ」と。

 鳥が舞い

 虫うたい

 子らの歓声がみなぎる

 この列島の風景を

 失うまいとひつしに思う

   (「みのる時」星寛治)

 星さんは野良仕事の中でこんな詩をつくって、有機農業と共に、高畠で生きてきた人である。



2008年11月4日付・朝刊

【13】高畠に生きる(下) 交流活発、人も育てる

山形県高畠町では一九七三(昭和四十八)年に、青年団活動でリーダーを務めていた星寛治さんを中心に農家の後継者たちが「高畠町有機農業研究会」をつくった。今は思い思いの趣旨の有機農業グループが八団体もつくられている。

 遠藤周次さん(68)は、当時の「研究会」の創設メンバーの一人で、「ゆうきの里・さんさん」のチーフマネジャーを務めている。ここでは「たかはた共生塾」が展開されている。今年で十七年目を迎えた「まほろばの里農学校」を共生塾の主行事として、これまで四百人を超える卒業生を出してきた。

 共生塾はほかにも、有機農家への研修生や、大学のゼミ、修学旅行生の受け入れなどで年間千人以上の来町者を引き受けている。

 渡部務さん(59)も青年団メンバーだった一人で、周辺の仲間とつくる「有機農業提携センター」では米の担当。二十五グループ、千軒の消費者と米を通した提携活動をし、奥様は百種類以上の有機野菜をつくって十六軒の消費者とつながっている。自宅敷地内に農業体験者のための合宿所「さと小屋みず穂」をつくり、学生たちを受け入れ続けてきた。

 こうしてみると、高畠の有機農業者は、農作物もつくるが人も育ててきたといえよう。それが高畠が「まほろばのゆうきの里」と全国に知られている理由だろう。

「この地が好き」

写真の工藤賢悦さん(54)は、高畠へ入植して十六年目になる。第一回「まほろばの里農学校」の研修生としてやってきて、研修の最終日に「ここで農業をやりたい。田んぼ三町歩とトマト畑三反歩を私に貸して下さい。それで生活できます」と宣言した。

 今は六・九ヘクタールの田んぼで米をつくり、そのうちの二・八ヘクタールが無農薬米だ。大豆も十ヘクタール。これをまったく一人の手でつくっている。周囲からは六十五馬力の大型トラクターを駆使する“がんばり屋”として知られている


 【写真】工藤賢悦さんと大豆畑。大豆は10ヘクタールを有機無農薬栽培でつくっている

 工藤さんは青森県の米農家に生まれた。青森県で米をつくるのは厳しい。だから「商経アドバイス」という“ヤミ米新聞”といわれていた米流通の新聞社に勤め、米流通の表も裏も、米農家の苦労話も人一倍知っている。そうした経験を経てのIターンだ。

 「米が日本一おいしいと言われている新潟の魚沼とこの地は地形、気象が似ている。しかもここは、コシヒカリ、ササニシキ、あきたこまち、ひとめぼれの、おいしい品種がどれもでき、味もよく量もできる全国唯一の場所」と、初めてきた時に直感したという工藤さん。

 有機農業をやろうと思うきっかけとなったのは、記者時代に二歳の娘さんがアトピーになったため。安全なものを食べさせたいという思いと、青年時代に「青森では無理」とあきらめていた農業への憧(あこが)れが行動に移る起爆剤となった。高畠に移住することに迷いはなかった。

 「高く売るだけが目的なら、田の除草でも楽な有機用資材はある。しかし、有機農業の第一の条件は“安全”。だから少しでも疑わしいものは使いたくない。一生をかけた仕事だから“安全”にはとことんこだわりたいのです」

 こんな人をもひきつける力が、山形の高畠町には、ある。

 外から来た人は、一度訪れると、またここに来たくなる。それを称して「あの人も高畠病にかかった」と、この地の有機農業者の間では言うそうである。


2008年11月24日付・朝刊

【14】無農薬リンゴを作った男

「草木にも心ある」

 木村秋則(あきのり)さんに、御著書「自然栽培ひとすじに」(創森社刊)へサインを下さるようにお願いすると、こう書かれた。

 木村さんは、一九四九年、青森県岩木町(現弘前市)のリンゴ農家の次男に生まれた。一度は川崎市の機械メーカーに就職したが帰郷し、リンゴ農家の養子となる。農薬を使うリンゴ栽培に励むと、妻やそして自分にも農薬の害が出て、一念発起。

 リンゴの無農薬栽培に挑戦し、十年近い「無収穫。極貧」の時代を経て、わが国で唯一のリンゴの無農薬・無肥料の自然栽培に成功した男(ひと)だ。

 「草木にも心ある」。これは木村さんが、リンゴが一個も実らず、木が弱ってグラグラになり次々と倒れていった後ついに今の農法を編み出しリンゴを実らせた時、達した心境だったろう。

 リンゴは日本には一八七一(明治四)年にアメリカから輸入され、冷涼地が栽培に適していることが研究で分かり、津軽(青森)では、廃藩置県によって困窮を極めていた旧津軽藩士への支援事業として広められた。

 しかし、リンゴは病害虫に弱かった。著者の知る東北の無農薬農家の方々も、「リンゴだけはボルドー液など古くから使われてきた農薬を使わなければ絶対にできない」とおっしゃる。

 木村さんは、リンゴ畑を次々と無農薬にしてゆき、病害虫の駆除のために、酢やワサビなど思いつくあらゆるものを農薬のかわりに播(ま)いていった。その上、リンゴの木に負担がかからないように、下草も丁寧に刈り続けた。

 しかし、リンゴの木は弱って、倒れてゆくばかり。花も咲かず実もつけてくれない。初めのころはリンゴの木に、「どうか実をならせておくれ」と声をかけていた。

 三人の子を抱える生活は貧窮し、黙ってついてきてくれる妻と自分は粥(かゆ)を啜(すす)る毎日が続くようになると、「もう実はならせてくれとは言わないから、どうか倒れないでちょうだい」と木に哀願するようになった。

 無農薬に取り組んで九年目、一九八五年七月三十一日。東北の大祭ねぶたの前夜。自分が首をくくるためのロープを編んで大好きな岩木山の山中をさまよった木村さんは月光下、たわわに実をつける一本のドングリの木に出会う。「山の木は肥料も何もやらなくても、こんなに実をつけているじゃないか」、地面はフカフカで、「これだ!」と分かった。

 「自分は無農薬にかわる何かを見つけさえすれば無農薬リンゴはできると思っていたが、間違っていた。畑の中に自然の循環を再現させる自然の力を引き出すことを考えねばいけなかったんだ」との想(おも)いに達したのだ。自殺を考えていたことなどすっかり忘れてしまうほど嬉(うれ)しかった。

 軟らかい土をつくるためにその後は数年、畑に大豆を播いた。根粒菌の助けを借りて、土の中に微生物がたくさん生きられる環境をつくっていった。有機肥料も入れるのをやめた。

 一本の木がたった七個だが花を咲かせたのはそれから三年後、すべての畑で農薬の使用をやめてから八年が経(た)っていた。

 「ありがとう、よく頑張ってくれたね」。そう声を掛けたこの木の近くには、一列すべての木が枯れてしまったところがあった。道路の近くなので、木に話し掛けている自分を他人に知られるのが恥ずかしくて、声を掛けなかった木々たちだった。

 【写真】フカフカの土を見せてくれる木村さん。畑にたくさんの雑草が生えているのが、よその畑と違うところ


2008年12月25日付・朝刊

【15】なのはな畑塾 市民農園をつくる

 名鉄・犬山線で名古屋から二十分。ベッドタウンの田園風景に布袋(ほてい)駅はある。駅から歩いて八分。三十四区画の「なのはな畑塾」は、佐々木正(ただし)さん(61)が三年前につくった“有機市民農園”だ。

 今シーズンの冬野菜は、ネギ、ニンジン、大根、赤カブ、キャベツ、ブロッコリー、白菜、小松菜、小カブ、春菊などを三十四家族が、先生に教わりながら思い思いにつくっている。

 佐々木正さんは、四十五歳までは本物の先生として子どもたちに理科を教えていた。農業をやりたいと名城大学農学部に入学し、農業改良普及員の資格も取っていた人だ。大学四年の時に、当時はまだ「生と死の妙薬」と訳されていた「サイレント・スプリング(沈黙の春)」を原書で読んでいる。

 四十五歳になって、「やっぱり農業がしたい」と農地を探した時、江南(こうなん)市役所の農務課が日曜も返上して付き合ってくれ、近隣の稲沢市の菊栽培農家に連れていってくれた。農薬によって目がよく見えなくなり、手足も痺(しび)れている四十代の農家は、有機栽培に切り替えて野菜を中心の宅配を始めた、と教えてくれた。

 「農業をやるなら無農薬」と初めから決めていた佐々木さんは、「サイレント・スプリング」に共鳴する市民との提携の道を自分も選び、多い時には百三十軒への宅配を十五年間続けてきた。

 三年前。まだ日本ではあまり取り組まれていない「有機市民農園」をやってみたいと志す。近所に自分の畑も、その「なのはな畑塾」もある。
 今は、“自然農(肥料もやらず、耕さない)”に憧(あこが)れている大池陽子さんが研修生として通って、同じ場所で、栽培をしているので、一緒に「なるべく自然な農業」を追求していこうと考えている。
 「なのはな畑塾」のような有機農業者が市民を指導できる仕組みが、日本中にもっとたくさんあればよいのに、と佐々木さんは考える。

 安心できる安全な農作物を、都会に住み畑のない市民は、有機や自然農法を実践する農業者に作ってもらって入手する。しかし、住んでいるところから三十分くらいのところに借りられる畑があれば、自分の健康のためにも毎日出かけてゆき、耕すのではないか。

 フランスなどでは一九八〇年代から、都市生活者を田舎へ移住させる政策を国がしっかりとってきている。“市民農園”と言えば、ドイツには「クラインガルテン」、ロシアには「ダーチャ」もある。

 わが国は、自給率が40%しかないと嘆きながら、国も地方自治体もやれることを全然やっていない。その一つが「市民農園」であり、中でも「有機」や「自然農」でその指導ができる人を育てることであったと思う。


【写真】「なのはな畑塾」の一角で、佐々木さんと研修生の大池陽子さん


 「第2期に入った」

有機農業には三十五年間、国の後押しがなかった。三十五年前から取り組んできた人々の多くは、もう七十代に突入している。
 しかし、「有機農業推進法」が一昨年に成立し、有機農業は第二期に入ったと言える。年配者は佐々木さんのように自分から進んで“有機市民農園”の指導者になってはいかがだろう。

 石油が枯渇し、食料を運ぶシステムが回らなくなっても、自分で作っていれば食うには困らない。そんなシステムを国民全体でつくるのだ。
 有機や自然農法で畑を耕せば「地球温暖化防止」になる効果が農薬を使うよりも数百倍高いと、まもなく政府も発表するといわれている。

 「市民にもできることはある」と佐々木先生、後半人生で教えたいようだ。


2009年1月19日付・朝刊

【16】大地を守る会 生産者と消費者結ぶ

 

 一九七五年八月、今から三十三年前に、有機農作物をつくる生産者とそれを食べたい消費者を結んで始まったのが「大地を守る会」の活動。今では八万九千人の消費者と二千五百人の生産者をネットワークしている。

 写真の「大地を守る手帖」には、こんな「有機農作物生産基準」が載っていて、私を驚かせた。
 @できる限り、農薬・化学肥料を使わない。
 A原則として除草剤は使用しない。
 B土壌消毒はしない。
 C他人の悪口は言わない(有機転換中の人に寛容を欠く批判糾弾をしない)。

 私はCを見て、「大地を守る会」をいっそう信用するようになった。またこの一行は、これまでおよそ三十五年以上の有機農業普及の歴史には、いろいろなことがあったのだろうと推測できる言葉だ。

 「大地を守る会」を、会長を務める藤田和芳さん(61)がつくったきっかけは、元陸軍医の高倉煕景(ひろかげ)さんが、「兵器として開発された化学物質が戦後に農薬として姿を変えて使われ出しているが、使用している農家に健康被害が出ている」と憂え、農薬を使わない農業を進めていこうとしていたのを知ったからだった。藤田さんは水戸に高倉さんを訪ね、「私がその野菜を都市へ売りに行きます」と手を挙げて、「大地を守る会」は始まった。

【写真】「大地を守る手帖」。08年7月に出版された文庫本大の「大地を守る会」のガイドブック

  長老との対話

私が藤田さんに初めて会ったのは、「大地を守る会」の四国生産者の会の研修旅行だった。藤田さんはそのようによく、生産者の方々の顔を見に行き、話に耳を傾けるようだ。

 「今度、こっちの畑からの生産を増やしてくれることはできませんか。『大地を守る会』の会員がおかげさまで増えて、野菜が足りないんですよ」
 藤田さんがこのように言うと、四国の生産者を束ねる長老は「待ってました」という顔をした。
 「うん。わしの近くの、今はまだ減農薬≠始めたばかりの人がな、なんとか仲間に入れてくれんか、わしも孫にもそっと小遣いをやりたいと、だいぶ前から言うてきとったんじゃ。あれが喜ぶやろ。仲間に入れてやってもいいかね。ありがたい」

 有機農業推進法が二〇〇六年に成立するまで、有機農業に取り組んできた人々は、悔しさや苦労をたくさんしてきた。そんな中では、自分と他人のやり方が違うというだけで非難をし合ったこともあっただろう。

 しかし、戦後、農薬を広めてきた農林水産省自身が昨年は、「これまでの農薬使用などが生物多様性≠ノ負の遺産≠与えてきていた」と発表している。
 これからは、無農薬や有機農法に取り組んできた生産者が「少しでも農薬を減らそう」という努力をする生産者を励まして、多くの消費者に安全な野菜が届き、それによって自国産の野菜を食べる国民が増えるような社会をつくってゆくべきだろう。

 「大地を守る会」は、その時に生産者たちが一番気をつけるべき「心根」を、「生産基準」という物理的な課題にプラスして付け加えていたのだ。

 「大地を守る」をキーワードにして、生産者と畑を持たない消費者を結ぶ。だから「大地を守る会」は、大地を汚す核物質など危険物質の拡散に反対するNGO活動もしている。

 こんな人たちに運んでもらえる野菜たちは、実は喜んでいるのではないかと、手帖の野菜の写真を見ていると思えてきた。
(2009年01月19日付・朝刊)


2009年2月16日付・朝刊

【17】“お医者様”から始まった 21世紀も土佐からよ


 「鍬(くわ)と聴診器」の著書のある、熊本県公立菊池養生園の名誉園長・竹熊宜孝(たけくまよしたか)さん(74)は、説法医≠ニして名高い。病院は西洋医学の設備を整えた立派な施設だが、竹熊先生は「まず薬」ではなく、人々に「玄米・無農薬食を正しく摂(と)る」ことを説くことを旨とされている。そうしてから必要ならば漢方薬を処方し、養生園内には鍼(はり)治療院も置いておられる。

 第二次世界大戦敗戦後、アメリカ軍の占領とともに日本での使用が広まっていったのが、農薬。大戦中に両陣営が兵器として開発していた化学物質が、戦後は農薬≠ノ姿を変えて登場し、使われていったものだ。

 先回に登場した元陸軍医の高倉煕景先生、昭和三十七年にアメリカでレイチェル・カーソン女史が「サイレント・スプリング(沈黙の春)」を著す一年前に奈良県五條市で「農薬の害について」というパンフレットを自費出版されていた梁瀬義亮先生、そして竹熊先生などお医者様≠ゥら、「無農薬・有機農業普及」は始まった。

 農薬を扱う農民に「健康被害」が出ていることに、これらの医者が全国各地で気付き始め、家族に被害の強い農家が、「本当に農薬がないと農業ができないのか」と追求した農法が、「有機農法」だった。

 「農協の知恵袋」とまで言われていた一楽照雄さんが農薬の害を憂い、農協が農薬を広めることに疑問を呈して、アメリカの書物を訳してゆく中で登場してきた「オーガニック・ファーミング」を「有機農業」と訳し、農薬を使っていなかった昔の日本農業に立ち返ることを、新しいスタイルとして勧めたのだ。

 それは、戦争から戻ってきた兵士たちの口を養い、復興のために「産めよ増やせよ」と人口増加に努めなければならなかったわが国政府と、農薬を兵器≠ニして売れなくなった資本家たちがバックにいたアメリカ政府の方針に反していたから、当然のように迫害≠受けるに至った。

 これが、農薬使用と有機農業が、長らく対立し、それゆえ有機農業者がいわれなき圧力を農林水産省や、地元自治体や、農協から受け続けなければならなかった理由であったろう。

 わが国政府は、一昨年七月、「生物多様性戦略」なるものを世界に向けて発表した。来年名古屋で開催される「生物多様性条約締約国会議」へ進むための一歩で、そこには「戦後大量に使用してきた農薬や、水路の整備や、干潟の埋め立てなどが、生物の多様性に負の遺産≠与えてきた」と明記されており、なんと驚くことに、諫早湾の埋め立ての写真が使われている。

 ようやくわが国も、農薬を使い続けることの危うさ≠認めたといえよう。

 二〇〇六年には「有機農業推進法」が、与野党の心ある議員と、三十五年以上有機農業普及に苦労をされてきた人々の努力によって成立もしている。 農水省は、二〇〇八年度に初めて四億六千万円の予算を有機農業に付け、「半額補助」ではなく「全額補助」という形で、厳選されたモデル事業に配分した。農水省のお役人たちにうかがったところでは「これまでの反省を踏まえて、苦労されてきた方々へのおわびのつもりで、『全額補助』というスタイルを少なくとも五年間は取ります」ということらしい。

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 【写真】「鍬と聴診器」の著者、竹熊宜孝先生。「養生はまず食べもんから変えるがよかですたい」と、人々にわかりやすく説き、自らも耕 

この原稿は、私自身が主催者事務局として動いた「オーガニックな一日≠奄詩rm」の翌日に書いている。


 オーガニックな一日

 「オーガニックな一日≠奄詩rm」は、私が事務局長を務めている「高知439国道有機協議会」が主催団体ではあるが、「高知県有機農業研究会」という、昨年三月より高知港で毎週土曜に「オーガニックマーケット」を繰り広げられている関係者たちの協力なしには成立しなかった。三十もの出店者が朝の「オーガニック野菜フェア」には、岡ア誠也高知市長が私たちに提供してくださった「かるぽーと」の前庭に集まってくれた。

 岡ア市長も「存じていなかった」とパネルディスカッションではおっしゃったが、毎週四十グループ以上が集まる港の「オーガニックマーケット」は日本最大の規模で、わが国にはまだ二つしかない(もう一つは名古屋)、「無農薬・有機農作物」に限定した素晴らしい野外市場=B

 市長さんだけでなく、港で出店しているご本人たちも、どうやらそれをご存じなかったことが、今回判明した。多分、尾ア正直知事もご存じないのだろう。

 私たちの「高知439国道有機協議会」は、三カ所のモデルほ場をつくり、有機農業の指導をすでに二年間続けてきている。

 高知県は、「一周遅れのトップランナー」に、有機農業≠フおかげでなろうとしていると、私には見える。
 そして「オーガニックな一日≠奄詩rm」は、市民が行政よりも先に立って「オーガニックな高知」づくりを進めているという、土佐っぽ≠フ気概を見事に示した一日だったといえるだろう。

 連載の最後に、「オーガニックな一日≠奄詩rm」を紙面でさまざまに応援してくださった高知新聞社に、謝意を表したい。

 「二十一世紀の夜明け≠焉A土佐から始まるぜよ!」
 
=おわり