2.わが国の巡礼

@「蟻の熊野詣」

「蟻の熊野詣」という言葉がある。平安時代から中・近世(11世紀から12世紀)にかけて、熊野へ参詣する人々の多かったことを、蟻が餌物から巣まで長い行列をしていることにたとえたのである。熊野地方は辺鄙なところである。京都から紀伊半島の南端の潮岬まで、ちょうど正しく南北の方向で直線距離で約170kmほどである。しかし、和歌山県と奈良県の境を流れる紀ノ川から潮岬までの、ほぼ100kmの大部分は山岳地帯で、大峰山系、大台ケ原山系のように、海抜1,000m以上の山々が数十峯つらなり、最高峯は1,900mを超える大密林地帯である。峯々の間の谷は深く、熊野川、北山川、十津川をはじめ大、中、小の川ぞいに道はあるが、けわしい。しかし大密林地帯の巨木古樹の鬱蒼と茂っている景観は神秘的である。古人が熊野の山々に神々が、いますと考えたのは、この神秘さの故であろう。

 このような地理的条件が、外界との交通を困難にし、熊野の閉鎖性と孤立性を永く保持させたが、それはまた、熊野が宗教的聖地として神聖化されてきた要因の一つである。

 また熊野という地名も「熊は隈にて古茂累義にして山川幽深、樹木蓊蒼なるを以て名つくるなり」(紀伊風土記)とあり、「神奈備の御室」すなわち神霊の隠れこもるという意味と同義である。しかも熊野の「熊」(隈)は、大己貴命(大国主神)「八十隈に隠去れなむ」(日本書紀)と表現され、冥土の古語とされる「クマデ」「クマド」「クマジ」と同じで、死者の霊のこもるところでもあった。『万葉集』では、このような地をしばしば「隠国」とよんだが、熊野はまさに隠国にほかならなかった。

 このように考えると、熊野は神あるいは霊の国とよばれた名であることが知られ、のちに「亡者の熊野参り」や、雲取越え(熊野本宮から那智妙法寺山への古道)を「死者の山路」という信仰を生んだのである。たとえば前者は『紀伊続風土記』の那智妙法山の条に、「世俗に亡者の熊野参という事を伝へて、人死する時、幽魂必当山に参詣すといふ。・・・(中略)・・・世の人古くいひ伝へたり。」とあり、この「亡者の熊野参り」という信仰伝承は、もとは熊野一般にいわれたものが、のちに那智妙法山にのこった伝承と思われる。また雲取越えとは、標高750mの那智妙法山の奥之院から熊野本宮に通ずる古道を指すが、この妙法山阿弥陀寺の御詠歌に「くまの路を ものうき旅と おもうなよ 死出の山路で おもひしらせん」とあり、西国巡礼者は、ここで、この御詠歌をあげる。これは雲取越えの道が、「熊野(死者の国)の入り口」に擬せられたのである。

 一方、熊野はこの山国の顔とともに、もう一つ「海の熊野」の顔をもっている。那智は海上他界・海洋他界の常世を信仰対象として、辺路修行を中心とする初期修験道的な熊野信仰をもっていたと考えられている。それはまた、平安時代以降に、「補陀落渡海」という入水往生のきびしい宗教的実践が那智に相続されたことと関係があると思われる。

 平安時代の後期に浄土信仰がさかんになると、那智山は「補陀落山の東門」(三国伝記)と称されて、熊野那智の洋上の彼方を補陀落浄土あるいは観音浄土とする信仰を生んだ。これは太平洋岸に位置する古代熊野の海上または海洋を他界、すなわち死者の霊の集まる世界とする常世信仰が仏教の観音信仰と習合した結果である。そのため死を賭して那智の浦から補陀落浄土(観音浄土)をめざす補陀落渡海と補陀落信仰(観音信仰)ができたのである。このうち補陀落信仰については、西国三十三観音霊場の第一番札所である青岸渡寺の御詠歌に「補陀落や 岸うつ波は 三熊野の 那智のお山に ひびく滝つ瀬」と巡礼者に歌われたことで知られる。

 他方、補陀落渡海は那智の浜から船出して、観世音菩薩のすむ補陀落浄土に往生する宗教儀礼といわれる。しかし実際には山伏や聖(民間宗教者の総称)が入水し、身を捨てるという形態をとった捨身の行である。この宗教的実践行によって死ねば、その霊魂は信仰対象である補陀落=観音の浄土で永遠に生き続けられると信じられたのである。

 このような背景のもと、貴族・武家階級から一般庶民に至るまで熊野信仰が広まり、「伊勢へ七度、熊野へ三度、お多賀さまへは月詣り」と、「蟻の熊野詣」と称されるほどの賑わいをみたが、戦国時代以降、紀州藩の熊野三山の神道化政策により衰微し、その後、明治政府の神仏分離令がさらに拍車をかけ、かっての熱烈な庶民信仰が失われたのである。

A「わが国における主なる巡礼」

巡礼は、巡礼者の心の持ちようから、「本尊巡礼」と「聖蹟巡礼」に分けて説明されることが多い。

本尊巡礼とは、特定の神仏との血縁を望む者が、神仏が鎮座したり、降臨または出現するとされる場所へ次々におもむくものである。重要なのは札所であり、本尊にできる限り近づくことなどが重視される。

一方、聖蹟巡礼とは、自らが崇敬・追慕する聖人の辿った道のりを、同じように歩みたどりながら、聖人に所縁のある場所へとおもむき祈るものである。重要なのは、聖人の行路であった巡礼路であり、自分の足で歩くことが重視される。

全国から巡礼者を多く集める西国巡礼や四国遍路に対し、もっぱら限られた地域の人々が巡礼するコースは、一般に「地方巡礼」「地域的巡礼」と呼ばれている。それらの多くは西国巡礼や四国遍路を模して創設されており、なかでも規模が境内などごく狭い空間に限られるものは「ミニチュア巡礼」とされる。

 巡礼の本尊と主な巡礼コース

本尊・聖人

名     称

地        域

観音菩薩

西国三十三観音霊場

和歌山・大阪・奈良・京都・滋賀・大阪・兵庫・岐阜

坂東三十三観音霊場

神奈川・埼玉・東京・群馬・栃木・茨城・千葉

秩父三十四観音霊場

埼玉

弘法大師

四国八十八ヶ所霊場

徳島・高知・愛媛・香川

知多四国八十八ヶ所

愛知

小豆島八十八ヶ所霊場

香川

篠栗四国八十八ヶ所

福岡

越後二十一箇所霊場

新潟

七福神

宝の道七福神霊場

京都・兵庫・福井・滋賀

不動明王

関東三十六不動霊場

神奈川・東京・埼玉・千葉

薬師如来

中国四十九薬師霊場

岡山・広島・山口・島根・鳥取

地蔵菩薩

河泉二十四地蔵霊場

大阪

阿弥陀如来

弥陀霊像西方四十八願所

長野・愛知・三重・滋賀・京都・奈良・和歌山・大阪

兵庫

十三仏

おおさか十三

大阪

守護仏

武州寄居十二支守り本尊霊場

埼玉                  

関西花の寺二十五ヶ所霊場

京都・兵庫・大阪・滋賀・奈良・和歌山

円光大師

法然上人二十五霊場

岡山・香川・兵庫・大阪・和歌山・奈良・三重・京都

見眞大師

親鸞聖人二十四輩

東京・栃木・茨城・群馬・福島・岩手・新潟

立正大師

日蓮宗本山めぐり

山梨を中心に、北は宮城、南は佐賀に至る広域

菅原道真

天満宮二十五社

京都・奈良・大阪・兵庫・香川・広島・山口・福岡

釈迦如来

釈迦三十二禅刹

京都・滋賀・福井・石川