第二章 わが国の巡礼と西国三十三観音霊場

1. わが国における巡礼の始まり
@観音信仰の起こり

日本の観音信仰がいつごろ伝来したかということは文献的には不明である。しかし東アジアの観音信仰の伝播の状況からみると、わが国へもすでに古代から入っていたと思われる。

中国では北魏時代(南北朝時代の北朝の最初の国)(386〜534)にすでに観音像が造られており、観音に関する経典も流行していたので観音信仰が盛んであったと思われる。

この北魏の観音信仰は三国時代(朝鮮半島に新羅 高句麗 百済の三国が鼎立していた時代4〜7世紀頃)に朝鮮に伝わっている。中国で造られた観音像が三国時代の朝鮮での造像を促し、更に其れが十世紀の飛鳥 白鳳時代の日本へ伝来してきたのである。大化前代(大和朝廷時代末期6〜7世紀頃)以前における日本の観音信仰の伝来と造像については文献上の記載はなくまた紀年銘文がある観音像の遺品もないので明確に何年何月に日本に伝来したということはいえない、しかし既に「法華経」が日本に伝来していたことは確かであるから「法華経」の「普門品」即ち「観音経」も入っており、其れに伴って信仰もあったものと推定できる。伝説ではなく歴史的事実として日本における七世紀の観音信仰については文献には明記されていないが仏教文物によって確証される。例えば法隆寺夢殿の救世観音は「天平十九年(747)法隆寺東院資材帳」に太子等身観世音菩薩像」と記されており、わが国初期の観音像の一つである。さらに辛亥年(651)銘観音像(法隆寺献納宝物、東京国立博物館蔵)には紀年銘があることから、七世紀中頃には観音像が日本において造像されたことは明らかである。観音像が造られていたということは観音信仰も行われていたとの証拠になる。こうした観音像を見ると銘文から造像の目的が個人的な「父母らへの追善」のためだったことがわかる。奈良時代和銅三年(710)平城遷都とともに官寺の造営と造仏事業が盛んに行われるようになった、ただしこれは民衆レベルのものでなく朝廷を中心にした国家仏教レベルのものであり、観音も護国的菩薩として受け入れられていったのである。「観音経」は観音が人々の願いに応じて三十三身に姿を変えて救いを求める人々の前に現れることを説いている。観音という菩薩の中には様々な変化身(三十三身)が内在していた、だから人々の願いに応じて臨機応変に多くの変化身が尊像として造型化されるようになったのである。またこれに拍車をかけたのが唐代の宗教の密教化であったといわれる。当時 唐に派遣された留学生によって密教化された観音が日本に伝えられたことが、奈良時代の多様な観音の造像に拍車をかけたと思われる。特に大きな役割を果たしていたのが留学生の玄坊と道慈であった、天平7年(735)に帰国した玄坊が唐の代表的な経典目録である「開元釈教録」に基づいて請求した経典の中には変化観音と称される十一面 不空羂索 千手 如意輪等に関係のある密教の経典が含まれていた。わが国では天平七年(735)の玄坊の帰朝以後に始めて千手観音像が造られたと言われている。後の西国三十三観音霊場のうちほぼ半数が千手観音を祀っておりこの観音がいかに盛行したかがわります。こうして6〜7世紀以降次々と変化観音が生まれたが、六観音が着目されるのは十世紀の貴族社会の頃で藤原氏が絶大な権力を手中に納めて摂関政治体制を作り上げていった時代で、この藤原氏と対立する貴族達は次々と没落して彼らの間で、阿弥陀仏の浄土への往生を願う信仰が生まれた。かくして浄土教の文脈の中で六道輪廻の苦しみが生々しく説かれ、その六道から救い出してくれる六観音が、貴族達に熱心に信仰されるに至った。此の天台六観音に対して「雨僧正」として知られる小野仁海は、実はそれら観音は密教で説く六体の観音の変化したものに他ならないと主張、正 千手 馬頭 十一面 准胝 如意輪の真言六観音を上げた。

十世紀の初めまでの真言宗の観音信仰は現世利益を主とした信仰であったが、浄土教が急速に貴族社会に広まってくると即物的な現世利益を説くばかりでは貴族の気持ちを満たすことが出来なくなり何らかの来世信仰の性格を加味する必要が生じてきた、そこで天台六観音に密教の観音を結びつけ 天台の六観音は実は真言密教の観音の変化したものに過ぎないと、説いたものと思われる。こうして古くから身近にあった密教の観音ばかりからなる真言の六観音が人気を得ることと成り、十一世紀になると六観音といえば真言の六観音の信仰に変わったのである。これに対して天台宗でも天台密教に基づく立場から真言の六観音の准胝観音と天台の不空羂索を入れ替えて天台六観音とした。いずれにしてもこれら六観音(天台の不空を含めた七観音)は現世利益と来世救済の利益を兼ね備えた観音となりこれら観音を本尊とする寺院には「現当二世の利益」を求めて多くの人々が参詣する事となった。そしてこの風潮が一般民衆の参詣や巡礼の対象として観音霊場を造ることとなり西国三十三札所巡礼を誕生させていくのである。

A西国三十三観音霊場の成立

最初に西国の霊場がどのようにして誕生したのかについて述べると平安京に都を移し優雅な生活を送っていた王朝貴族の社会では十世紀頃から近郊の霊験あらたかな観音寺院への参詣が盛んであった。それは京都では六角堂・行願寺(革堂)・清水寺・六波羅蜜寺など「七観音詣」として流行した寺々であり、京から少し離れた石山寺・長谷寺 粉河寺なども参詣者で賑わっていた。他方畿内外には聖や修験者が苦修練行を重ねた深山幽谷の地が多くあり平安時代も終わりに近い頃、その修験者たちは諸国を歴遊し修行で体得した法力や験力(げんりき)をもって庶民の現世利益の要望に応えていた。既成教団が貴族社会の上流階級に依存し形骸化するのに反し、聖や修験者の験力は庶民に新鮮なイメージとうけとめられその権威は相対的に高まっていった。その代表的な札所としては書写山圓教寺(開山:性空上人)がある、聖や修験者の地は「霊験所」や「聖の住所」としてだんだんと名声を高めて言った、那智 箕面 勝尾などはこうした聖や修行者の地であったといえる。院政期に急速に発達した新霊場(書写 箕面 勝尾など)と、9世紀以来の伝統的な旧観音寺院(石山 清水 長谷など)の二つの要素が組み合わさって西国霊場が誕生したものと思われる。それでは西国三十三観音霊場の巡礼は何時ごろ誰によって創設されたのかその創設については伝説に依拠するものや史実に基づくものなど諸説があるが、その幾つかを挙げると 

(1)大和の国長谷寺の開祖:徳道上人が仮死状態の中で冥界の閻魔大王に会い「日本に三十三の観音霊場がありこれを一度巡礼した者は十悪五逆の人でも極楽世界に行ける」といわれ、其れを広めるように宝印を賜わり論され娑婆に帰して貰った。 しかし上人の熱心な勧めにもかかわらず巡礼は興隆しなかった。上人はその宝印を石の箱に入れ中山寺の「石の唐戸」に埋めてその思いを後世に託した。 上人は三十三所巡礼の先達であるといえる。(中山寺縁起)

(2)次に最も有名な説として花山法皇(968〜1008)を中興の祖とする説である。

法皇は藤原兼家の策謀で天皇を退位させられた後、出家して書写山の性空上人に会いに行き巡礼再興の誓願を立て、永延2年(988)中山寺に埋められていた宝印を掘り起こし性空上人らを供として三十三所巡礼に旅立った。このときの旅が徳道上人が開いた巡礼を再興して西国三十三観音霊場巡礼となったと言う説。

しかし上記(1)(2)はともに伝説的で史実的な資料がない。

(3)これらに対して史実に基づく説としては、近江の国にある三井寺の僧で修験者として名高い行尊(1055〜1135)によって始められたという説「寺門高僧記」の「観音霊所三十三所巡礼記」によれば行尊が大和の長谷寺を一番にして紀伊 和泉 河内 摂津などを巡り山城国 御室戸寺 千手堂で結願している。

その日数は120日であった。この巡礼に対しては幾つかの問題があり速水侑氏は2、3の仮託と思われる点を 上げ疑問視している。

(4)これに対し十二世紀の半ばに同じ三井寺の僧 覚忠(1118〜1177)の遺した記録応保元年(1161)の「巡礼記」は史実に裏づけられた有力な資料で信憑性が高く覚忠の開創説が有力視されている。その巡礼は一番紀伊国那智山で始まり三十三番山城の国御室戸寺で終る75日間だった。

巡礼の創設にはこれらの諸説があるがこの頃修行僧達が盛んに諸国を廻り巡礼を行っていたし、その延長線上に高僧としての覚忠の巡礼が位置付けられたと見るべきで、この頃に三十三の霊場が固定化しかかっていたと捉えられ、その結果平安時代末期の十二世紀の初めには西国巡礼が成立していたとみることが出来る。しかし覚忠の巡礼した頃と現在の巡礼には1,2の違いがみられる一つは西国という名が当時はついていなかった事、 巡礼の順序が異なっていたことである。交通路の整わなかった鎌倉時代は一部の修行僧によってのみ行われていた巡礼が、室町時代から庶民が巡礼の旅に出始め空前の賑わいをみせ なかでも関東からの巡礼者が多くなった。すでに鎌倉時代の初めに坂東三十三霊場が、室町時代(15世紀末)に秩父三十三霊場が誕生していたことから関東の人は、西の三十三霊場に「西国」の名を付けて呼ぶようになり、巡礼の順序についても東国地方の巡礼者の多さが少なからず影響しており関東の人が巡礼する場合、伊勢神宮に参拝し熊野権現に参りその近くの那智山から観音巡礼をはじめ、その後熊野道の中辺路を西に出て紀三井寺に詣で 大和をへて京都に入る、京で休憩 見物 行楽後 京以西 以北の寺院を巡り近江に出て最後に美濃の谷汲で結願とした。 このように関東の人が巡礼に出かけやすく便宜を図ったとも言われている。巡礼順路の固定化については種々の資料から15世紀中頃の室町中期からと考えられ、この順序コースが現在まで続いているのである。