3.2       歴史年表解説(開基の年代と仏教伝来の歴史)

古墳時代

青岸渡寺の開基者裸形(らぎょう)上人は第16代仁徳天皇(在位:313〜399)の治世にインドから一行六人熊野の海岸に漂着した那智山に籠もり、那智の大滝にうたれること千日、その修行中に滝壺の中に黄金色に輝く丈八寸の観音仏の出現を見たという。仏教伝来は第26代継体天皇時代(在位:507〜531)の522年私伝説がある。この年代に西国三十三霊場1番の青岸渡寺が開基されている。

飛鳥時代

仏教伝来は第28代宣化天皇時代(在位:535〜539)の538年と第29代欽明天皇(在位:531〜571)時代552年の二公伝説がある。公伝二説中は日本書紀によると、日本に仏教が伝来したのは飛鳥時代、欽明十三年(552年)に百済の聖明王から釈迦仏の金銅像と経論他が贈られたときだとされている。しかし、現在では上宮聖徳法王帝説(聖徳太子の伝記)や元興寺伽藍縁起(元興寺のなりたち・変遷を記述したもの)を根拠に宣化三年538年に仏教が伝えられたと考える人が多いようである。仏教が日本に入る際に、次のような騒ぎが起こったと日本書紀に書かれている。欽明天皇が、仏教を信仰の可否について群臣に問うた時、物部尾輿と中臣鎌子ら(旧来の宗教勢力)は仏教に反対した。一方、蘇我稲目(渡来系)は「西の国々はみんな仏教を信じている。日本もどうして信じないでおれようか」として、仏教に帰依したい言ったので、天皇は稲目に仏像と経論他を下げ与えた。稲目は私邸を寺として仏像を拝んだ。その後、疫病がはやると、尾輿らは「外国から来た神(仏)を拝んだので、国津神の怒りを買ったのだ」として、寺を焼き仏像を難波の掘江に捨てた。
その後、仏教の可否をめぐる争いは物部尾輿・蘇我稲目の子供達(物部守屋と蘇我馬子)の代にまでもちこされ、第31代用明天皇(在位:585〜587)の後継者をめぐる争いで物部守屋が滅亡(587年)されるまで続いた。この戦いでは聖徳太子が馬子側に参戦していた。聖徳太子は四天王に願をかけて戦に勝てるように祈り、その通りになったことから摂津国に四天王寺(大阪市)を建立した。馬子も諸天王・大神王たちに願をかけ、戦勝の暁には、諸天王・大神王のために寺塔を立てて三宝をひろめることを誓った。このため、馬子は法興寺(別名飛鳥寺、奈良に移ってからは元興寺)を建立した。聖徳太子は法華経・維摩経・勝鬘経の三つの経の解説書(三経義疏)を書き、十七条憲法の二条に、「篤く三宝(仏法僧)を敬え」と書くなど、仏教の導入に積極的な役割を果たした。
第33代推古天皇(在位:592〜628)は公正な女帝で、聖徳太子を摂政に任命しその才能を十分に発揮させ、冠位十二階(603年)・十七条憲法(604年)を次々に制定して、法令・組織の整備を進めた。推古十五年(607年)、小野妹子を隋に派遣し、翌年からは入隋の使節に学問生・学問僧を同行させた。また、推古二年に出された、三宝(仏・法・僧)を敬うべしという詔が示しているように、女帝は太子や馬子と共に仏法興隆にも努め、斑鳩に法隆寺を建立させたりした。推古二十八年(620年)、聖徳太子と馬子は『天皇記』『国記』を編纂して献上したが、二年後には太子が四十九歳で薨去し、四年後、蘇我馬子も亡くなった。長年国政を任せてきた重臣を次々に失った女帝の心境は、老いが深まるにつれ寂寥なものであったに違いない。推古三十六年(628年)3月7日、女帝は75歳で小墾田宮において死去。死の前日に、女帝は敏達天皇の嫡孫・田村皇子を枕元に呼び、謹しんで物事を明察するように諭し、さらに聖徳太子の子山背大兄王にも、他人の意見を納れるように誡めただけで、後継者の指名は避けたようである。
この年代に西国三十三霊場の6寺院が開基(内4寺院が聖徳太子)されている。

白鳳時代

大化の改新(645)は飛鳥時代の第36代孝徳天皇時代(在位:645〜654)孝徳二年春正月甲子朔に発布された改新之詔(かいしんのみことのり)に基づく政治的改革。
天皇の宮を飛鳥から難波宮(現在の大阪市)に移し、蘇我氏など飛鳥の豪族を中心とした政治から天皇中心の政治への転換点となった。真の改革者だった蘇我入鹿を暗殺し、実権を握ろうとした中大兄皇子が起こしたという説があり、また、蘇我入鹿は皇位簒奪を狙っていたという説もある。
壬申の乱(じんしんのらん)は、672年に起きた日本古代の最大の内乱であり、第38代天智天皇(在位:668〜671)の太子大友皇子(おおとものみこ、1870年(明治3年)弘文天皇の称号を追号)に対し、皇弟大海人皇子(おおあまのみこ、後の第40代天武天皇(在位:673〜686)が反旗をひるがえしたものである。反乱者である大海人皇子が勝利するという、例の少ない内乱であった。第40代天武天皇時代(在位:673〜686)天武元年は干支で壬申(じんしん、みずのえさる)にあたるためこれを壬申の乱と呼んでいる。

大宝律令(たいほうりつりょう)は、8世紀初頭(701)に制定された日本の律令である。唐の永徽律令(えいきりつれい、651年制定)を参考にしたと考えられている。大宝律令は、日本史上初めて律と令がそろって成立した本格的な律令である。この年代に飛鳥京遷都(671)と藤原京遷都(694)が2回発生している。

第36代孝徳天皇(在位:645〜654)は仏教を奨励し仏教は国家鎮護の道具となり、天皇家自ら寺を建てるようになった。第40代天武天皇(在位:(673〜686)は大官大寺(のちの大安寺)を建て、第41代持統天皇(在位:690〜697)は薬師寺を建てた。

この年代に西国三十三霊場の7寺院が開基されている。

奈良時代

第44代元正天皇(在位:715〜724)の時代に寺院併合令(716)が発令され氏寺の取り締まりが強化された。

第45代聖武天皇(在位:724〜749)の時に仏教は頂点に達した。聖武は妻の光明皇后の影響から信仰に厚く、国分寺、国分尼寺の建造を命じ、大和の国分寺である東大寺に大仏を建造をした。そして聖武天皇は位を第46代孝謙天皇(在位:749〜758)にゆずり、出家した。出家した聖武上皇は三宝の奴とまで称した。仏教が定着するにつれて、実は日本の神々も仏が化身として現れた「権現」であるという考え本地垂迹説が起こり、様々の神の本地(仏)が定められ、神像が僧侶の形で制作される事があった。しかし、仏法が盛んになってくると、今度は戒律などを無視する僧などが増えたりしたため、聖武天皇の時代に鑑真が招かれた。鑑真は東大寺に戒壇を設け、僧侶に戒をさずけた。聖武天皇も鑑真から戒を授かった。鑑真は唐招提寺を建立し、そこに住んだ。

三世一身法(さんぜいっしんのほう)とは、奈良時代前期の723年(養老7)4月17日に発布された格(律令の修正法令)であり、墾田の奨励のため、開墾者から三世代(又は本人一代)までの墾田私有を認めた法令である。当時は養老七年格とも呼ばれた。

安史の乱(あんしのらん)とは、756年から763年にかけて、唐の節度使・安禄山とその部下の史思明及びその子供達によって引き起こされた大規模な反乱。

この年代に西国三十三霊場の11寺院が開基されている。

平安時代

その後これら寺院群は政治に口を出すようになった。第50代桓武天皇(在位:781〜806)は、彼らの影響力を弱めるために平安京に遷都し、空海及び最澄を遣唐使とともに中国に送り出し、密教を学ばせた。新しい仏教をもって、奈良の旧仏教に対抗させようとしたのである。最澄(天台宗)、空海(真言宗)には、それぞれ比叡山と高野山を与えて寺を開かせ、密教を広めさせた。中国では、仏教の出家が「家」の秩序を破壊するなど、儒教論理に合わないとされ迫害されたのに対し、日本では「鎮護国家」の発想の下、官僚組織の一員とまで化したのは興味深いことだと言える(僧正・僧都などは律令制で定められた僧官)。平安時代中期は釈迦入滅の二千年後にあたる。正法の千年・像法の千年の後、仏教が滅びる暗黒時代、すなわち末法(仏教で、仏の経のみが存在して悟りに入る人がいない時期のこと)の世が始まったと考えられた。末法の世にはどんなに努力しても誰も悟りを得ることができない。国が衰え人々の心も荒み、現世での幸福も期待できない。このことから、ひたすら来世の幸せを願う浄土信仰が流行した。貴族たちも阿弥陀仏にすがり、極楽浄土に迎えられることを願って来迎図などを盛んに描かせ、その究極として宇治の地に平等院を建立した。その鳳凰堂の姿かたちは、正に極楽の阿弥陀仏の宮殿(くうでん)を模したものである。

薬子の変(くすこのへん)は、平安時代初期に起こった事件である。第51代平城太上天皇(在位:806〜809)の変ともいう。平城太上天皇と第52代嵯峨天皇(在位:809〜823)とが対立するが、嵯峨天皇側が迅速に兵を動かしたことによって平城太上天皇が出家して決着する。平城上皇の妻の藤原薬子や、その兄である藤原仲成らが処罰された。

承和の変(じょうわのへん)は平安時代初期に起きた藤原氏による最初の他氏排斥事件である。

黄巣の乱(こうそうのらん)中国,黄巣を指導者とする唐末の大農民反乱(875〜884,乾符2〜中和4)。四川を除きほぼ全中国を戦乱にまきこみ,この乱で唐朝は実質的に崩壊した。

承平・天慶の乱(じょうへい・てんぎょうのらん)は平安時代中期に、ほぼ同時期に関東と瀬戸内海で起きた平将門の乱と藤原純友の乱の総称である。この乱の鎮圧を通じて、萌芽的な武士の初期世代の中から初期の正統な武士の家系が確立した。

安和の変(あんなのへん)は平安時代に起きた藤原氏による他氏排斥事件である。謀反の密告により左大臣源高明が失脚させられた。

平忠常の乱(たいらのただつねのらん)は平安時代に房総三カ国(上総国、下総国、安房国)で起きた反乱。平忠常が乱を起こし、朝廷は討伐軍を派遣するが3年にわたって鎮圧できなかった。有力武士の源頼信が起用されるに及び忠常は降伏した。この乱により房総三カ国は大いに荒廃した。長元の乱ともいう。

第65代花山天皇(法皇)(在位:968〜1008)は出家後は比叡山・熊野・播磨書写山を転々とし、厳しい修行勤めた。これが西国巡礼の始まりと言われている。

この年代に西国三十三霊場の8寺院が開基されている。

鎌倉時代

鎌倉時代に入ると、前時代末期からの動乱で仏教にも変革がおきた。それまでは国家や貴族、研究のためのものだった仏教が、民衆のためのものとなっていったのである。主として叡山で学んだ僧侶によって仏教の民衆化が図られ、新しい宗派が作られていった。これらの宗派では、それまでの宗派と違い、難しい理論や厳しい修行ではなく、在家の信者が生活の合間に実践できるようなやさしい教え(易行)が説かれている。これらの中には、「南無妙法蓮華経」と唱えることで救われるとする日蓮宗、「南無阿弥陀仏」と念仏を唱え続ける(称名念仏)ことで救われるとする浄土宗、浄土宗からさらに踏み込んで「善人なをもて往生を遂ぐ、いはんや悪人をや(善人でさえ往生できるのだから、悪人が往生できるのはいうまでもないことだ)」という悪人正機の教えを説いた浄土真宗(一向宗)は踊りながら念仏をとなえる融通念仏や時宗があった。このように鎌倉時代には乱立ともいえるほど新しい宗派が誕生した。これらの宗派は、定着するまで例外なく既存の宗派に弾劾されたが、同時に旧宗派の革新も引き起こした。弾劾の中でも日蓮宗の日蓮は過激なことで知られ、他宗を非難し御題目を唱えなければ国が滅ぶと言い、幕府に強く弾圧された。しかし民衆に浸透し一般化すると、この弾圧も次第に沈静化していった。鎌倉時代は、武士が貴族から権力を奪い、力を着々とつけていた時代でもあった。この時代には臨済宗と曹洞宗という二つの禅宗が、あいついで中国からもたらされた。力をつけつつあった武士に好まれたことから、鎌倉などに多くの禅寺が建てられ、大いに栄えた。この代表的なものを鎌倉五山という。また、虎関師錬が仏教史書である『元亨釈書』を著した。

南北朝-室町時代

1333年に鎌倉幕府が滅亡し、南北朝時代から室町時代には政治的中心地は京都に移る。鎌倉幕府滅亡後に第96代後醍醐天皇(在位:1288〜1339)により建武の新政が開始されると、五山は鎌倉から京都本位に改められ、京都五山が成立する。足利尊氏が京都に武家政権を成立させると、以前から武士に人気のあった禅宗の五山が定められ、臨済宗は幕府に保護される。室町時代の初期には南禅寺などの禅宗と旧仏教勢力の延暦寺などの天台宗は対立し、初期の幕府において政治問題にもなる。また尊氏の天龍寺船の派遣に協力した夢窓疎石や弟子の春屋妙葩は政治的にも影響力を持ち、彼らの弟子僧が3代将軍の足利義満時代に中国の明朝と日明貿易(勘合貿易)を開始する際には外交顧問にもなる。このような武家と仏教界の接近は貴族文化および武士文化の影響を及ぼし義満の時代の鹿苑寺(金閣寺)など北山文化や足利義政時代の慈照寺(銀閣寺)など東山文化に融合のあとをみることができる。室町時代の文化には仏教に影響された水墨画・書院造・茶の湯・生け花・枯山水の庭園など、後世に残る多くの作品が生まれた。曹洞宗は地方や庶民の間で影響力を持った。京都の都市商工業者の間では日蓮宗が普及した。この時代の布教者としては浄土真宗の蓮如や日蓮宗の日親などが有名。浄土真宗の蓮如が叡山などの妨害を乗り越えて再興し、作り上げた本願寺教団は、門徒と呼ばれる強大な信徒集団を獲得し、応仁の乱後守護大名に取って代わった戦国大名に匹敵するほどにまでなった。

応仁の乱(おうにんのらん、1467年(応仁元) - 1477年(文明9))は、室町時代の8代将軍足利義政のときに起こった内乱。幕府管領の細川勝元と、山名持豊(出家して山名宗全)らの有力守護大名が争い、九州など一部の地方を除く全国に拡大、影響し、戦国時代に突入した。応仁文明の乱(おうにん・ぶんめいのらん)とも呼ばれる。これにより主要寺院はことごとく焼失し貴重な文化遺産を無くしている。

一向宗とも呼ばれるように、彼らは信仰の下に団結していて、旧来の守護大名の勢力を逼迫していった。中でも、加賀国一揆や山城国一揆等の一向一揆が有名で、数々の守護大名を圧して自治権(主に徴税権と裁判権)の拡大を行った。そのため、支配を拡げようとする戦国大名はこれらの勢力と妥協するか対立するか選択を迫られ、多くが妥協の道をとった。しかし、織田信長などは徹底的に弾圧したため、大阪本願寺が落とされて以降、沈静した。また、織田信長は日蓮宗の僧と浄土宗の僧と宗論(安土宗論)させ、浄土宗に軍配を上げた話も有名である。この宗論は日蓮宗が他宗と対立することを抑えようとして、浄土宗に有利な裁定を下したとされている。一向宗の勢力が強かった三河でも、若き日の徳川家康が弾圧を行い、家中が二分する争乱となっている。諸国の一向一揆の中でも特に伊勢長島の願証寺は織田信長に頑強に抵抗し、後に織田信長から大虐殺を受け壊滅した。諸国の一向門徒の総本山であった石山本願寺は、さながら戦国大名家のような強固な組織となったが、顕如の時代に織田信長と対立、「石山合戦」と呼ばれる前後十年(途中の休戦を挟む)に及ぶ泥沼の戦争を経て、石山から退去した。織田信長が石山の地に天下を支配する城を築こうとしていたためと言われ、本能寺の変における織田信長の死後、豊臣秀吉が遺志を継いで大坂城を建設している。顕如の子の代に浄土真宗は兄・教如と弟・准如が東西本願寺派として分裂したが、これは徳川家康が本願寺勢力の再起を嫌って故意に分裂させるための政策だったと言われる。

安土桃山時代

織田信長は天下統一時兵士の隠れやすい神社・仏閣を先遣隊に焼き討ちさせ貴重な歴史資産を消滅させている。豊臣秀吉は石山本願寺跡に大坂城を建てたが、彼は基本的に寺院勢力との仲を良好にしようとした。中でも寺院の被害が激しかった大和には弟豊臣秀長を派遣し、円満にまとめ上げた。

江戸時代

豊臣秀吉の死後に権勢を掌握した徳川家康は、寺社奉行を置き、仏教を取り締まった。また、人々には必ずいずれかの寺院に登録させるようにした(檀家制度)。1654年に来日した明の隠元は黄檗宗を布教する。当時最大の仏教勢力であった浄土真宗に対しては、お家争いにつけ込んで東西に分裂させ、結果的に勢力を弱体化させた。この時期一般庶民の霊場巡礼が盛んとなり芭蕉の句碑・広重・豊国などの浮世絵観音霊験記などに残されている。