まえがき

 ひとびとは、昔からよく旅に出かけた。心の中にさまざまな願いを秘めながら、旅のうちに仏を見出し、ご利益によって苦しみや悩みから救われることを夢みて。このような庶民の旅の姿が、巡礼・遍路という慣わしとなって広がり、長い歴史を超えて今日まで伝わってきた。

 現代の社会においては、便利と効率を追い求め、すべてのことを安直にし遂げることを以って目標としてきた。揚句は、いかに経済効率をあげることができるかが目的となり、そのためには、時に自然を傷めることさえ顧みられなくなったのである。その結果、綺麗な空気も、清冽な川も、緑豊かな山も影をひそめる事態を招いた。

 元来、人間も自然の申し児であるから、自然の欠如は、物は充ちても心が欠け、満腹はあっても、満足を知らぬ思いを抱かねばならなくなった。

 この充ちたる胃袋(Full Stomach)、空虚なる魂(Empty Soul)が充満する現代においてわたくしたちのグループ「みちしるべ」は、自然への回帰、原点への復帰を声高に叫びたい。

 本来巡礼・遍路とは、心身をリフレッシュする再生への願いを秘めている。

 わが国において現代まで脈々と続く、この巡礼の歴史に興味を抱く者たちが集まり、「わが国の伝統ある福祉文化の探求」をテーマに掲げ、その調査対象として、上述の理由から、巡礼・遍路道として、わが国でもっとも古い巡礼といわれる「西国三十三観音霊場」を選定した。

 今、わたくしたちは、長い歴史の流れの底にいきづいてきた、庶民の心の世界をかいまみると共に、庶民の手で根強く守り続けられ、発展させられてきた巡礼は、ひとびとの世界を具体的な姿で、わたくしたちにみせてくれる。

 巡礼は、札所とよばれる由緒ある寺(霊場)を、つぎつぎと巡って行く旅の姿である。その旅の道すがら、巡礼・遍路は、ひとびとを迎える村や町の方々と、さまざまにかかわりあう。札所を点とするならば、長い道中は線のたとえられる。

 点と線で結びつけられたこの巡礼の世界を、点としての札所(霊場)をたどることによって窺い知ろうとするのが、わたくしたちのグループ学習「みちしるべ」のめざすところである。

 人はこの世で生きて行く間にいろいろなことに出遭う。

 ある日突然、永年つれ添ってきた夫や妻が他界したり、ようやく育て上げたひとり子を事故で失うなど、考えてもいなかった不幸に見舞われ、人は途方にくれ、どうしたら心の動揺をいやすことができるか迷う。そして、この世を去った縁者に納得のゆく慰めをするにはどうしたらよいかとまどう。また、日頃せわしい雑事におわれ、人生を無為にすごしていると、ふと、我にかえって、なにものにもとらわれず、こだわらないで自分自身を見直すことのできる時間と空間はないものかと探し求める。こうした時、いままで無縁な別世界の旅とばかり思っていた巡礼・遍路の旅が身近に感じられ、この迷いや苦しみから抜け出て自分も旅に出たいと思う。

 どこを見ても真暗であった日常に、ほのかな光が差し込んでくる。

 わが国には、千数百年も昔から、ありとあらゆる迷いや苦しみを持った人々が解決への願いを込めて旅する巡礼・遍路というものがあり、それらはみな現代においても、脈々と、継承され続けている

 心の不安や悩みを解決したい、病気を治したい、家庭の不和を解決したい、縁者の供養をしたい、経済的なゆとりがもてるように等々、さまざまな願いを持った人たちが、ひとたび巡礼・遍路道をたどりはじめると、そこには、いまなお美しい自然が生きており、道行く中で、心打つ人情にふれ、慈悲あふれる観世音や、お大師さまの心を知ることにより、せまい日常から離れ、悩みや苦しみもなくなり、これからの人生に広い世界がひらけてくる。

 巡礼・遍路は、我を捨てる修行だとも言われる。そして巡拝しているなかで、心も身体も洗われて、人間本来の姿に戻ってゆく。(巡拝中にいったん死んで、道中生まれ変わる=擬死再生)人は独りでは生きられない。あらゆるものによって生かされていることを教えられる。

 座右の地図をたどりながら、みそひともじのご詠歌に無常と救いの声を聞き、縁起のなかにご利益と霊験のあかしを思い、みずからの足にまかせて、霊場を打ちまわるのも、意義深いことである。

 巡礼は、まさに非日常的な旅の姿である。しかし、殺伐たる『今』の世界に生きるわたくしたちが、日本人が古くから抱いてきた旅の心を巡礼のなかに見出し、わたくしたちグループの全員が、それぞれ、みずからを振り返り「人生を見つめ直し、これからの生きる方向をさぐる」巡礼の旅になることを願う。

調査研究項目については、目次各章に掲げる通りである。