広重浮世絵33霊場           次ページ          

33番 華厳寺                        観音霊験記サイト

浮世絵説明
御詠歌(上段)
よろづ世(よ)の願(ねが)ひをこゝに納(をさめ)おく 
水(ミづ)は苔(こけ)より出(いづ)る谷汲(たにぐミ)
けさまでは親(おや)とたのみしおひづるを
 ときやおさむるミのゝたに汲(ぐミ)
十一面堂(上段)
本尊十一面観音を安置する。
建武元年(1334)に本堂を残し、兵火のため堂宇を焼失した。
文明十一年(1479)諸堂を再建。現在の堂は明治以降の建立になる。
金商人 大倉信満(下段)
信満は奥州の者で、毎年都へ商売に行くたびに熊野へ参詣し、
それは三十三度に及ぶ。「その供養として観音の像を造りたい」
と念じたところ、奥州永井の文殊菩薩が童子に化現し、
神木の榎を用いて十一面観音の像を造って与えられた。
信満は歓喜のあまり、奥州から三百金を取りよせて
御室の辺で供養した。
そして故郷へ持ち帰る途中、美濃国垂井の庄(今の谷汲)で仏像が重くなり、
盤石のようになって動かすことができなくなった。
「ひょっとするとここが仏縁の地なのではないだろうか」と、
そこで当所に御堂を建立したところ、実に霊験は日々にあらたかで、
そこが三十三番の結願所となった。西国順礼は、
花山法皇が長徳元年三月十五日に熊野に至り、六月朔日にこの谷汲へおいでになった。
この七十五日間を、人々は順礼のはじめとしたのであり、その功徳は広大である。
いずれの仏にも慈悲のないものはないが、観音は大慈大悲の菩薩でいらっしゃるので、
深く信心をするべきである。本当に畏れ多いことである。

この[観音霊験記]の特色は、名所旧跡の景観だけでなく、
戯作者万亭応賀(まんていおうが)(本名・服部孝三郎)による
文章を収載する点にある。

 浮世絵師2代広重・3代豊国・国貞の共同作業によって描かれたこの大判錦絵は、
安政5年(1858)から順次刊行をみて巷間に流布した。

 この作品の魅力は、きわめて具体的な霊験を紹介しながら、
札所本尊の由来を説くことである。現代人から見れば、
いかにもにわかに信じがたい話が多い。
絵師は、仏、菩薩の示現はもとより、異形・異類が跳梁跋扈する
奇瑞をみごとに切り取り、ぼかしや空刷、雲母ふりかけなどの技法を用いて
非現実のものを視覚化し表現している。

 この[観音霊験記]は、西国・秩父・坂東の三観音霊場(百観音)について
各一枚とした都合百枚であったと考えられる。
ただし残念ながら、坂東の18ヶ所についてはいまだ見いだされていない。
遺品が確認できない札所については、梅堂國政の絵に作者を同じくする
『坂東順礼三十三所目録』(国際日本文化研究センター所蔵)で補った。

 画面構成は、竪大判の上段に扁額を形どった境内図と御詠歌を記し、
下段にはそれぞれの札所ゆかりの縁起を印刻して、
霊験譚中の登場人物を芝居絵のごとく描いていることで、全作品に共通している。

この作品に限らず、浮世絵のうち多色刷りのものは、錦絵と名付けられ、
引き札(ひきふだ)とも称されて、歌舞伎の上演告知の役割を負っていた。
現代ならさしずめ映画のポスターや雑誌を彩るグラビアが相当するであろう。
扁額内部には寺院の景観をおさめ、下方には札所寺院の霊験譚が、
歌舞伎の演目のごとく描かれている。

 わたしたちも、画師のたくらみにのり、
[観音霊験記]を解読することで観音の霊地にまつわる伝説を旅し、
仮想世界の巡礼を体験することができないだろうか。

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